モルモン教と暴力

―アメリカ西部開拓時代における新宗教の形成―

高橋 弘

 1994年8月 ICU比較文化26より


     

モルモン教と暴力 アメリカ西都開拓時代におけるマカペア型宗教の形成  
 高橋  弘


 アメリカの歴史のなかで,暴力が実際どの程度の広がりをもつものであったのか定かではない。「アメリカには過去からつねに暴力がつきまとってきた。この 点からみるかぎり(フロンティア)こそ,その暴力が一番はげしかった」という 言葉で書き始められている『アメリカ・暴力の歴史』も,その著者ウィリアム・ ホロンは,アメリカ社会がこれはど暴力的であるのはフロンティアがその原因で あるというそれまでの通説を覆し,むしろフロンティアはその結果にすぎないの であるという説を展開している(1)。北米大陸に最初に到着したピューリタンにか ぎらず,スペイン人も他のヨーロッパ人も,ピューリタンに劣らず残虐で,暴力 的だったそうである.またイギリス支配下のアメリカでは,法の無視と乱用は一 般的であり,その無法精神がやがてフロンティアにおける無法,リンチ,暴力 監督や裁判所嫌いへと発展していったのだと,ホロンは説いている。
 ではプロテスタントをはじめとする宗教グループ,宗教団体と暴力とのかかわ りはどうだったのか。ニューイングランドの宗教的狂気と暴力の例として,「魔 女狩り」が引き合いにだされるが,これもホロンによれば,最近の研究では宗教 家がこの時代の興奮状態を促進したわけではなく,むしろ宗教家は知的リーダー でありリベラルであったという(2)。同じような意妹でホロンは,モルモン教徒も むしろ周囲の差別と暴力の犠牲者であったという図式で論じている。だがことモ ルモン教の議論に関しては,アメリカ西部史学会会長のホロンも膨大な量の新し い研究に関しては無知であったようで,彼の主張はとうてい受け入れるわけには いかない。
 ここに取り上げるモルモン教は,十九世紀初期,ある開拓民の息子〔ヴァーモ ントにて誕生〕によってニューヨーク州にて1830年に始められる宗教であるが, 平均的アメリカ人同様,この宗教も各地を転々とする。翌年オハイオ州へ,1833 年にはミズーリー州へ,その後数年はオハイオとミズーリー両州にわたって活動 し,ついにミズーリー州から追放されてイリノイ州に逃げ込み,やがて諸般の事 情から未開の土地であったメキシコ領ユタへと移住するのである。フロンティア の西進運動とともに移動したこの特異な宗教は,アメリカのフロンティアで生ま れた宗教であり,暴力という点でも非常にアメリカ的であったといわなくてはならない。
 さてこの論文の意図は,モルモン教というえせキリスト教を暴力的,かつ戦闘 的マカペア型宗教であると定義し,それを検証することである。すなわちその実 像がほとんど知られていないモルモン教と暴力との関わりを,歴史資料から明ら かにすることである。さて暴力を主題に掲げる以上「暴力」を定義しておくべき ではあるが,ここではやや曖昧に「人権を蹂躙する行為」,とりわけ「物理的攻 撃,とくに身体に対する攻撃」と単純に定義し(3),議論を先に進めることにした い。歴史をたどればモルモン教が様々な形の暴力と関わりをもっていたことに驚 かされるのである。このように書くと,アメリカなら程度の差はあれどれも似た りよったりではないのか,という意見がでてこよう。しかし同じ隔離型宗教でも 十八世紀から十九世紀にかけてアメリカに入って来たアーミッシュ,メノナイ ト,ブレズレン等のいわゆる歴史的平和教会と呼ばれるグループは,およそモル モン教とは正反対の方向を辿ったのである。しかしこの比較はここでは行わない。
 モルモン教に関する暴力を論じるばあい,取り上げるべき問題はいくつかある。 1.指導者による信者の経済的搾取, 2.教団の外にいる一般の人々にたいす る略奪と殺害, 3.多妻婚による女性の人権蹂躙と家庭の崩壊, 4.「ダナイ ト団」等の秘密結社による集団的暴力, 5.私設ボディーガードを利用した指 導者による個人的暴力, 6.「血の贖罪」という粛清のための教理,慣行等であ る。さてこの論文では「血の贖罪」という教え,慣行のみを取り上げやや詳しく 見ていくことにしたい。

 血による贖罪(Blood Atonement)
 モルモン教の初期の教えのなかに「血の贖罪」と呼ばれるものがある。「血の贖 罪」とは,自らの血を注ぐことなくしてはけして赦されない罪があるとする教え で,二代目の指導者ブリガム・ヤングの教説に由来する。この教えは内部粛清の ための教理であり,指導者がその指導に従順でない信徒にたいして適用された冷酷無慈悲な慣行であった。「血の贖罪」という教理は,より広い歴史的文脈のなか に位置づけられるとき,その意味がいっそう明瞭になる。つまりモルモン教の指 導者は,なぜアメリカに背を向け敢えて辺境の地に入植し,アメリカ社会と全く 隔離された宗教共同体をつくりあげようとしたのか,またそれをどのような方法 で達成しようとしたのか。指導者たちは一体何を考えていたのか。そういう文脈 のなかでこそ「血の贖罪」という教義,慣習もただしく理解できるのではないか と思う。さて,1858年9月,ヤングほモルモン教徒の群れに向かって次のように語った。

