高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


W モルモン教と黒人問題
−ブリガム・ヤングの黒人観


 モルモン教の黒人にたいする態度や考え方という点では、スミス以来、白人優位=黒人蔑視という人種主義的ありかたに変化はない。しかし、モルモン教がユタに定住してまもなく奴隷を所有する信徒があらわれ、ヤングがそれを公に認めた時から新しい時代に突入したといえよう。ヤングの時代はモルモン教の確立期とみられ、モルモン教会の黒人観もこの時代にその原型が形成されたと思われる。そういう意味ではヤングこそ、黒人差別の思想と慣習を確立し、その後の教会を方向づけた注目すべき人物である。ヤングの黒人観は、次のようにまとめることができる。

 第一に、ヤングは奴隷制度の積極的支持者であった。ヤングは奴隷制度を、神が定めた神聖な制度であると考えていた。当時、奴隷制度をめぐる南北の対立が次第に高まるなかで、ヤングは、ある預言を語った。それは、南北戦争は黒人を何千人何万人と犬死にさせるだけであり、黒人を解放できるわけがない、なぜなら奴隷制度は神が定めた神聖な制度だからであるというものである。残念ながらヤングの預言は外れた。しかしヤングは、この世はサタンの支配する世界であるから奴隷制度は崩壊したが、せめてモルモン教会は神の定めた神聖な制度をまもろう、と考えたのである。

 第二に、ヤングが奴隷制度を容認し合法化した段階で、黒人問題が観念的レベルから現実的なレベルヘと移行したことである。奴隷を所有する南部出身者がモルモン教に入信し、ユタヘと移住してきたからである。奴隷の数は多くはなかったが、ともかくモルモン教徒のなかに奴隷所有者が存在し、また奴隷の売買が実際に行われるようになった。一八五〇年、ユタは自由州か奴隷州かの選択を迫られ、大管長ヤングは奴隷州となる決定を下した。このようにいろいろな要因がかさなり、ヤングは現実問題として奴隷制度をふくむ黒人の扱いについて具体的な方向づけをしなければならなかったのである(41)。

 第三に、ブリガム・ヤングはアダムの子(白人)と、カインの子(黒人)とを区別する。アダムの子は神の祝福をうけ、カインの子は神に呪われている。その呪いのしるしが「平たい鼻と黒い皮膚」であるという。

 「カインはその兄弟を殺した。カインは殺されていたほうがよかったのかもしれない。そうすれば、カインの血筋にそこで終止符がうたれたからである。しかし、カインは殺される代わりに、神によってしるしをつけられた。すなわち、それが平たい鼻と黒い皮膚である」。

 これは強烈な差別の言葉である。尊敬する指導者からこの言葉を聞いた信徒は、一生のあいだ、「平たい鼻と黒い皮膚」をもつ者を愛することはできなかったであろう。実際、ヤングのこの言葉は、後の世代によって繰りかえし用いられるようになるのである。

 第四に、ヤングは、黒人には神権を与えないと明言し、教会のリーダーシップから黒人を排除する明確な路線をうちだした。ヤングが大管長であった時代に神権を授けられた黒人がいたという話はない。エライジャについては、彼は創始者スミスの寵愛をうけた黒人で、スミスの時代に神権を授けられたのであり、それはそれとして認めざるをえなかったであろう。ただしヤングはエライジャを徹底して無視したのではないかと思われるふしがある。というのも教養もあり、有能で忠実な信徒であったエライジャも、職業上の差別をうけた形跡があるからである。ユタ移住直後はホテルのマネージャーだったエライジャが、六〇歳になるころには「ミンストレル・ショーの一員」として生活していることが国勢調査から明らかであり、少なくとも国勢調査が行なわれる以前、すなわち彼の五〇歳代には、どさ回りをして生活費を得ていたと思われる。

