ユタ準州開拓史――社会形成と連邦政府との関係を中心に――

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 本論文は高橋先生のご厚意をいただき、当サイトに転載の許可をいただいたものです。

目次

序――本研究の位置付け
ユタ開拓前史
ヤングの覇権確立の過程
モルモン社会の特質
準州承認までの過程
連邦政府との対立
モルモン・リフォーメーションとテロリズム
結語に代えて――ユタの歴史をどう見るか

 

序――本研究の位置付け

 州に関する研究は、日本ではカリフォルニア、ハワイ等の例外を除いては殆ど蔑ろにされている研究分野であるが、アメリカ合衆国(以下、アメリカと記す)理解には不可欠である、と筆者は考えている。【注1】本論文では、その具体的例として「ユタ州」を取り上げ、ユタの特異な開拓とその後の展開、そこに登場する人物を描き出してみた。ユタは西部山岳州の一州であるが、その歴史はテキサスやカリフォルニアに負けずと劣らぬ特異で興味深いものである。また州の歴史が連邦国家の歩みといかに深く関わっているかという点も併せて考察する。
 さて、本論文では考察対象を、ユタへの本格的な開拓が開始された当初15年――ユタ形成の原理が決定的になった時期――に限定した。開拓の時期はメキシコ戦争やゴールドラッシュと同時代の年代後半であり、入植したのはブリガム・ヤングという男に導かれるある宗教グループであった。古典的な観方によれば、モルモン教徒の西部移住の物語は、迫害を受けた宗教的マイノリティーが宗教的自由を求めて殆ど不可能とも思われる長期間の旅を忍耐に忍耐を重ね、信徒同士が助け合いながら、不屈の精神をもつヤングという男によって導かれ、ついに理想の教団を西部に打ち立てたという美しい西部開拓奇譚として語られている。とりわけ、旅を続けるモルモン教徒が後続部隊のために、向日葵の種を道すがら一つづつ蒔いていったので、その花が咲いたとき一列の向日葵の花が大草原にはてしなく伸びていた、とか、ヤングは身寄りのない女性や子どもを引き取ったことが多妻婚の始まりであり、困難な時期に取られた一時的な措置にすぎない、云々である。
 しかしこうした物語は、モルモン教会が自らのイメージアップのために「リーダーズ・ダイジェスト」誌等の紙面を買い取ってばら撒いた宣伝物語であり、その物語自信は歴史的根拠に乏しい「説話」に過ぎない。これから述べるように、この集団はユタに理想社会(国家)の建設を目指していたが、紆余曲折の後、そこに形成されたのは多妻婚を実行する閉鎖的な宗教共同体であり、また指導者ヤングがその集団の宗教、政治、経済のすべての分野に君臨する社会であった。ヤングの独裁政治と多妻婚は連邦政府との摩擦・衝突へと発展し、ヤングによる宗教・世俗の両面にわたる統治については、共同体の内外から反発や批判が起きた。これに対してヤングは共同体内部の異分子に対しては恐怖政治をもって臨み、外部からの干渉に対しては私設の自警団をもって対処するという暴力路線をとった。ユタにおける経済的自立と政治的自由、宗教的理想の実現をめざした大掛かりな実験は、同時にヤング個人の経済的成功、政治的覇権の確立、宗教的権威の拡大の実験でもあった。
 一般国民の公的福利よりも個人(私企業)の利益が優先される歴史は、アメリカでは常に繰り返される歴史である。とくに十九世紀後半は「ギルデッド・エイッジ」の時代で、アンドリュー・カーネギーに代表される実業家が私企業を興して巨大な富を築いた時代で、この文脈から考えれば、ヤングを権力欲と物質欲に取り付かれた興味深い例外と見るのは誤りであろう。小規模ではあるもののユタでなされた実験は、ある意味では、アメリカ社会そのものを映し出す鏡であり縮図なのである。

ユタ開拓前史

  開拓が始められる以前のユタの風景は、ごくありきたりな西部の風景であった。ユタは先住民の土地であり、狩猟を生業とする男どもがそこを訪れ先住民と毛皮の取引をしたり、また時折探検隊がユタを通過したり、あるいはカトリック教会から派遣された宣教師たちが伝道の拠点を築くために調査をしていた。その土地はスペインの土地であり、スペインが撤退してからはメキシコの土地であった。アメリカはまだミシシッピの遥か東に位置していた。時間はゆっくりと流れていた。【注2】
 しかし1847年の夏,この土地に突如として白人開拓民の一行が現われた。それから毎年数千人単位で白人がやってきた。開拓民の数は1850年には1万人強、1860年には4万人、1870年には9万人に上った。彼らは主としてアメリカ東部からの開拓者とイギリス移民で、みな一つの宗教の改宗者であった。モルモン教徒と呼ばれる彼らは、ミズーリやイリノイで地元住民や州政府との間でさまざまな摩擦と紛争を引き起こし、最初の教祖(グル)の死とその土地からの追放という憂き目に遭遇した。急遽、信徒たちは家財道具をまとめて旅立つことになり、艱難辛苦のすえロッキー山脈の懐ユタに安住の地を見いだしたのである。早春にミシシッピ川を渡ってから、ユタ盆地に到着するのに早いグループで一年半を要した。たいていは家族ぐるみ(当然、老人や子ども、女性も一緒だった)の移動はあちらこちらにキャンプ地を設け、休養をとりながらの長旅で、食糧が底をついたり早い冬将軍に遭遇したりで、途上で一命を落とす者も多かったという。【注3】
 漸く辿り着いた土地はユタ大盆地と呼ばれる砂漠地帯で、穀物を育てるのに適した土地ではなかった。農地のためにはロッキーの山裾の狭い土地を開墾した。しかし次々と到来するモルモン教徒や移民の群れのために土地の開墾と家屋の建設は最優先の課題であった。このようして今日のソルト・レーク・シティー周辺の砂漠地帯に、ロッキーの山間を流れる川から灌漑を施し、農地開墾の遠大な計画が実行された。この東部からの大移動の指揮とユタ開拓の指揮をとったのが当時45歳のブリガム・ヤングという男である。
 さて、以下の紙面において、初期の歴史資料を中心に社会学的分析を試みる。