 この世にあっても,あるいは来るべき世においても,人が犯した罪のなかには赦されざる罪がある。目をよく開けて自らの状態を吟味すれば,〔その  罪の大きさのゆえに〕大地に自らの血を注ぐことに戸惑いをおぼえる者などないはずである。流された血の煙りは,罪の供え物として天にまで達し,そ  の血の香が罪の贖いとなるであろう。しかし自らの血を流さない者は霊の世界でも罪にまみれたままなのである。わが指導者たちの人の命を断つ云々と  いう話は過酷に響くかもしれないが,しかしこれは人を救うためであって人 を破滅させるためではない……この会衆のなかにも罪にまみれた者がいるに ちがいない。罪ある者が救いを得るただ一つのみちは,自らの血を大地に注 ぐ……ほかはない。そうすれば流された血の香りは神にまで達し,罪にたい して向けられていた神の怒りは宥められるであろう……よく聞きなさい,わ  たしは罪ある者を説得し,自らの罪を贖うためにその命を捧げさせてきたのである……。
 人間の罪のために神の御子の血が注がれたということは本当である。しかし人はけして赦されることのない罪を犯すのである。それは今も昔も同じで  ある……昔そうであったように,いまも祭壇のうえで子羊や子牛,亀,鳩の血を注いでもけして赦されず,ただ人の血を注いではじめて赦される罪もあるのだ……あなたがたは今までこの教えを聞いていたにもかかわらず,理解していなかったのである(4)。

 ブリガム・ヤングのこうした説教がモルモン教会の正式な機関紙に載っている からには,「血の贖罪」という教えがモルモン教にとって重要な教義であるにち がいない。またヤング以外の指導者による「血の贖罪」についての説教もある し,「血の贖罪」に関して述べられたモルモン教徒の日記手記の類はかなりあ る。ヤングの下で副管長であったJ・M・グラントは,語気も荒くこのような説 教をしている。

 神権をうけ,神のことを知っているにもかかわらず,真理を尊ばず,姦淫を犯し,あらゆる忌まわしいことを行い,そればかりか,のぞき見や泥酔の徒,汚辱と堕落におぼれる輩にあこがれ,しかも自らを聖徒と呼んではばかることのない者がいる……そういう者に言いたい。ただちに大管長のもとを  訪れあなたがたの罪を処する評議会を設けていただくよう願うべきである。そして場所が定められたなら,かれらの手により自らの血を大地に注ぐべきである。
 いまわれわれの中には,忌まわしい罪にドッブリ漬かっており,それゆえ,その血を注がねばならない者がいる。なぜならあまりに濃く罪に染まっているので,水では用をなさないからである……この町に,そしてこの王国にどれほど神の契約を破る者がいるかたずねてみたいものである……おそら   く大勢いるにちがいない……契約を破った者に必要なのは,その血を注ぐための場所である(5)……


 
「血の贖罪」という言葉はブリガム・ヤングの言葉ではあるが,ヤング自身が はじめた慣習であるということではない.モルモン教はその創立期から,すなわ ちジョセフ・スミスがモルモン教を形成する過程で既に「血の贖罪」に匹敵する 暴力的な慣習ができていたことが,いろいろな記録から明らかである。例えばオ ハイオ州での土地投機と無認可の銀行事業にかかわる数十件の訴訟と裁判を逃れ てミズーリー州へ移動したときから,債務の取り立てと法の執行官などを追い払 い,不平を首う信者を黙らせるために,モルモン教の内部にゲシュタポのような 秘密警察,秘密の軍隊が設けられ,度々遠征にかり出された。彼らは「天使た ち」とか「ギデオン」とか様々に呼ばれていたが,最もよく知られているのは 「ダナイト団」であろう。彼らは指導者に絶対収従を誓う者たちで,仲間の結束 は固かった。またモルモン教の事業や教理に反対する者は信徒であっても(敵) とみなされ,いろいろな形で報復をうけた。やがて周囲の人々のみならずアメリ カ全体がモルモン教の敵とみなされるようになり,モルモン教の信徒たちは戦争 を予期しはじめた。事態はそれほどまでに緊張を孕み,モルモン教は暴力的,戦 闘的教団へと変貌しはじめたのである。モルモン教会は負債と破局的経済状態を 乗り越えるために,信徒にたいしてあらゆる余剰の物資を捧げさせた。この指導 に服さない者にはアナニアとサッピラの運令が臨んだ。つまり,モルモン教は内 にたいする粛清,外の敵にたいする報復という「血の贖罪」の教理,慣習をその 教団の歩みのなかで自ら学習し,教理の中核に取り入れたのである。
 ヤングが行ったことは,こうしたラディカルで血なまぐさい教義,慣習を何ら 妨害を受けずにかれら指導者が考える理想のかたちにまで押し進めたことである。 初期の記録によれば,モルモン教の指導者が死に値する罪として教えていたのは 次のような行為であった。すなわち,殺人,姦淫,盗み,みだりに主の名を用い ること,モルモン教の福音を受け入れないこと,黒人との通婚,棄数すなわちモ ルモン教を棄てること,スミスを断罪したりスミスの死を当然とすること,等で ある。そして実際こういう教義を根拠に処罰され,粛清された者が大勢いたので ある。しかもこれはモルモン教の大きな特徴の一つであるが,処刑の方法として は当時のアメリカ社会で一般であった絞首刑ではなく,斬首刑あるいは射殺刑が 多くもちいられた。そこでまず死に値する罪を,一つずつみていくことにしたい。

1.殺人
 ジョセフ・スミスはこのように記している。「ある議論をしているとき, ジョージ・A・スミスは絞首刑より入獄させるほうが良いと言った。それに対し てわたしはこう応えた。たとえある人が殺人の罪を犯したばあいでも,絞首刑に は反対である。わたしなら射殺か斬首,あるいは大地にその男の血を注ぎ,その 香を天にまで昇らせる方法をとるだろう。もしわたしに法律を定める特権がある なら,是非ともそのようにしたい(6)」。
 また初期のモルモン教徒は斬首,つまり喉を切る処刑方法に異常な関心を示 し,ユタ州の法律のなかにこれを取り入れていた。マーチィン・ガードナーの研 究によればこうである。