ヤングの覇権確立の過程

  “It is with the greatest of joy that I forsake this republic; and all the saints have abundant reasons to rejoice that they are counted worthy to be cast out as exiles from this wicked nation” Orson Pratt 「私はもっとも大きな喜びをもってこの共和国(アメリカ)を見捨てる。またすべての聖徒(モルモン教徒)は、この邪悪な国家から追放されて亡命者となることが、(神に)ふさわしい人間と見なされたわけで、彼らにはそのことを喜ぶ幾多の理由がある」 オーソン・プラット(モルモン教団トップ指導者の一人)
 モルモン教の教祖ジョセフ・スミスの死後、その後継者となる有力候補者は複数存在したが、ブリガム・ヤングは最有力候補者ではなかった。スミスは実弟のウイリアム・スミスを後継にすると語っていたし、シドニー・リグダン、アマサ・ライマンなどの有力人物が存在した。しかしスミスは牢獄で殺害されたため、強力なカリスマを失ったこの宗教グループはスミス派とヤング派に分裂したが、ヤングが指導権を把握した後、スミス派だったウイリアム・スミス、シドニー・リグダン等が教団を去ることで、またアマサ・ライマンやヒーバー・キムボール等はいち早くヤングに恭順を示すことで一つになった。イリノイから追放された不安定な宗教グループは、結局、スミスの実子ではなく、堅実な実業家タイプのブリガム・ヤングを当座の指導者として選び、彼らの命運を彼の手に預けた。ヤングは後継者になるための画策を目論んだと思われるが、この事情の説明は省く。【注4】
 イリノイのモルモン教徒の町ノーヴーにいた数万人の信徒のうち約半数がヤングに従ったとみられている。ヤングは一万人を超える信徒たちを数年がかりで、多大な犠牲を払ったすえ、ロッキー山中のユタ大盆地に導いた。この旅は彼らの信仰を実現できる安住の地への旅であると信じられた。実際、その後に経験した長い移動や病気、飢餓、悪天候などを考えれば、堅い信仰なしには不可能な移動だったであろう。この成功でヤングは教団の中枢から大きな信任を得た。ヤングがその後強力な権力を握る第一歩である。
 なぜヤングがユタをモルモンの定住地として選んだのか、その理由は何であったか。それを知る一つの手掛かりがサム・ブラナンである。【注5】 当初、教祖スミスはテキサスへの移住を真剣に考慮しており、テキサス共和国との仮契約も済んでいた。しかしスミス亡き後、ヤングはテキサス移住案を無視し無人の西部に興味をもった。ヤングの選択肢はカリフォルニアかロッキー山脈の山中であった。どちらもアメリカ人の住んでいないメキシコ領であった。1845年,サム・ブラナンという男がヤングからある要請をうけた。それは、モルモン教徒の一団を引き連れて当時まだメキシコ領土であったカリフォルニアへ行き、そこが果たしてモルモン教徒の開拓地にふさわしい場所かどうかを調査してもらいたいというものであった。当時、カリフォルニアを含めたユタ、オレゴン、アイダホ、ネヴァダ一帯はアパー・カリフォルニアと呼ばれ、今日のような区分が確立していなかった。そのアパー・カリフォルニアこそ、ヤングが移住先として検討していた最有力候補地の一つであったわけである。そこでブラナンは、238名のモルモン教徒を集め、一艘の船を借り切り1846年2月4日にニューヨーク港を出帆した。一向は、1846年7月9日にヨーバ・ブエナ(今日のサンフランシスコ湾)に到着した。彼らの移民によってサンフランシスコの人口が3倍になったとか、6倍になったと言われている。また彼らは英語を話す最初の移住者だったという。ブラナンは、サンフランシスコがモルモン教徒の定住先として大変ふさわしい場所であることを確信し、そのことを説得するために陸路ブリガム・ヤングに会うために出発し、今日のワイオミングのグリーン・リヴァ―で再会を果たす。しかしヤングはカリフォルニア移住案を一蹴した。理由は、サンフランシスコはモルモン教団が第一に求めていた世界からの隔離・孤立を入手できないからだ、ということであった。指導者ブリガム・ヤングが理想の土地として選んだ場所は、人の住まない不毛の土地ソルトレーク大盆地であった。テキサスが回避されたのは、そこには既に多くのアメリカ人開拓者が定着していたからに他ならない。ヤングがなぜそこまで孤立を選択したかは、彼の覇権確立の過程で明らかになる。

モルモン社会の特質

 モルモン教徒の集団がどのような社会を形成していったのか、その形成過程にはどのような力学や原理が働いたのだろうか。ユタのモルモン教団は、ある宗教が純粋な宗教社会を形成した場合どのような社会を作り上げるのかという格好の事例を提供している。既述したように、ヤングは意図的に一般社会から隔離され孤立した宗教教団を確立しようと努力していた。それは過去に世俗の法律や権力によって宗教的理想の追求が妨害されたという経験から学んだからであり、今度こそは世俗の権威からは自由な宗教的理想を実現したいという熱意の表れであろう。スミスやヤングの考えでは宗教は世俗の上位概念である。では彼らの追及する理想とはどんなものだったのか。それは第一に、神の原理が支配する国家・社会の建設である。すなわち、神と信徒の中間に立つ(大管長と呼ばれる)グルが神の代理人として語りそれが実行される宗教が統治形態である社会、即ち、神権政治の確立である。第二に、それはまた、神の法が地上の法となる社会である。即ちグルの声がそのまま神の声である社会、グルが信徒にたいして無限の権力を行使しうる社会である。第三は、従って、彼らがそれまでに神聖な原理として確立してきた多妻婚を、世俗の法とは無関係に実行しうる社会である。こうした宗教的理想のなかに既に、グルであるヤングが一般信徒のうえに絶対的な権力を振うことを許容する素地があり、実際、ヤングに絶大な支配権の確立を容易にさせたのである。【注6】 そのことを簡単に説明しておこう。
 モルモン教の歴史をひも解けば、教祖に関する既述が時間とともに進化していくのが解かる。教祖であるジョセフ・スミスは、初期は神の目に適った信心深い少年であり、次は神から神聖な書物を預かった男、それを翻訳した男、新しいキリスト教会を創設した改革者である。しかし、スミスは次第に神の「啓示」を見たり聴いたりできる「メッセンジャー」として自分を位置づけていく。スミスは次第に「預言者、(神のように)あらゆる事柄を見通す者、(神の)掲示の受け手」であると主張するようになる。また(神に代わって)神の呪詛と祝福を与える存在として、いっそう神に近い存在となり、信徒のうえに絶大な影響力をもつようになる。スミスはグルとして神の啓示を語り、啓示の中で住居を要求すれば、信徒は直ちに住居を提供した。またグルがある人物を敵と宣言すれば、その生命は直ちに神の名によって闇に葬られた。それが合法的な行為かどうかが問われなかったのは、神の法が世俗の法より優れていると教えられたからである。神の言葉を素直に信じた者には祝福が語られた。こうしてグルは神に代わって祝福と呪詛を民に与える神の代理人となったのである。
 このスミスの姿の中に、新興宗教の担い手たるグルの一つ典型を見ることができるであろう。ヤングがスミスの後継となったとき、モルモンのグルは信徒集団の上に独裁的なまでの権威を揮えるまで進化・発展を遂げていたのである。
信徒集団は、ある意味で軍隊に似た組織に編成された。一般的には一つの町や村が、ワード(
ward、これは大隊Battalionに相当、カトリックでいえば教区に相当)と呼ばれる単位を作り、そこにワードをまとめる監督(bishop)が置かれた。ワードの中はさらに執事や教師といった役割が分担された。ワードは四、五百人の単位であるが、人数が増えると新しくワードが作られた。ソルト・レーク・シティには十九のワードが作られた。ワードがいくつか集まるとステーキ(stake、これは連隊Regimentに相当)がおかれ、ステーキ部長(stake president)がその責任に当たった。その上には直接に教団本部が置かれ、教団全体の指揮にあたった。教団本部はトップ指導者である大管長会First Presidency(大管長,presidentと二人以上の副管長,councelor)、その下に数人から十数人の使徒(apostle)がいた。地域毎の生活と霊的指導はワードの監督の手に任されていた。
 信徒はすべてワードに属し、そこの指導者(監督)によって指導を受けた。監督は、彼に従属する多くのリーダーとともに、そのワードに属するすべての信徒のために、こと信仰のみならず、ワード内の経済、福利厚生、信徒の衣食住にわたる物理的側面においても責任を負っていた。そうした労苦によって、監督は信徒たちからの信頼をも勝ち得ることになった。

準州承認までの過程【注7】

 “The kingdom which we are establishing is not of this world, but is the kingdom of the Great God.” Messages of the First Presidency 「われわれが設立しようとしているものはこの世の王国ではない。それは偉大なる神の王国である」大管長会のメッセージ
 ヤングは初め世俗の議会や裁判所等を作るつもりはさらさらなかったようである。そうしたものは不必要であるとみなされた。第一に、エピグラフにもあるように、彼らが作ろうとしていたものは完全な自由が享受できる独立国家であったこと。独立国家であれば単一の統治形態をもてば事足りるからである。第二に、外部からの干渉や権力を無視できたこと。彼らが移動した先はアメリカの干渉の届かないメキシコ領であった。しかもメキシコ政府は遥か彼方にありモルモンの集団に無関心であった。また仮にモルモン集団に干渉すべき問題が派生したとしても、地理的な距離が簡単に干渉を許さなかった。第三に、彼らは既に、宗教的「神の国」と呼ぶモルモン教団が支配する統治形態をもっていたこと。仮にユタが独立国家として承認を受けた場合、教会がそのまま信徒を統治する教団支配国家となるはずであった。イリノイのノーヴ―での実験のように、教会のルールは神が与えた崇高なルールであり、それはイリノイ州法や連邦法をも凌駕する一段上位の法であると説明され、信徒たちにとっては最優先されるべきルールであり法であった。教団のルールに対する違反は宗教裁判所がそれを裁き、私設の自警団が警察や軍隊として機能した。モルモン教が発生して以来、その集団の行く先々で引き起こされた数々の不法行為や法の無視、世俗の権力や軍隊との衝突は、モルモン集団が無法者の集団だからではなく、彼らには世俗の法よりも優れた神の原理があり、そうした原理に従うことこそ崇高な行為であると信じられていたからである。
 ユタへ集団脱出を試みたのは、一つにはアメリカ領土内での世俗との闘争に敗北したからであり、第二に、それ以上に、純粋に神の法が支配する「神の国」を建設したいという熱意の表出である。こうした点からすれば、さしずめヤングはモルモン教徒にとって、奴隷であった民をエジプトから解放し約束の地に導いたモーゼであった。仮にユタのモルモン教徒がそのまま30年間、外界から完全に隔離されていたなら、彼らの理想とする「神の国」建設、つまり宗教的な独立国家が実現した可能性は想像以上に高かったであろう。
 しかし、ヤングの独立国家建設の夢はユタ到着早々に破れることになる。第一は、翌1848年、メキシコ戦争が始まり、メキシコ領だった広大な土地(ユタやカリフォルニアを含む)がアメリカ領土になったこと。第二は、ユタが物理的にアメリカ領土の一部になった結果、棄てたはずのアメリカ社会との、とりわけ連邦政府との関係が復活したことである。以下、この点について述べる。
 メキシコ戦争は、テキサス共和国の領土区分をめぐるメキシコ政府との紛争に端を発し、やがてアメリカ政府を巻き込む戦争へと発展し、1848年2月、ガダルーペ・イダルゴ協定で終結した。その結果、ユタ、カリフォルニア、ニュー・メキシコ等を含む広大な土地がメキシコからアメリカに譲渡された。ユタがアメリカに編入されたことは、ヤングにとって悪夢であったに相違ない。独立を求めて国外に脱出したはずが、一年も経ずにそこがアメリカ領土になったわけで、この時点で独立国家の夢は潰えたのである。次善の策は、独立州として連邦政府から承認を受け、彼らの欲する自治権を獲得することであった。ガダルーペ・イダルゴ協定から13ヶ月後、ヤングは州承認に向けて重い腰をあげた。州としての独立を獲得するために、形式上、議会と裁判所、行政府を作り、憲法を制定する必要があった。
 かつて(ユタ定住以前の)イリノイ時代のモルモン教団には、教団組織とは別個に、モルモン政権が樹立した場合を想定して、シャドウ・キャビネットである「カウンシル・オヴ・フィフティ」が作られていた。この「カウンシル・オヴ・フィフティ」のメンバーは、スミスの腹心の部下や側近、信頼するボディーガード等から構成されていた。スミスの死の一年後、ヤングは新たに自分が信頼しうるメンバーから成る「カウンシル・オヴ・フィフティ」を作りあげていた。ただしヤングの計画では、独立国家が建設されて教団支配の体制が実現すれば、もはや世俗の政治形態をとる必要がなくなるはずであった。そうなれば政権を予想した「カウンシル・オヴ・フィフティ」は不要になるはずである。単一の統治形態を好んだヤングは、スミスの死後、影の支配者集団であった「カウンシル・オヴ・フィフティ」の弱体化を図った。その代わりとして教会の組織を一本化し、教会幹部が直接宗教面と世俗面に関わるようになった。
 さて、ヤングは連邦政府からの独立州を獲得するために、急遽、この世的な政治形態を組織する必要に迫られた。「カウンシル・オヴ・フィフティ」は既に有名無実になっていた(後日、「カウンシル・オヴ・フィフティ」は必要に迫られて復活するが、これは稿を改めて論ずる)。そこで、教会組織がそのまま州のための組織作りに安易に援用された。しかし、このような宗教組織と公的な組織が区別されずに渾然一体となったユタの社会は、しかもヤングがその総てにおいて独裁的支配権を維持していることが、やがて連邦から派遣されてユタに赴任してきた連邦役人から疑惑の目が向けられることとなる。連邦役人の最大の任務は、何よりも、準州が連邦国家の一員として連邦を支持していること、連邦憲法が遵守されていること、そして、準州に住むすべてのアメリカ人の権利が保障されていることである。しかし連邦役人からすれば、ユタはこの総ての面において失格であるように思われた(後述)。また、ユタにたいする批判を公にした際に、教団幹部の指示によるモルモン自警団やならず者による脅迫や恫喝が繰り返され、これが連邦政府とユタとの対立・紛争(その最大のものが1857年の「ユタ戦争」)へと発展することになった。
 話を再び元にもどす。ヤングは独立州獲得のために教会幹部を召集し、州法を作り、議会を設立し、選挙を実施した(しかしこの選挙は告示がなく、限定されたモルモン教徒以外は投票していない事実が明るみに出、問題となった)。ユタの名称を「デザレット州」と決定し、連邦議会工作のために代表も派遣された。このときに教団から連邦議会に派遣されたのはジョン・バーニゼルで、後からアルモン・バビットが加わった。またこの議会工作には、非モルモン教徒で連邦陸軍大佐トーマス・ケインが一役買っている。ケインは非モルモンながら、長くモルモン教徒の朋友で、イリノイ州での紛争の際には和平交渉の立役者となった人物である。
 しかし翌1850年、連邦議会はユタをデザレット州としてではなく「ユタ準州」として承認した。ユタは独立州としては承認されなかったのである。このことは、ユタが準州である期間は連邦政府の監督下に置かれ、連邦役人が常駐しその指導・監視下に置かれることを意味する。翌1851年、合衆国大統領ミラード・フィルモアにより、最初の連邦役人が任命された。その内訳は以下のとおり。

知事       ・・・ ブリガム・ヤング(モルモン教会大管長、ユタ出身)

国務長官     ・・・ ブロートン・ハリス(非モルモン、バーモント州出身)

最高裁判所長官  ・・・ レミュエル・ブランドベリー(非モルモン)