 1851年,「カウソシル・オプ・フィフティ」によって支配されていたデザレット州〔ユタの通称,またユタ準州になる前の呼びかた。筆者注〕議会は,殺人罪にたいし極刑を課すことを決定。「つぎのように定めるものとす   る。すなわち,ある人が仮に殺人の罪ありとされた場合,その者は射殺,絞首,あるいは斬首のいすれかの方法により死ななければならない」……デザレット州議会,その後のユタ準州議会は,斬首,あるいは射殺隊による射殺を死刑の方法として定めたアメリカ最初の議会である。斬首はアメリカにおいては植民地時代に逸脱として例外的にしかみられなかったし,イギリスに   おいては既に百年前に廃止されていた処刑方法である。射殺は軍における処刑方法ではあったが,一般的な処刑の方法は例外なく絞首刑であったそういう時期に,ユタ州には射殺隊〔による処刑〕が導入されたのである。ユタ州のみが,文字どおり「大地に人殺しの血をそそぐ」処刑,すなわち斬首刑と射殺刑を用いていた。初期のユタ州における「血の贖罪」の熱烈な擁護者は,ブリガム・ヤング,ジュデディア・グラント,ヒーバー・キムボールの三名であり,ユタ州の法律に斬首と射殺の処刑をとりいれた当の人物であった(7)。


 首切りの処刑,つまり斬首は州法の改正により1888年に廃止されたが,ユタ州 においては殺人犯はいまでも,自らの罪を贖うために血を大地にそそぐ射殺刑を 選ぶことができる州法がある。「血の贖罪」という教えが長いあいだユタ州法に 影響を与えてきたことは疑いがない。1968年1月28日のソルトレーク・トリ ビューン紙(Salt Lake Tribune)には次のような記事もある。「日本の地裁判事 タカサワ・ヒロシゲ氏は,ユタ州のユニークな死刑方法について一年余り調査し た結果,それが初期モルモン教の「血の贖罪」という教理に関係しているという 証拠を見出した」。

2.姦淫およぴ不倫
 現代のモルモン教指導者の一人ブルース・R・マッコンキーはこのように述べ たことがある。「今日の〔州〕政府は,姦淫を犯した者を死刑に定めないし,ある 〔州〕政府は,殺人犯にたいする極刑を廃止してしまった……」ことは,残念で ある(8)……。マッコンキーのこの発言は,「血の贖罪」の復活が望ましいかのよう な発言であるが,後日この記述は著書から削除されている。しかし改訂版が出さ れたさい「血の贖罪の教義」という項で,ある状況においてはキリストの力では 清められない罪がある,そういう場合は自らの血を注ぐことによってのみ罪を贖 うことができるのだと述べて,「血の贖罪」肯定論に復帰している。
 今日のモルモン教の指導者は,「血の贖罪」についてきわめて曖昧な態度を とっているようであるが,ブリガム・ヤングにほ少しの曖昧さもみられなかった。

 ある事件を想定してみよう。仮にあなたが,あなたの妻と寝ている弟を見 つけたとしよう。その場合,あなたが剣でこ人とも刺し殺すなら,あなたは義とされる。また殺されることによって二人は自らの罪を贖い,神の国に迎  えられるであろう。わたしならためらいなくそうする。仮にそのような事件が起こったなら,妻の心臓を剣で刺し殺さないようないい加減な愛しかもっ  ていない妻は,わたしには一人もいない〔愛しているなら殺害すべきだということ。筆者注〕。またそのように行ったからといって私が咎めを受けるわ  けではない……神との契約を破る者が,それが男であれ女であれ,かならずしも罪の負  債を支払うよう求められているわけではない。キリストの血ですら消し去る  ことはできない罪があるのである。だからそういう罪は,ただ自らの血によってのみ贖わねばならないのである(9)……。

 ヤングと共に指導者であった副管長ヒーバー・キムボールは次のように自慢し ていた。「……われわれの女たちには……汚れた者はいない。なぜなら汚れた女 ほ一人残らずわれわれのただ中から取り除いたからである。つまり,われわれは そういう女どもを通りから取り除いただけではない。われわれはそういう女をす べて抹殺したのである……わたしが生きているあいだ,わが手でそのような者を 抹殺するであろうし,わがモルモン教徒たちもそうするであろう。神よわれらを 助けたまえ(10)……」。使徒ジョージ・A・スミスもこのように言っている。「…… ユタの地に住むすべての者の胸に刻まれている唯一の原理はこれである。すなわ ち,隣人の妻をかどわかす者は死ななければならない,ということである。その 罪人は,かれに最も近い血縁の手によって殺されなければならない(11)」。  初期のモルモン教の指導者たちが,女たちをかどわかさなかったかどうかにつ いては別のところで論じることにするが,かれらには数えきれないほどの妻たち がいて,妻たちがかどわかされないよう心配しなければならなかったのは間違い がない。モルモン教徒といえど,なかには満足に結婚さえできなかった男もいた と思われるふしがあり,モルモンのエリートであった指導者たちは,自らの財 産,女たちをモルモン教徒たちからも盗まれないよう注意しなければならなかっ たのである。

3.盗み
 ジョセフ・スミスはかつて「わたしは,この地上の盗人を嫌悪する(12)」と語っ ていた。あるいはブリガム・ヤングは,わたしは「盗人がその喉を切られること については,いささかの同情もない(13)」と語った。またヤングはあるとき次のよ うに述べている。

 盗みの現行犯で捕らえた盗人をどうすべきか,聞きたいというのか。わた  しの助言はこうである。その場で殺しなさい。そうすれば再びその男が罪を重ねることもないであろう……わたしは,正義のものさしで測る訓練を積ん  できたのだ……もしあなたが,あなたの知っているすべての盗人を鎖弾を込めた大砲のまえに一列に並べるなら,わたしが正しく刑罰を課す〔殺すということ。筆者注〕ことができるかどうか証明してみせよう。刑罰を加えることは,罪の赦しをえさせるパブテスマを授けるのと同様,わたしの立派な勤めであるとわたしは信ずる(14)……