同副長官  ・・・ ペリー・ブロッカス(非モルモン)
      及び ゼルバベル・スノウ(モルモン教徒、ユタ出身)

司法長官     ・・・ セツ・ブレア(モルモン教徒、ユタ出身)

インディアン局の監督長 ・・・ ヤングが兼務

二人の監督官(非モルモン)

連邦保安官(連邦裁判所の執行官) ・・・ ヘイウッド(モルモン教徒、ユタ出身)

 最初、最高裁判所長官にジョゼフ・バフィントン(非モルモン、ペンシルヴァニア州出身)が任命されたが、バフィントンはそれを断ったため、代わりにブランドベリーが任命されたのである。指名された連邦役人の中に複数のモルモン教徒が、しかも大管長ヤングが入っていることに奇異の念を抱かざるをえない。繰り返すまでもなく、モルモン教会は僅か数年前までイリノイやミズーリで地域住民や州政府と繰返し摩擦・対立を引き起こし、挙句の果てに大統領に直訴するといった行動をとっており、大統領フィルモアがこうした経緯を知らなかった可能性は低いからである。この一見矛盾した大統領フィルモアの任命には、その背後にモルモンの朋友トーマス・ケインの画策があったのである。東部諸州では評判の悪かったモルモン教会がユタで独立州獲得を画策する事態に直面し、フィルモアはいわば「モルモンの専門家」と目されるケイン大佐を相談役に選んだわけである。しかしケインが親モルモンであることをフィルモアは知る由もなく、当面の間、ケインのアドバイスに従うことになった。相談を持ちかけた大統領フィルモアにたいしてケインは終始一貫してモルモンの弁護に努め、ヤングおよびモルモン教徒の連邦国家への忠誠を印象づけた。しかしモルモン教徒に関するケインの説明は決定的部分において偽りであることが次第に明らかとなり、大統領フィルモアは次第にモルモン教徒への疑念を深めることになる。

連邦政府との対立(連邦役人の見方)

 大統領フィルモアのモルモンに対する疑念には二つの大きな根拠があった。第一は、多妻婚であり、第二は、派遣された連邦役人からの報告である。
 モルモン教の多妻婚は限られた紙面で扱うには複雑に過ぎる問題なので、ここでは大筋を述べるにとどめる。モルモン教会が教祖スミスによって開始されたとき(1830年)、結婚のモラルは一夫一婦制であり伝統的キリスト教の立場に極めて近いものであった。しかし教団設立の翌年には、既婚者であった教祖が密かに女性たちを誘惑し、次第に宗教の名において複数結婚の実験を始めている。ただし、これがモルモン教の公的な「啓示」として示されたのは1843年7月のことで、多妻婚が重要な教理として信徒に示されたのはこれが最初であった(その時には教祖スミスには30名を超える妻がいた)。この時からヤングやキムボールが教祖に見習って多妻婚に足を踏み入れるようになる。教祖スミスが殺害されてヤングが後継者になったとき、ヤング等の指導者たちは多妻婚の熱烈な擁護者に変身していた。
 モルモン教徒がユタに定住して数年後、即ちヤングが知事に任命された翌年(1852年)、モルモン教会は教団のスポークスマン、オーソン・プラットを通して、信仰の中心的原理としての多妻婚を公的に発表しこれを擁護した。モルモン教会が多妻婚を外部に公表するのはこれが最初である。それにも拘らず多妻婚が正式な教理として正典『教義と聖約』に加えられたのは1876年のことであり、ヤングの死の前年のことである。このようにユタにおいて公然と実験された多妻婚はモルモン信仰の神聖な原理として位置付けられておりながら、最初の13年間は教義としてすら存在せず、教祖から啓示として口頭で語られたのが1843年のことで、それが彼らの正典に記録されたのが1876年という、信徒にとってすら些か理解しがたい教理であった。【注8】
 また一般のアメリカ人にとってみれば、モルモン教の多妻婚はピューリタン的アメリカ風土においてはあるまじき蛮行であり、好奇と非難の入混じった目で見られた。東部の新聞には面白可笑しく風刺され、広く国民の話題にも上るようになり、キリスト教界からは新興のカルト教団として攻撃対象にもなった。後に共和党がエイブラハム・リンカーンによって設立されたとき、その最初の「綱領」に野蛮な双子の遺物として奴隷制度と多妻婚が槍玉にあげられ、撲滅すべき対象とされたことは旧聞に属する。
 多妻婚は、モルモン教団からすれば、@神聖な原理であり、A連邦憲法で保障されている宗教的自由としての宗教的表現であり、違法なものではない。他方、多妻婚は連邦からすれば、@連邦法としての明確な規定はないもののイリノイ州法等によって禁止されていたことであり、モルモン教団は明らかにこれを無視して多妻婚を行ってきた。A宗教的自由は、良俗に違反したり社会の秩序を乱したり違法な行為を含むものではない。Bまた宗教的教理とはいえ、本人の自由意志に反して、あるいは人権を無視して多妻婚に取り込まれている疑いはぬぐえず、まして十四、五歳の子どもに性的関係を強要することは違法である(アメリカ社会からモルモン教会に向けられた疑念は、やがてモルモン教会の内側から多妻婚を告発する文書が公にされることで、その疑念の正しさが証明される結果になった【注9】)。こうした理由から連邦議会では多妻婚を取り締まるための法律として、モリル法(62年)、カロム法(70年)、ポーランド法(74年)、エドモンヅ法(82年)、エドモンヅ―タッカ―法(87年)が次々に成立し、執行に移された。一方、モルモン教団はこれを不当な介入であるとして連邦政府にたいする対立姿勢を強めていく。【注10】
 大統領フィルモアのモルモンに対する疑念の第二の理由は、派遣された連邦役人からの報告である。既述したように、連邦の一部である準州の要件は、まず基本的に連邦を支持すること、第二に連邦憲法を遵守すること、そして第三に、準州に住むすべてのアメリカ人の権利を保障することである。モルモン教会はこのすべての面でネガティヴな印象を連邦役人に与え、その報告が議会や大統領を憂慮させることになる。
 モルモン教徒にとってミズーリやイリノイでの挫折とユタへの逃避行は、本来であれば起こらなくても済んだ経験であって、連邦議会の無理解と大統領の無策に原因すると考えていたフシがある。彼らの期待に反し大統領は何ら対策を講じなかった(大統領の側からすれば、モルモンの要求は身勝手で性急にすぎ、調査の必要なものが多かった。ミズーリやイリノイ州知事からの報告ではモルモンは過激な集団であった)。こうした過去の経験から、モルモン教徒は世俗の権威に対する失望と落胆を隠そうとはせず、大統領や知事に対する罵詈雑言を、さらには「呪い」を公言するようになった。連邦役人はこうした集団に派遣されたのである。以下、ユタへ派遣された連邦役人ペリー・ブロッカスの経験を略述する。