 西部開拓の歴史の中で,密かにモルモン教徒の手によって殺害きれた者がどれ ぐらいの数に上るかは確かでない。モルモン教はユタに定着したのち,外界から 隔離された理想の教団建設をこころみた。しかし皮肉なことに外との関係を少し も望まないモルモン教徒の土地を,モルモン街道が走り,開拓民の群れがつぎつ ぎにそこを横切った。そこでモルモン教の指導者は邪魔者を排除するために策を こうじた。つまり,新鮮な野菜や麦などの食料を異教徒に売ったり与えたりする こと禁止したのである。しかしモルモン教徒の中にも,見るに見兼ねて食料な どを売ったり与えたりした者もいた。だが教会は,物を受け取った異教徒を「盗 人」とみなし冷酷に処罰した。一方,異教徒に物を与えたモルモン教徒も教会の 掟を乱す者とみなされ粛清されたのである。そして殺害された者の持ち物はすべ て教会の物として没収されたが,それは「盗み」ではなく「聖別」と呼ばれたのである 。

4.主の名をみだりに用いること
 
ホゼア・スタウトは,かつてジョセフ・スミスのボディーガードを勤めた男で あるが,そのスタウトの日記にはブリガム・ヤングが次のように述べていたこと が記録されている。「……よく開きなさい,主の名をみだりに用いる者は……た だちにその場で処刑される時がきたのである(15)……」。
 モルモンの指導者たちは自分たちの計画を実現させるために,その手っ取り早 い方法として神の啓示とか主の名を用いてことを運んでいた。人を殺害すると き,女たちをかどわかすとき,異教徒を襲撃しその持ち物を奪うとき,戦争をす るとき,呪うとき,新しい教えを導入するとき,かならず主の名によって実行さ れたのである。しかし信徒のなかには,主の名によって指導者と対立する考えを 述べる者もいたし,それによって混乱が生じたりモルモンの信仰から離れる者も でてくるにおよび,これを一般信徒には禁止する措置がとられた。
 さしずめこの教義は,主の名を用いる権利を指導者たちが独占するための宣言 として理解できよう。

5.モルモン教の福音を受け入れないこと
 モルモン教会の説明によれば,当時の堕落したキリスト教会に代わり,正しい 福音を再建するために神によってジョセフ・スミスという青年が選ばれ,この世 で唯一ただしい教会,すなわちモルモン教会ができたということになっている。 つまり神がモルモン教会を選び〔選民〕,モルモン教会だけが神の福音を人々に 正しく伝えているというのである。しかも大管共は生ける予言者であり,神が大 管長の口をとおしていつでも人々に語りかける,という。モルモン教のみが唯一 絶対であるなら,それを認めない人間は神を受け入れない不信の輩であり,生き るに値しないクズ同然の異教徒であり,殺されてしかるべき存在と考えられた。 ブリガム・ヤングは断言する。「……われわれが『あなたは神の味方か?』とたず ねるとき,もしあなたが間違いなく神の側にいるのでなければ,あなたは一刀両 断のもとに切り倒されるのである(16)」。
 初期のモルモン教の歴史をたどれば,モルモンの指導者たちは異教徒を自分た ちのために利用することを神から与えられた当然の権利と考えていたことが明ら かになる。利用するとは邪魔者を抹殺すること,あるいはその所持品,家畜,財 産を奪うこと,物を奪うため殺害すること,あるいは役に立つ間は利用して追放 したり殺したりすることである。こういう考えを合理化し,正当化したのが「血 の贖罪」という教義であった。「血の贖罪」という教義は,モルモン教を信じない 者は死に億する大罪を犯しているのであり,そういう不敬の輩は殺害されること によってのみ,つまり血を大地にそそぐことによってのみ救済されるという教え であり,異教徒を利用することは積極的に,密かに,しかし大胆に実行された。

6.アフリカ人との通婚
 
ここでいうアフリカ人とは黒人のことである。モルモン教の黒人にたいする態 度はかなりデリケートな問題の一つであり,別のところで詳しく述べた。モルモ ン教の重要な教えのなかに,黒人は神に呪われた人種だから,黒人と通婚し,混 血することは赦されざる罪であり,死に値する罪であるという教えがある。いろ いろな記録をみてもモルモン教徒が黒人と通婚したという話は,つい最近の大管 長の宣言以前まではまったく聞いたことがない(17)。ついでに一言しておくが,黒 人の血が一滴でも入っている者ならすべて黒人とみなされる。したがって黒人と いう概念は,社会学的概念であり生物学的概念ではない。つまり見た目には白人 でとおる生物学的には99%白人という人がいても,もし少しでも黒人の血が混 ざっていれば,アメリカ社会の通念と同様,モルモン教ではその人は黒人とみな される。
 まずアフリカ人との通婚に関するブリガム・ヤングの言葉を紹介しよう。「ア フリカ人に関する神の教えを述べよう。選ばれた人々〔モルモン教徒のこと。筆 者注〕である白人がカインの子孫〔黒人のこと。筆者注〕と混血するなら,その 処罰は,神の教えによればその場での死である。これは未来永劫にわたって変わ ることはない(18)」。またヤングは,混血によって生まれた子供も殺されねばなら ないと主張していた。モルモン教の第四代大管長ウィルフォード・ウッドラフ は,1852年にブリガム・ヤングが語った言葉をその日誌に記している。「……ま たもし誰かがカインの子孫と通婚したなら,それから救済されるただ一つのみち は,そのことを告白し,その首を切り落としてもらい,その血を大地に注ぐ以外 にない。またその子供の命も奪わねばならない(19)…」。ジョセフ・スミスもまた モルモンの群れに同じことを教えていた。
 二十世紀へ転ずるころ,モルモン教会は依然として黒人との通婚を死罪にあた るとハッキリ教えていたようである。ある記録の1897年12月15日のところに次の ような記述がある。「キャノン副管長いわく。〔第三代目〕大管長テイラーはこの ように語っていた。すなわち,神権をうけた男子〔八歳以上のモルモン教徒のこ と。筆者注〕が呪われた人種〔黒人〕と通婚したばあい……その男子は死ななけ ればならない。またその子供も死ななければならない。なぜならカインの末裔 〔黒人〕は,この世にあるかぎりは神権を受けてはならないと主が定められたか らである(20)……」。モルモン教にとって,白人と黒人の通婚はタブーだったので ある。

7.棄教
ブリガム・ヤングは次のように信者を脅していた。

  「……モルモン教を棄てた者をこの地でのさばらせるより,わたしは猟刀を抜いて征服するか,でなければ自らの死を選ぶ」
 会衆のあいだにどよめきが起こる,と同時にヤングの宜言にたいして同意をあらわす声もあがる。
 「さておまえたち棄教者よ,急いで立ち去れ。さもなくば裁きがおまえたちに臨み,ふさわしい罰がふりかかるであろう」
 やれやれ,どんどんやれ,という声。
 「もし,あなたがたがその通りだというのなら,手をあげていただきたい」
 全員の手が上がる
 「このことにおいて,また他のすべての良き業においても,主の助けがあるよう祈ろうではないか(21)」

またあるとき,ヤングはこのように説明していた。

 例をひいて考えてみよう。この会衆のなかのある者が救いに関する知識が あるのに,重大な誤りを犯したとしてみよう。つまりかれは神にまで高めら れることを望んでいるにもかかわらず,そのことを不可能にする罪を犯した としよう。かれは血を注ぐことなしにはその達成は不可能であり,自らの血 を注ぐなら罪は贖われ,救いに与かり,また神にまで高められることを知っ ている。ところでこの会衆のなかに,「救いに与かり,神にまで高められたい から,どうかわたしの血を地に注いで欲しい」と願う者はいないだろうか?
 すべての人は自分を愛している。だから,この救えをすべての人に知って もらえるなら,みな自らの血を注ぐことを喜ぶべきことと考えるようになる であろう。血を注ぐことは結局,自分を愛することであり,しかも永遠の高 揚へと導かれることになるからである。あなたは同信の兄弟あるいは姉妹を愛しているだろうか? つまり兄弟のだれかが罪を犯し,かれの血を注がずにはその罪がけして贖われないと分かった場合,あなたは自分みずからの手でその兄弟の血を注ぐほど,その兄弟を愛しているだろうか?。
 罪を贖うために,しかたなく殺害した例は数多くあるし,その一つ一つに ついて詳しく話すこともできる。またもしその血が大地に注がれ……たな ら,〔かならず来る最後の復活のときに〕救われたかもしれないのに,しかし 今は悪魔の天使になってしまった大勢の人を,わたしは知っている……また モルモン教を棄てた大勢の連中も,もしその血が流されたなら救いに与かれ たかもしれないし,その方がその連中には良かったであろう。だが今までこの国の悪と無知のために,この素晴らしい教えを思うぞんぶん実行すること ができなかったが,しかしやがて神の法〔法則〕があまねく支配する日が来 るのである。
 われわれの隣人を自分自身のように愛するとは,このようにすることであ る。すなわち,かれに助けが必要なら助けてあげなさい。かれが神の救済を 願っているなら,しかもそのためにかれの血を注ぐことが必要であれば,血 を注ぎなさい〔殺害しなさい。筆者注〕。あなたたちのなかに永遠の法則を知 る者がいるなら,そしてそのあなたが,もしも血を注ぐことなしには救われ ない罪を犯した場合,あなたが熱望している救済に与かるためには,自らの 血を大地に注ぐまでは満足することも,安心することもできないであろう。 人を愛するとは,そういうことなのだ(22)。

 モルモン教徒は死んだだ後やがて神になる,とモルモン教は教えている。このこ とがモルモン教とキリスト教の決定的違いの一つである。わたしがモルモン教を えせキリスト教と呼ぶのは,一つにはこういう理由からである。ところでいみじ くもヤングの話しの通り,棄教した者は神にはなれない。それは気の毒なことで ある。もしも彼を本当に愛しているなら,彼が救済されるよう手を貸すべきであ る。すなわち彼が死の罪を犯し,そこから彼が贖われるためには彼の血を注ぐこ としか方法がないのなら,彼の血を注ぐべきだというのである。つまり棄教者は 殺害せよ,ということである。しかしまた棄教者はモルモンの敵と呼ばれ,冷酷 無慈悲な扱いを受けたり,追放や財産没収,果ては命を奪われる運命に見舞われ た。つまり敵は殺せ,という単純明快な論理である。「血の贖罪」とはモルモン教 の独善以外のなにものでもない。しかし大勢の人々がこの教えのために命を落と したのである。
  リード・ペックの手記(1839年)には,ジョセフ・スミスの啓示についての記 述がある。啓示のなかで,使徒ペテロはスミスに,自分みずからの手でユダを殺 害したと語ったという「かれ〔ジョセフ・スミス〕は,不和の輩〔異端〕につい て話をしているとき,ユダの例をひいてこう語った。かれ〔スミス〕の話では, 数日まえペテロと話をしているときペテロがこう語ったという。ペテロは自分み ずからの手でキリストを裏切ったかどでユダを絞首刑にした,と(23)」。異端つま りモルモン教の裏切者を処刑するという教えは,初期には秘密裡に説かれていた 教えであるが,ユタ定住後は公然と説かれるようになった。副管長ヒーバー・キ ムボールは1858年12月,説教のなかでこう述べている。「……ユダは救いの法則, 原理を見失ったのだ。だからかれらはユダを殺したのだ。聖書にはユダの腹から 内姓がとび出たと書かれてている。しかし実際には,かれらがユダの腹を内臓がと び出すはど蹴ったのである……ユダは,救いの法則を失った塩のようなものであ る,つまり何の役にもたたず,ただ拾てられ踏みつけられるだけの存在である… おまえたちイスラエルの長老たちよ,もしおまえたちが契約を棄てるなら,おま えたちも同様である。人々が神権を棄てさり,われわれにたいして,また自分た ちが結んだ契約にたいして歯向かい,その結果ユダと同じように殺される日が近 いことを,わたしは知っている(24)」。因みにモルモン教の長老とは,年配者という 意味ではなく,八歳以上の神権を受けた男性信者を指す。さてこういう集団ヒス テリーとでもいうべき殺伐とした空気のなかで,棄数する者がどんな運令をたど るかは火を見るより明らかであり,あえてモルモン教を棄てる者はおろか,そう いう素振りさえもみせる者はなかったに違いない。