 1851年、連邦から派遣された最高裁判所副長官ブロッカスはモルモンの集会に招かれた際、聴衆であるモルモン教徒に向かって、大統領への忠誠と、多妻婚について(女たちよ貞淑であれ、と)言及した。しかしこの不用意な発言はモルモン教会の、強いてはブリガム・ヤングの大きな怒りを買った。ヤングはブロッカスにモルモンに対する連邦の態度そのものを見たのであろうか。ヤングはその席でつぎの言葉を口にしている。「余はイエス・キリストの名によって、さらに神権の権威によって予言する。アメリカ合衆国のいかなる大統領であれモルモン教徒に対して悪をなす者は、一人残らず究極の死を招き地獄へ落ちるであろう」【注11】。この常軌を逸した言葉は、一種の集団ヒステリア状態のなかから発せられた言葉と解すべきかもしれないが、ブロッカスの耳には連邦に対する明らかな挑戦と響いたであろう。さらにヤングは自分が指を動かせばお前の生命は風前の灯火なのだ、とブロッカスを恫喝した。自らの生命さえ保証されない状況下にあることに危機を感じた連邦役人ブロッカス、ハリス、ブランドベリーは、僅か二ヶ月で仕事を放棄しユタを去った。彼らの報告書には詳細な記述がある。またモルモン教団からも大統領に宛てた数通の親書が存在する。
 その後連邦議会や新聞等で、これらの連邦役人に対する同情の声と、職務を放棄したことに対する非難が起こった。その後新しく派遣された連邦役人シェイヴァー、リード、フェリスはモルモンを刺激する言動を控えた。1853年、大統領に就任したピアスは陸軍中佐エドワード・ステップトゥーにユタ準州知事となるよう要請。しかしステップトゥーはこれを断る。ヤングが圧倒的な影響力を発揮しているモルモン集団のなかで外部の人間が知事になることへの疑問、がその理由であった。ブリガム・ヤングがユタを支配している限り連邦役人といえども何も出来ないというの大方の見方へと収斂していった。そして、最初のモルモン社会とアメリカ社会との本格的な衝突は1857年の「ユタ戦争」の形で表出する(「ユタ戦争」に関しては稿を改めて述べる)。以下の紙面で、その間、モルモン社会に何が起こっていたかについて簡単に触れておく。

モルモン・リフォーメーションとテロリズム【注13】

  1847年にユタに入植を開始したモルモン集団は、いくつかの大きな課題を抱えていた。それは一言でいえば独立国家の建設であるが、具体的には、農業基盤の整理と経済的自立、コミュニティーの形成、移民の援助・受入れ、宗教活動の復活、そして政治的な独立に向けての画策であった。ここでは細部に深入りせず、何がモルモン社会形成に決定的影響を及ぼしたかについて見ていくことにする。
 第一に、不作、飢餓が蔓延したこと。ユタ到着の翌年、モルモンの開拓者はさまざまな災難に見舞われた。作物の芽が野性の動物に食い荒らされたり、放牧していた家畜がインディアンに奪われたり、漸く育てた穀物がイナゴの大群によって壊滅的被害を受けるという出来事があった。その翌年も農作物の不作に見舞われ、新規に到来した2400人で一気に倍増したモルモン集団を養うに十分な食糧は確保できなかった。教団は配給制を取り入れ生存可能なぎりぎりの配給を行ったが慢性的な飢餓状態が続き、とりわけ長い冬期間を乗り切るために開拓民は狩猟や野草の採取など生存のためにあらゆることを試みた。こうして、とりわけ農業が安定的に食糧を生産できるようになるまでのほぼ十年、不作や飢饉が繰り返され人々はかろうじて生存する状況が続いた。そのため開拓に見切りをつけて早々と東部に戻ったり、カリフォルニアを目指してユタを去る者も出た。
 国内や国外(とくにイギリスやスカンジナビア諸国)からの移住者・移民には貧しいものが多かった。また移住のために教団から前借している者も多く、豊かな生活を夢見てきたものの現実は惨憺たるもので、借金の返済もままならなかったようである。しかし教団は次々に移住・移民してくるモルモンの旅費を支援する必要があり、その基金を作るために信徒たちに借金の返済を急がせた。そのうえ信徒は収入の一割の献金が義務付けられており、信徒たちの労苦や犠牲は想像を絶するものだったであろう。このように信徒は入植早々から教団に依存しなくては生存すら覚束ない状態で、陸の孤島のなかで教団指導者、とりわけヤングの指導に従順にならざるをえなかったのである。
 第二に、移住者や移民のなかには資産や資金をもつ者もおり、ユタ入植後の悲惨な状況を見て、心変りをする者も現れた。商売や店を構えてもほとんどの一般信徒には購買する余力がまったくなかったからである。こういう状況下で、教団は個人による投機や独占に対して警告を発し、また資産をもつ者には資産の寛大な提供を要求した。余力をもつ裕福な者がその提供を躊躇しているのを見て、ヤングは「彼らから取り上げて貧しいものらに分配せよ。余財がありながらそれを喜んで提供しようとしない者らは、己の首が雪の中を転げまわらないことに感謝すべきである」と語った【注12】。言葉では効果がないと分ると、次第に教団は力ずくで個人の資産を剥奪した。またこのような発言をしたからといってモルモン教団が貧しい者らに同情的であったと結論づけるのは早計である。モルモン教団は常に二重倫理をもって総てのことに対処していたのからであり、このことは後述する。
 1849年、カリフォルニアにて金鉱が発見され、アメリカ国内ばかりでなく海外からもゴールドラッシュ熱に浮かされた連中が西海岸を目指してユタを通過していった。モルモン教徒のなかにも金鉱に少なからぬ興味が湧き起こり、カリフォルニアへ向かう開拓民に混ざって出発する準備を始めるものが出てきた。飢饉や不作による食料不足が続きユタの未来が明るいものとは思われず、脱出は合理的選択に思われた。しかしヤングはユタを出て行く者は棄教であると語り、棄教は粛清すると宣言した。このヤングの言葉はたんなる脅迫ではなく、実際にモルモン自警団による粛清が遂行された。モルモン教団には通常「ノーヴ―軍」(ときには「ダナイト団」)と呼ばれる自警団が存在し、彼らは普段は警察として、またヤング等の指導者のボディーガードとして、あるいは一旦ことある時には即席の軍隊として機能していた。この指揮には通常副管長があたっていたから、教団直轄の警察機関と考えるべきである。
 ことに開拓開始から10年目には、信徒のモラルが著しく低下した時期があり、盗みや横領、詐欺が日常茶飯事化した。また暴行や強姦等の犯罪も著しく増加した。盗みは貧しい移民たちが生存するための止むに止まれぬ行動だったのであろう。しかしこうした状況下で、後の歴史家が「モルモン・リフォーメーション」と呼ぶ教団支配者による極めて暴力的な信徒粛清の時期がある。当時の副管長で初代ソルトレーク市長ジュディディア・グラント等の教団幹部を中心とする、上からの力による規律の強化策である。幹部の息のかかった「長老」が各ワードを訪ね集会で信徒たちに自らの罪を告白させる、あるいは他人の罪の密告を奨励し、そして強情に教団の意向に服さない信徒は見せしめとして粛清された。とりわけ「セックス・シン」と呼ばれる性の無秩序にたいしては厳格な粛清が強行された。多妻婚が公認されていたユタではあるが、これには教団の認可が必要だったのである。しかし一般信徒が安易に複数の女性を娶ることは「放縦」とされ粛清の対象となった。これはまさに宗教教団によるテロリズムに他ならない。
 しかしこれは同時に、信徒の上に無制限な支配を許容することになり、教団指導者や「長老」らの放縦を助長することになった。老いた醜い指導者たちが若い娘の家に押しかけ、娘を多妻の一人に要求するということが公然とまかり通った。粛清の一翼を担った「長老」も同様のことを行った。娘の供出を拒むことは教団にたいする不服従と判断され、極めて厳しい運命が待ち構えていた。こうした異常な状況化で、ときには十代前半の少女が公然と老いた幹部の後宮に連行された。彼らの蛮行を止められる人物はグラントやヤング以外にはいなかったが、彼らは粛清を進めることに熱心なあまり、こうした幹部や「長老」の行き過ぎには目を閉ざしたのである。
 このように見てくると、ブリガム・ヤングは第一にモルモン教団のグルとして宗教上の絶対的指導権を確立しており、さらには私設の警察力を背景に権力による絶対指導体制を打ち立てた。第二に、ユタに定着したモルモン・コミュニティーの政治上の最高責任者、知事として権力を振るい、準州の政治もヤングの息のかかった腹心の部下によって独占しようと画策した。ヤングの支配体制に批判的な連邦役人にたいしては、話合いによる妥協ではなく、威嚇と恫喝による極めて暴力的対決姿勢で臨んだ。
 経済的な側面に触れる余裕はないが、ただ一言すれば、先に述べたようにモルモン教団内の二重倫理の存在が、ヤング治下のモルモン経済の特徴を示している。簡潔に延べるなら、一般信徒は、教会を通じて、さらに準州の政治制度を通じて二重に税金を搾り取られている。教会には什一献金として全収入の10%の献金が要求されており、その他に州税を強要されていた。その他にも、教会のための無償の労働や寄付が要求された。一言でいえば信徒は極限まで搾り取られていたのである。これに反して指導者たちは、第一に什一献金を支払わず、むしろ教団から多額の報酬を得ていた。またいろいろな資料を読むと、ヤングは度々信徒から金品を譲り受けていたのである。さらに、ヤングについて言えば、ヤングは教会に集まった信徒の献金を個人的目的のためにいつでも自由に、しかも多額の金を流用し、信徒には独占を禁止しつつ、ユタ準州のビジネスを教団指導者が独占していく。
 二重倫理というのは、神のために働く者と一般信徒とを別個に扱う倫理である。ヤング等の指導者は特別な存在であり、ヤングの言葉では、人から金を借りたとしても神のために使うなら返却の必要はさらさらないのである。こうして、ヤングを初めとする指導者はモルモン集団の特権階級として経済的繁栄を手に入れるのである。さまざまな新興宗教のグルと同様、ヤングの50名を超える妻の数は、グルの権力を測るバロメーターと考えるべきであろう。