8.欺くことと偽造すること
 ブリガム・ヤングは,1846年,おなじモルモン教徒を欺いたり騙したりするこ とについてこのように述べた。「わたしは……同信のイスラエル人〔モルモン教 徒のこと。筆者注〕を欺いたり,盗んだりする者は,その首を功り落とさねばな らないと警告してきた。というのはそうすることが神の法であり,そのように処 刑されねばならないからである(25)」。
 また1847年2月,ブリガム・ヤングは偽造することについてこう断言する。 「わたしは永遠の神々に誓う。もしわれわれのなかに盗みを働いたり,偽造した りする者があれば,その喉を切り裂かねばならない(26)」。
 モルモン教の内部では予言者とも呼ばれ,ほとんど生ける神のような存在の大 管長(President)も,うそを言ったり,騙したり,文書を偽造するのは序の口 で,法律のもとでは立純な犯罪になることを堂々と実行している。しかも立証で きるものだけでもかなりの数の犯罪になり,もし裁判にかけられたならジョセフ ・スミスやブリガム・ヤングは一生刑務所で過ごさねばならなかったであろう。 モルモン教の教えとして徐々に形づくられていく,「血の贖罪」というかなりラ ディカルな教義,慣習から考えても,仮にこれがモルモンの指導者に適用された なら,真っ先に処罰され,処刑されねばならなかったのは,ほかならぬジョセフ ・スミスとかブリガム・ヤソグ,あるいはハイラム・スミス,シドニー.リグダ ン,ヒーバー・キムボール,ジョン・テイラーといった,トップの指導者たちで ある。しかしモルモン教には・エリートである指導者たちと一般信徒とを差別す る二重倫理が存在した。そして,エリートである指導者は法を超えた存在とし て,あらゆる法をこえた神のような存在とされ,いわば独裁政治体制を確立し, モルモン教という宗教共同体を欲しいままにしていた。

9.スミスに反対したり,スミスの死を当然だとすること
 
ノートン・ジョイコプが引用したブリガム・ヤングの言葉。「誰れでも,この 土地でわれわれと共に生きたければ,それは構わない。またそれぞれの好む神を礼拝することも,まったく礼拝しないことも構わない。しかし,それが誰れであれイスラエルの神を冒涜することは赦されないことであり,ジョー・スミス 〔ジョセフの愛称。筆者注〕の悪口や,ジョーの宗教について悪口を言うことは 赦されない。そういうことをするのは,ジョーを塩漬けにして湖に沈めることに なるからである(27)」。
 二十世紀に入ってからの最初の大管長(六代目)ジョセフ・F・スミスはある 男をあやうくポケット・ナイフで殺しそうになったと,あるとき告白した。ジョ セフ・F・スミスは「血の贖罪」の熱烈な信奉者であった。使徒エイブラハム・ A・キャノンはその・日誌に,1889年12月6日の日付で,彼に関するこのようなエ ビソードを記している。

  ……ジョセフ・F・スミス管長は数年前,カーセージの近くを旅行中にある男に出会ったが,その男は駆けつけるのがたった五分遅れたためにスミス兄弟が殺されるのを目撃できなかったと言った〔イリノイ州カーセージという所には刑務所があり,ジョセフ・スミスとその兄ハイラムが軍隊に襲われ,獄死したところである。筆者注〕。この言葉を聞いたとたん,大管長スミスの顔には黒い陰がさした。そこでスミスはこの男がその事件をどのように考えている確かめようとした。この男が答えるのを待っている間,大管長スミスの心はもっとも恐ろしい感情にとらえられていた。やがて,おもむろにこの男は言った。「なあに,いつものとおりですよ。つまりね,それは冷酷  無慈悲な殺人だったということです」。スミスの顔から暗雲が消え去ったが,そのときスミスは自分の手がポケットの中のナイフをしっかり握っていることに気がついた。後日スミスが述懐したところでは,もしこの男が予言者ス  ミス兄弟の死を当然であるかのように語ったなら,ただちにこの男の心臓をナイフで突き刺し,殺害していただろうということである(28)。

 ジョセフ・スミスはモルモン教徒にとって特別な存在である。ジョセフ・スミ スなくしては,モルモン教は存在しないからである。もしもスミスが予言者でな く,したがって神の啓示を受けたことも神の手から経典を受け取ったこともな く,ただの一介の人間だったということになれば,モルモン教の存在は根本から 崩れる。したがってモルモン教会は,ジョセフ・スミスからあらゆる人間臭さを 取り除き,神話化しなければならない必然性をもっている。そういう訳で神のよ うなスミス〔モルモン教では神である。筆者注〕の悪口を言うことは,赦しがた いことなのである。
 以上九項目に分け「血の贖罪」の内容について述べてきた。つぎの問題は, はたして実際に「血の贖罪」がモルモン教徒の手によって実行されたのかどうか,という問題である。というのは今日,モルモン教会はその存在を否定してい るからである。