 

結語に代えて――ユタの歴史をどう見るか

  ユタ州に関する歴史の特徴の一つは、その開拓と発展が主としてアメリカにおいて最も蔑まれた宗教的集団であるモルモン教会によってなされたということ、しかも強力な指導者の下にある特異な信念と目的とをもって、組織的になされたという点である。宗教が開拓の原動力となったケースは目新しいものではない。ピューリタンを例に出すまでもなく、もっとも初期の開拓以来さまざまな事例に事欠かない。ユタ州の特異な点はそれが独立後の、しかもアメリカの産業革命と機を一にしていること、その舞台が西部である点である。そういう意味で西部のある州が組織的に形成されるときの具体的過程を表しており、ユタは格好の事例を提供してくれている。
 第二の特徴は、ユタ開拓の中心的担い手であったモルモン教団とその初期の指導者がことごとく十八世紀から十九世紀にまたがる世紀転換期に誕生した十九世紀的人間であったことと、そのため彼らが身に帯びていた倫理と価値観が十九世紀初頭のそれであったことである。十九世紀的人間の特徴をやや大雑把に述べるなら、自分たちこそ神に選ばれ愛されている唯一の民であると理由もなく確信する選民思想、アメリカこそ神によって課せられた「明白な運命」の下にあると信じて未開地に移民を決意する熱意、経済的な豊かさを無制限に肯定する楽観主義、白人の人種的優位と奴隷制度を単純に確信して疑わないナイーヴさ、あるいは男性こそ神の代弁者であり、政治や教会政治という公的場面で指導者となるべきであるという男性中心主義、などを身に纏っている点である。観かたによっては、一種のピューリタン的信念をもって生きたモルモン教団に、神に選ばれた国家であると理由もなく信じてきたアメリカの姿を重ね合わせて見ることも、あながち誤りではないであろう。
 第三の特徴は、この宗教教団がユタを定住の地と定める以前に、彼らが生きた周りのアメリカ社会と、さらには連邦政府や各地の州政府との間に深刻な摩擦や衝突を経験してきたことと、そうした過去の経験に導かれて、教団指導者――ことに大集団をユタの地に導いたブリガム・ヤングとその取り巻きたち――がアメリカ社会と協調しながら生きることを諦め、孤立した生き方、すなわち隔離型の教団形成を選択したことである。さらにそこから二つの特徴的行動が導き出されたと思われる。それが対外的な孤立主義と対内的な一枚岩政策である。
 第四の特徴は、対外的孤立主義である。様々な理由で社会に溶け込むことができなかった彼らは、その活動の地をアメリカ合衆国の外に(当時のメキシコ領)に求めたことと、ユタに移動した後も孤立主義を続け、少なくとも1896年に合衆国の正式な州として認められるまでの半世紀を、できる限りアメリカ社会や連邦政府と関係を絶って孤立した空間の中で生きることを望んだこと。連邦政府との度重なる衝突や、ネイティヴ・アメリカンを利用して一般開拓民の襲撃などの事件にみられるモルモン教団の反アメリカとも見える極端な行動・態度は、孤立主義の一面としても説明することが可能であろう。また、その違法な活動が連邦軍による逮捕者を出すにおよび、連邦政府の手の届かない国外(メキシコやカナダ)に活動の拠点を移したこと等も隔離型教団に見られる孤立主義の現われであろう。
 第五の特徴は、対内的な一枚岩政策である。アメリカ社会との接触を積極的に絶ち、他の社会から隔離されたままで未開の土地に入植し、厳しい自然環境を相手に自給自足の経済を確立する道を選択した宗教教団が、教団の内部にたいして取った政策の特異性である。その特異な手段とは、信徒と指導者が一丸となった計画経済、ブロック経済であり、そのための信徒に向けられた厳しい統制とコントロールである。またカリフォルニアの金発見に際して見られたように、富を手にしうるチャンスを前に動揺する信徒にたいして厳しい賞罰や粛清という手段が講じられたことである。すべて孤立主義を貫きとおすための苦渋の選択だったと言えなくもない。
 第六の特徴としては、二十世紀のユタ州の課題が孤立主義からアメリカ社会へ同化する道を模索することであった。世紀転換期に正式に州として合衆国に加盟した後は、モルモン教団・ユタ政府は合衆国憲法を遵守する集団として生きる道を選択し、教団に理解を寄せる連邦議会で活躍する政治家たちの協力を仰ぎつつ、ユタ州は連邦議会へ州の代表を派遣し、連邦政府の一員としてユタの自由と独立を獲得することに熱心であった。そういう意味ではユタはもちろん反アメリカ主義的姿勢を続ける理由がなくなった訳である。しかしモルモン教団は世俗化を恐れ、信徒にたいし精神的孤立主義を強要してきた。こうして二十世紀に突入してからは、ユタ州・モルモン教団はアメリカ社会や連邦政府と両義的・アンビバレントな関係を続けることになった。つまり一方では、政治や経済のレベルでの積極的なアメリカ社会への同化と、他方では、心理的にはアメリカ社会とは隔離された独自の精神空間を創造してそこに信徒を閉じこめて世俗の悪から信徒を守ろうとしてきた。その結果モルモン教徒はナイーブな田舎者として存在しつづけることになった。こうしたパラドックスは、1950年代から、黒人を倫理的にもっともレベルの低い人種とみなすモルモン教の教理と、キング牧師の運動などを契機に黒人にも市民権をみとめて積極的にアメリカ社会に参与させようとする社会の動きとの板ばさみになって呻吟するモルモン教団の姿となって表面化したのである。
 第七の特徴は、ここまで挙げてきた様々な特徴を集約し、ユタとアメリカ社会とのかかわりを象徴するものとして、ユタ州における多妻婚の実験がある。モルモン教会はそのもっとも神聖でもっとも中心的宗教原理として多妻婚をかかげ、多妻婚をモルモン教の基本原理として確認しこれを公にし、経済的自立と同じ熱心さをもってその実践・継続を試みてきた。宗教的(表現の)自由の一端として多妻婚を擁護したのみならず、ユタ(準)州の州法によってこれを法的にも合憲とした。アメリカの歴代大統領と連邦政府はさまざまな政治的手段を講じて多妻婚の撲滅を試みてきた。しか期待するほどの効果はあげず、ついにはモリル法やエドモンズ法、タッカー法を成立させ、多妻婚を違法な制度と断定しこの取締りを遂行することになる。初代の教祖ジョゼフ・スミスによって実験・開始された多妻婚は、やがて信徒をロッキー山中に導いたブリガム・ヤングによって華々しく開花し、ヤング統治下の30年とそれに続く指導者ジョン・テイラーによって全盛を極めた。しかし多妻婚が連邦法によって違憲とされるに及び、州昇格のためには多妻婚を断念すべきとする政治的判断を優先するグループが指導権を握り、次第に多妻婚は下火になっていく。
 第四代目大管長(指導者)ウッドラフの時代に、州昇格のための方便として多妻婚を断念する決断が下され、その結果1896年1月、ユタは合衆国の45番目の州として連邦への加入が承認されたのである。しかし、さまざまな資料が示すところでは、指導者ウッドラフによる多妻婚の放棄は、たんなるカムフラージュにすぎなかったことである。その後も教団の指導者たちがロッキーの山奥で、あるいはカナダやメキシコにモルモンのコロニーを作り、そこで多妻婚を継続し、他の信徒たちにも多妻婚を認めてきたのである。当時のカナダやメキシコ政府も多妻婚を違憲としていたので、モルモンの指導者たちはそのことを熟知しつつ非合法の活動を続けていたことになる。そもそも初代のグル・ジョゼフ・スミスがイリノイ州において多妻婚を実践したときも、イリノイ州法は一夫多妻制や多夫一妻制、すなわち重婚を違憲としていたから、モルモン教の多妻婚は、いつの時代においても常に非合法的活動だったのである。