「血の贖罪」の歴史性
 先に,「血の贖罪」の熱烈な信奉者ジョセフ・F・スミスのエピソードを紹介 したが,かれの息子(10代目大管長)ジョセフ・フィールディソグ・スミスは, はたして「血の贖罪」が実際に実行されたのかどうか疑問視している。フィール ディング・スミスに上れば,確かに「血の贖罪」という教えはあったし,ある罪 は血を流すことなしには赦されることはないとは言いつつも,しかしこれが実際 にあった慣行かどうかについては疑問であるという。はたして実際はどうだった のであろうか。
 モルモン教の内部には,このような血をながす慣行はなかったという主張がある。モルモン教会のなかには,トップの指導者をはじめとする多数のモルモンの 護教家,御用学者がおり,モルモン教にとって都合の悪い歴史をなんとか払拭 し,できれば歴史さえも書きかえようと躍起になっている感がある。そのため, いろいろな歴史的文書,記録を抹消したり,外部の目にさらさないよう機密書類 にしたり,あるいはまた,モルモン教の立場にたった著述やPRをおこなって, 大衆にモルモン教の明るい印象を植えつけようとさまざまな活動をしている。 〔詳しくは別稿参照〕。しかし問題は,歴史を歴史としてあるいは事実を事実とし て見つめる態度があるかどうかである。実際モルモン教の内部にもかなり信頼 に足る研究もあり。こうした研究や記録をつなぎ合わせることにより,かなり正確な歴史像を再現することも不可能ではない。
 「血の贖罪」は「多妻婚」と同様,実際に実行されたのである。幸い,ジョセ フ・スミスやブリガム・ヤングの時代に,当時の出来事をこくめいに記録する者 が多くいたので,当時何が起こったのかを相当くわしく知ることができる。たとえばスミスは書記を雇い,日々の出来事を詳しく日誌に記させてた。この日誌は今日,一部が改竄されたり消去されたりしているものの,依然として相当役に立つ資料である。またスミスのボディーガードであったホゼア・スタウトとか秘書兼 書記であったリード・ペックの日誌,最初の金版の証人デビッド・ホイットメ アーの証言,スミスの親友E・D・ハウやジョン・D・リーなどの回顧録や告白など,資料は豊富に存在する。
 ところでジョン・D・リーは,教会指導者の要請により「マウンテン・メドウ の虐殺」の一件に中心的にかかわった人物であるが,ユタに移動する以前は,秘密結社「ダナイト団」のメンバーであり,またノーヴー時代にはモルモン教の シャドウ・キャビネットである「カウンシル・オプ・フィフティ」のメンバーであり,指導者たちからの信頼の篤い人物であった。このリーの告白に基づく当時のモルモン内部の出来事のなかから「血の贖罪」に関する具体的な記述を一つ取 り上げてみよう。


 モルモンにとって致命的な罪ほ姦淫の罪であった。この罪のためにユタでは多くの人が殺された……ロスモス・アンダーソンは……自分より年上のある未亡人と結婚した。この未亡人にはすっかり成長した娘が一人いた……この娘は義理の父であるアンダーソンとの結婚を望み,アンダーソンもこの娘を二人目の妻としたいと望んでいた。彼女は美しい娘だったので,〔その地の監督〕クリンゲンスミスは彼女を娶りたかったが,彼女は結婚を断った……ある集会でアンダーソンとこの娘は姦淫の罪を犯したことを告白した。この事実を知ったなら,プリガム・ヤングがきっと二人の結婚を許してくれると思ったからである。告白の後,二人は再び洗礼をうけ,モルモンの会員へと迎えられた。そして再び同じ過ちが繰りかえされたならアンダーソンは死ななければならない,という誓約がなされた。しかしその後間もなく,義理の娘にたいする姦淫のかどでアンダーソンは評議会にかけられた。この評議会はクリンゲンスミスとその二人の部下により構成されていた。それは監督の評議会であった。この評議会はアンダーソンに〔神の〕契約を破ったかどで死を言い渡した。クリンゲンスミスはアンダーソンの所におもむき,自らの罪を贖うために血を注ぎ喉を切って死ぬべき決定が下されたことを告げた……アソダーソンの妻は,アンダーソンがその罪のために殺されることと,埋葬のさいに身につける清潔な服を用意するよう告げられた。クリンゲンスミス,ジェームズ・ハスレム,ダニエル・マクファーランド・ジョン・M・ヒィグビーが,セダー市の近くの野に墓を掘り,夜の十二時ころアンダーソンの所へ行き,死の準備をするよう命じた……かれらは用意された墓へ行った。アンダーソンは墓の傍らにひざまずき祈った。それからクリンゲ  ンスミスとその部下たちは,アンダーソンの喉を耳から耳まで切り裂き,首を持ち上げて血を墓のなかに注いだ。
 かれが死んだ後,服を取りかえ墓に投げ入れ埋葬した。かれらほ血だらけの服を家族へ持ちかえり洗濯するように言った。またアンダーソンの妻に  は,夫はカリフォルニアにいるとうそを言うように教えた。彼女はその命令を守った。
 セダー市では,評議会か異端を問いただす評議会の命令がないかぎり,このようなことは成されたためしがなかった。わたし〔リー〕は直ちにアンダーソンの死を知らされた……当時,アンダーソンの殺害は宗教的義務であり正しい行為であるとみなされた。そしてこの件はすべての人によって正しいこととして了解された。なぜならすべての人は同じ契約によって結ばれていたからである。また,契約を破った男の処罰にたいするほんの小さな異論   の声も,それを発した者に同様の運命がふりかかった。というのは,教会当局の命令により執行されたことにたいして,あえて異議を唱えるほどかれは愚か者であったからである(29)。