境界線

―――――――注―――――――

1

 今日のアメリカ合衆国は50州といくつかの領土からなる連邦国家であるが、合衆国の歴史は、端的には、それを構成する各州の成立と発展の歴史である。植民地アメリカが本国イギリスに対して不公平な関税をめぐって抗議の狼煙をあげたとき、そこに存在したのは単なるコロニーの寄り集まりであったし、独立後に出来上がったものも、一つの国家と呼べるものではなく、むしろ複数の独立したstate(州と呼んでいるが、国家といったほうが実情に近い)からなる緩やかな連合体であった。合衆国は、まずいろいろな州が先に存在し、その後に連邦政府が成立したわけで、その順序が今日に至るまで大きな意味を持ちつづけている。
 こうした事情を理解すれば、アメリカに関する歴史研究は、まずは州研究から始めるべきではないかと筆者は考えるが、日本での研究はそうはなっていない。一昨年度のブッシュ対ゴアの大統領選挙でも明らかになったように州法(正確には州が定める選挙法)が一国の命運を左右することもあり、事実として連邦全体にかかわる事柄が州によって決定されることもある。連邦政府と州政府は大きくは協調関係を保持しているものの、個別的・具体的問題では必ずしも一致しているわけではない。もう一つの例を挙げるなら、今日もアメリカ世論を二分している「堕胎」をめぐるPro-Life, Pro-Choice 問題がある。この「堕胎」の問題は一度は連邦最高裁判所において合憲と判断されたにもかかわらず、その後、この決定を不服とするいくつかの州が新たに州レヴェルでの規制を加え、事実上、連邦憲法を骨なしにしてきた経緯がある。

2

 ヨーロッパ人がアメリカに出没する遥か以前から、南北アメリカ大陸には多くの先住民が住んでいた。イヌイット、ネイティヴ・アメリカン、ネイティヴ・カナディアン、インディオなどである。多くのテキストには、コロンブスが大陸を発見したころの現在のアメリカ合衆国に住んでいた先住民の数を数百万人と述べているが、最近の研究では、先住民の数は少なく見積もっても1千万人を優に超えていたと結論している。十九世紀には今日のユタ州にも、ショショニ―、ユート、ナヴァホなどの部族が住んでいたという。
 ユタの地に最初に足を踏み入れたヨーロッパ人は、ジム(ジェイムズ)・ブリジャーとかウイリアム・アッシュレー、デニス・ジュリアンなど毛皮を求めてやってきたトラッパーと呼ばれる猟師・毛皮取引商人であろう。彼らのなかでももっとも知名度の高かったジム・ブリジャーは1824年にソルト・レーク湖に到達したと伝えられている。彼らの多くは先住民から毛皮を手に入れそれを必要とするフランス人などに売り、一方先住民には外の世界から毛布や珍しい品々をもたらす存在として、先住民とは共存関係にあった。また連邦政府から派遣されて土地の探索・測量にはるばるユタにやってきたジュディディア・スミスや、後日初代のカリフォルニア州知事になるジョン・フリーモントなどの役人もいた。当時、合衆国はその領土を次第に拡大しつつあり、フランスのナポレオンから広大なルイジアナを購入し、さらにメキシコ戦争によってテキサスから太平洋岸にいたる広大な土地をメキシコから獲得し、その領土を一気に広げた。これが人々の開拓熱をいっそう扇ぐことになった。人々はできるだけ短い日数で安全に西部に移動できるルートを求めていたのである。こうした要請に応えてランスフォード・ヘイスティングは(それまでにオレゴン・トレイルやサンタフェ・トレイルが発見されえていた)新たにユタの砂漠地帯を通る従来より短時間でカリフォルニアに抜けるルート(「ヘイスティング」の近道と呼ばれていた)を発見し、そのルートを紹介するガイドブックを発行した(1845年)。その翌年、老ジョージ・ドナー、ジェイコッブ・ドナーに導かれる開拓民87名の一行がカリフォルニアを目指してこのルートをたどったが、シェラ・ネヴァダで早い冬将軍にあい、食糧が底をつき多くの仲間が凍死・餓死したが、残された者が仲間の死肉を食いつないで無事救出され九死に一生を得たが、いまでも西部開拓のもっとも悲惨な経験の一つとして語り継がれている。
 またジャン・ピエール・デスメットなどのイエズス会のスペイン人宣教師たちも主として先住民への伝道を目的として、ロッキー山中にまで足を伸ばしている。このイエズス会宣教師たちの足跡の一つは、「ミッション・トレール」として知られている。もともとテキサスやユタ、カリフォルニアなどはスペインやメキシコの領土・国土だったから、そこにイエズス会やスペイン文化の痕跡があるからといって驚くにはあたらない。これらのトラッパーや宣教師は定住を意図する人々ではなく一時的な滞在者にすぎなかった。ユタの本格的な定住・開拓は1847年のモルモン教徒の集団移民によって始まる。

3

 一万六千人(3,285家族)のモルモン教徒たちが準備を整えて新しい土地をめざして出立したのが1846年の早春。彼らの最初の目的地は300マイル彼方、ネブラスカのウインター・クオーターズ(今日のオマハ)であった。雨などのせいで悪路に悩まされ、年内にユタには到達できず、ウインター・クオーターズに仮のバラック小屋を建てて越冬する。彼らは後発部隊のために早速畑をつくり麦などの種を蒔いたという。そこがそれ以降ユタ向かうモルモン教徒たちの重要な中継基地となる。
 年の1847年4月、先発隊がウインター・クオーターズを出発し、7月に148名のパイオニア的グループがソルト・レーク渓谷に到着。数日遅れてブリガム・ヤングが到着し、その渓谷を見て「ここが我々の土地である」と宣言したという。その日7月24日は今日に至るまで「パイオニアの日」としてユタ州の祝日となっている。その年の冬が始まるまでに2千名、翌年の1848年には併せて三千五百名が到着したという。 Allen and Leonard, The Story of the Latter-day Saints, pp.229-266 

4

 Van Wagoner, “The Making of the Mormon Myth” p.1-24

5

 サムュエル・ブラナン(1819- 1889)は、他の何にもましてカリフォルニアのゴールドラッシュとともに想起されるべき人物である。というのもアメリカ中に黄金を求める情熱を作り出しそれを扇動したのは他ならぬサム・ブラナンだからである。石川好はこの人物を「モルモン教徒のプロパガンダ」と呼び、カリフォルニア史上「カリフォルニアのサクラ」と呼ばれる名誉を受けた人物だと紹介している(石川、75-79頁)。サム・ブラナンは1819年にメーン州に生まれ、その後彼の家族はオハイオ州に移転する。1838年に印刷工としての修行を終え、各地を巡回・流浪しながら印刷工として生計を立てていたが、1842年にモルモン教へと改宗し、やがてモルモン教会の新聞 Prophetの発行を助けるためにニューヨーク・シティで働くようになった。1845年、ブラナンは当時の大管長になりたてのブリガム・ヤングからカリフォルニア開拓調査隊長に任命された。そこでブラナンは、東部に在住しており、カリフォルニア開拓に熱意をもつ238名のモルモン教徒を集め、一艘の船を借り切り、1846年2月4日にニューヨーク港を出帆した。238名の内訳は、成人男性70名、成人女性68名、子供100名で、乗船した船はBrooklyn号であった(Allen & Leonard pp.249-50)。一向は、南アメリカのケープ・ホーンを迂回し、ハワイ諸島に立ち寄った後、ヨーバ・ブエナ(今日のサンフランシスコ湾)に到着した。1846年7月9日のことであった。ブラナンは、サンフランシスコがモルモン教徒の定住先として大変ふさわしい場所であることを確信し、ブリガム・ヤングに報告するがヤングはブラナンの提案を一蹴した。ブラナンはサンフランシスコへ引き返し、そのままモルモン教から足を洗い、その後ビジネスマンとして成功を収めることになる(Verdoia & Firmage, p.190)。
 石川好『カリフォルニアの歴史』中公新書、Allen and Leonard, pp.254-5  

6

 モルモン教の指導者に関する権力獲得のプロセスと範囲についてはQuinnの下記の二冊を超える研究はない。The Mormon Hierarchy: Origins of Power, および The Mormon Hierarchy: Extensions of Power,

7

 ユタ準州成立のプロセスは、Allen and Leonard, pp.267ff: Bancroft, pp.439ff

8

 多妻婚については、高橋 1996、pp.11-3, pp.189-194: Quinn 1985, cps. III, VI: Bancroft, pp.333ff: Wagoner 1989,  Takahashi, “The Practice of Polygamy“を参照

9

 Ann Eliza (Webb) Young, Wife No. 19, or, The Story of a Life in Bondage, Being a Complete Expose of Mormonism (1875)、および Fanny (Mrs. T.B.H.) Stenhouse, Tell It All; The Story of a Life's Experiences in Mormonism (1874)

10

多妻婚を取り締まる連邦法については、Lyman, 1986:Hill, 1989;Hansen, 1967.

11

 Three Letters to the New York Herald, 64 p

12

 Cleland and Brooks, , 1955, この発言はモルモン特有の処刑方法「血の贖罪」についての言及である。詳細は、高橋、1994Aを参照せよ。

13

 モルモンリフォーメーションについては、Orme, 1975: Peterson, , 1981. Conrad and Shupe, 1985が詳しい。

           

Bibliography

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Bancroft, Hubert Howe. History of Utah. 1540-1887. San Francisco: The History Company Publishers, 1890.

Baskin, Robert N. Reminiscences of Early Utah. Salt Lake City: privately printed, 1914

Conrad, Larry W. and Shupe, Paul,*An RLDS Reformation? Construing the Task of RLDS Theology, Dialogue, The Journal of Mormon Thought,(1985) Vol.18, No.2,

高橋弘『素顔のモルモン教』新教出版社、1996年

Takahashi, Hiroshi, “The Practice of Polygamy?Mormonism vs. U.S. Federal Government” 淑徳短期大学研究紀要臨時号、1994年3月

高橋弘「モルモン教と暴力―アメリカ西部開拓時代におけるマカベア型宗教の形成」、ICU比較文化, 26号

Hansen, Klaus J. Quest for Empire: The Political Kingdom of God and the Council of Fifty in Mormon History. East Lansing: Michigan State University Press, 1967.

Hickman, Bill. Brigham's Destroying Angel: Being the Life, Confession, and Startling Disclosures of the Notorious Bill Hickman, the Danite Chief of Utah. Written by Himself, with explanatory notes by J. H. Beadle esq., of Salt Lake City. New York: Geo. A. Crofutt Publisher, 1872.

Hill, Marvin S. Quest for Refuge: The Mormon Flight from American Pluralism. Salt Lake City: Signature Books, 1989.

Lyman, Edward Leo. Political Deliverance: The Mormon Quest for Utah Statehood. Urbana and Chicago: University of Illinois Press, 1986.

Orme, Michael. "The Causes of the Mormon Reformation of 1856-57." Tangents III (1975): 15-43.

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Quinn, D. Michael. The Mormon Hierarchy: Origins of Power. Salt Lake City: Signature Books in association with Smith Research Associates, 1994.

Quinn, D. Michael, The Mormon Hierarchy: Extensions of Power, Signature Books, Salt Lake City, 1997

Quinn, D. Michael, "LDS Church Authority and New Plural Marriages, 1890-1904." Dialogue: A Journal of Mormon Thought 18 (Spring 1985):9-105

Three Letters to the New York Herald, from J. M. Grant of Utah. New York: 1852. 64 p. [Title on cover: The Truth for the Mormons, An Answer to the "Report of Messrs. Brandebury, Brocchus and Harris."]

Van Wagoner, Richard S. Mormon Polygamy: A History. Salt Lake City: Signature Books, 1989.

Van Wagoner, Richard S., “The Making of the Mormon Myth: The 1844 transformation of Brigham Young.” Dialogue, The Journal of Mormon Thought, Vol.28, No.4, Winter 1995

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