 結語  
「血の贖罪」という教義は1850年代にもっとも盛んに教えられ,また実行され た血なまぐさい慣行であった。しかしそれ以降はユタ州にやってくる異教徒〔非 モルモン教徒。筆者注〕の数が急増したため,この常軌を逸した慣習を続けるこ とがしだいに難しくなっていった。したがって「血の贖罪」は次第に規模を小さ くし,内面化され,再び秘密裡に行われるようになるが,この慣行が何時をもっ て消滅とするかはハッキリしていない。また事実,いまでもとうの昔になくなっ たはずの「多妻婚」とか「血の贖罪」を信じ,実行しているモルモンの一派があ る。因みにこの一派はモルモン教の最もファンダメンタルな教理,あるいほ原理 に戻るべきであるという主張をしていることから「モルモン・ファソダメンタリ スト」と呼ばれ,1967年には少なくとも三万人のファンダメンタリストがユタ州 を中心にアイダホ,ワイオミング,ネバタ,コロラド,ニューメキシコ,アリゾ ナ等の州に散在していると言われている(30)。現在でも,これら「血の贖罪」をか たく信じる者の手で,主の名による粛清が行われているとの報告がある。いずれ にしても「血の贖罪」はモルモンの内部においても,また外部の人々にたいして も猛威をふるった恐ろしい慣行であったことには間違いがない。  モルモン教という宗教は「隔離型」宗教であり,世俗社会から隔離された自分 たちだけの宗教集団をつくることに熱心であった。当時はメキシコ領であった辺 境の地ユタへと脱出した最大の理由は,完全に隔離された宗教共同体を確立する ためであった。したがって共同体のなかの調和,一致をつくりだすために,さま ぎまな教えや慣習,儀礼が産みだされたのは当然のなりゆきではあったが,モル モン教に関してはそれがかなり逸脱した慣習や,暴力的な方向に向かって発展し ていったことがその大きな特徽といえるのではなかろうか。筆者はモルモン教こ そアメリカという土地から生まれた最初の本格的マカペア型宗教であると考えて いる。
 ついでながらこういったモルモン教の特徴は,現在,完全に消滅したわけでは なく,いろいろな変形した形で残存している。例えば,ユタ州では最近になって 射殺隊による死刑が復活した。復活後の最初の処刑は,死刑囚ゲイリー・ギルモ アに対して行われた。作家ノーマソ・メイラーはゲイリーのことを実話としてま とめ,『死刑執行人の歌』を出版した〈31)。またある報告では,モルモン教本部(?) の地下格納庫には常時,一年分の食料と武器・弾薬が貯蔵されているという。昔から続いてきたアメリカ合衆国との衝突に備えてのことであるという。信徒総数 九百万人を超える今日,その全員の一年間の食料というのも非現実的な話である が,あるいは一部指導者だけの食料かもしれない。いずれにせよ十九世紀末以来 続いてきた連邦政府の「多妻婚」等に関するモルモン教への干渉にたいするモル モン教指導者の怨念は,いまだ消えてはいないようである。しかしこれはまた別 のテーマであり,機会を改めて論じることにしたい。

1
ウィリアム・ホロン,中山容,他訳『アメリカ・暴力の歴史』人文書院,1992,10頁。ホロンはミズーリー州における住民によるモルモン教徒への追害について述べているが,モルモン教徒の手による放火,暴力については全く触れていない。またその後のイリノイ州ノーヴーでの事件,ミズーリー州知事リルバーン・ボッグズにたいする暗殺未遂事件,ユタ州での 連邦政府との摩擦,「マウンテンメドウの虐殺」と呼ばれるモルモン教の指導者の指示による百数十名の開拓者の虐殺,その他のモルモン教の指導者,信徒の手による殺人,放火,暴力,虐殺事件には全く触れていないという点では,ひどく片手落ちの記述であるというべきである。
2
同,第一章の注1
3 同,序文の注を参照
4 Journal of Discourses(以下J.Dと略記),VOl.4,pp.53−54
5 J.D.,VOl,4,PP.49−50
6 B.H.Roberts ed.,History of the Church(以下H.C.と略記):vol.5, Salt Lake City,Deseret Book Company,1978,P.296
7 Dialogue: A Journalof Mormon Thought,Spring1979,PP13-4
8 Bruce R.McConkie,Mormon Doctrine;Salt Lake City, Bookcraft,1958,P.104
9 J.D.,vol.3,P.247
10 J.D.,vol.7,P.20
11
J.D.,vol.1,P.97
12 Times and Seasons,vol,4,PP.183−84
13 H.C.,vol.7,P.597
14 J.D.,vol.1,PP.108−9
15 Hosea Stout,On the Mormon Frontier,the Diary of Hosea Stout;   Edited by luanita Brooks,Salt Lake City, Univ. Of Utah Press,1964,vol.2,P.71
16 J.D.,vol.3,P.226
17 1978年6月9日,当時の大管長スペンサー・W・キムボールは,二人の副管長との連名で,人種と皮膚の色に関孫なく相応しい者には神権を授けるというモルモン教会始まって以来の画期的な宣言をした。黒人にも神権への道が開かれたというのである。詳細は高橋弘「アメリカの新宗教− モルモン教の実像(その2)−」淑徳短期大学研究紀要第31号,参照この年一人の黒人に神権が投けられた。それ以来,僅かずつ黒人にも神権 が授けられるようになった。それと共に,モルモン教会の歴史始まって以来始めての,黒人と白人の通婚がモルモン教会のなかで数組成立したそうである。
18 J.D.,vol.10,P.100
19 Wilford Woodruff's Journal,vol.4,P.97
20 cited from Mormonism − Shadow or Reality? by Jerald and Sandra   Tanner,Utah Modern Microfilm,1972,P.582
21 J.D.,vol. 1,P.83
22 J. D. ,vol.4,PP.219−20
23 Reed Peck, The Reed Peck Manuscript Photoreprint of Old   Mormon Manuscript Found:Peepstone Joe Exposed,Utah Modern   Microfilm, 1839,P.13
24 J. D. ,vol.6,PP,125−26
25 Manuscrjpt of Brigham Young,Dec.20,1846
26
27 Klaus J. Hanson, Quest for Empire;Michjgan State Univ.Press,   1967,P.127
28 “Daily Journal of Abraham H.Cannon,”Dec.6,1889,PP.205-6
29 John D. Lee, Confessions of John D.Lee,1880,Photoreprint of   Mormonism Unveiled;Utah Modern Microfilm,PP. 282−83
30 New York Times. Dec. 27,1965参照およびLadies’Home Journal,June1967 の Ben Mersonの記事を参照。
 マーソン氏は次のように述べている。「ユタ州の元検事総長補佐官ウィ リアム・エム・ロジャーズ氏によれば,『今日,ブリガム・ヤングの時代  よりはるかに多くの人々〔モルモン教徒のこと。筆者注〕が多妻婚を実行している。現在ユタ州には少なくとも30,000人の大人と子供が多妻婚の   家族を構成している……そしてその数は急激に増えつづけている』という。多妻婚を実行する数千人の人々がユタに隣接する州に,すなわちアイダホ・ネバダ,ワイオミング,コロラド,ニューメキシコ,およびアリゾ ナの各州に住んでいるし,また,かなりの数にのぼる多妻婚実行者がオレ ゴン,カリフォルニア,カナダ,メキシコに存在している」。
31 Norman Mailer,The Executioner's Song,Lawrence Schiller and The New Ingot Company,1979

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