 ターナーは次のように述べている。ユタにおける初期の指導者たちの言葉を調査すれば、モルモン教の指導者たちは白人の神権政治を確立し、黒人を排除しようとしていたことは明らかである。黒人は受けいれられたが、ただ、奴隷・召使−その時代も、また、その後も永久に−の身分としてである(43)。

 第五、一九七〇年に制定されたルイジアナ州法では、三二分の一以上の黒人の血が混じっている住民は黒人であると定義した。つまり五世代以内に一人でも黒人がいれば、その人は黒人であると定義するのである。ではモルモン教が定義する黒人とは誰のことか。黒人詩人ラングストン・ヒューズは自伝『大海原』のなかで「アメリカ合衆国では、黒人という言葉は、ともかく血管の中にいくらかでも黒人の血が流れている者には誰にでも適用されるのだ」と述べたが、モルモン教会の黒人とは、この詩人の指摘するアメリカ社会の黒人の定義と同じである。ブリガム・ヤングの言葉では、「カインの血が一滴でも混入していれば、(その者は黒人であり)、神権を受けることはできない」のである(44)。モルモン教会はその後、一五〇年にわたる歴史を、このブリガム・ヤングのもっとも厳格な黒人定義に従って、黒人差別を繰りかえしてきたのである。

 第六、一八五〇年代はモルモン教の多妻婚の全盛期である。しかし当時、「血の贖罪」という教理・慣行が確立され、黒人との通婚は死罪とされた。「選ばれた者」〔モルモン教徒のこと。筆者注〕が黒人と混血した場合、その罰はその場での死である、とヤングは語っていた。

 「アフリカ人にかんする神の法はこうである。選ばれた人種に属する白人〔モルモン教徒のこと。筆者注]がカインの種[黒人のこと。筆者庄]と交わるなら、神の法のもとでの罰は、その場での死である。この法は今後も変わることはない(45)」。

 こうして黒人との通婚は固く禁じられたのである。歴史家ハロルド・シンドラーの研究のなかに、白人との結婚を試みた黒人の話があるが、スミスの時代とは大違いで、この黒人は情状酌量の余地なく粛清されたそうである(46)。ヤングはスミスと違い、冷徹な実務家であり、いったん決めたことは徹底してそれを貫く強さをもっていた。そして、とくに通婚に関するモルモンのルールに服さないものは、たとえモルモン教徒でも粛清という運命にみまわれた。

 第七、経済最優先の政策。荒野であったユタに入植し、そこを開拓して理想の教団を建設するには強いリーダーシップと堅実な経済計画がなくてはならなかった。特に何千人もの信徒の明日の命を預かるヤングにとって経済問題は最優先課題であった。この問題を解決するために、南部の白人の組織的、かつ計画的な勧誘が行われた。そのため南部の白人が入信しやすいように環境を整備しなければならなかった。したがって人種問題は、モルモン教の経済問題解決のために無視されたともいえるが、もともとモルモン教会は黒人差別を当然としてきただけに、南部の白人が奴隷をユタに持ち込むことにほとんど抵抗した様子がない。むしろモルモン教会は人種主義的立場を採用し、それ以降モルモン教会は長い人種差別の歴史を歩むのである。

 第八、統制経済における奴隷制度の固定化。強力なカリスマ的指導者であったヤングは、独裁的な指導力でモルモン王国建設のために統制経済を確立していくが、モルモン王国は同時にヤングの王国であることが次第に明らかになっていくのである。教団の利益は、そのままヤングの利益になった。教団の経済的繁栄は、そのまま大管長ヤングの経済的繁栄になった。こうした教団と個人とが癒着した状態を続けるためには、抵抗しない奴隷と発言しない信徒が理想とされたのである。ヤング王国建設のために、一般信徒ばかりでなく、黒人やインディアンが利用されたのである。

(41) James Boyd Christensen "A Social Survey of the Negro Population of the Salt Lake City Utah," p. 98.
(42) Journal of Discourses. Vol. 7, pp. 290-1.
(43) Wallace Turner op cit., p. 225.
(44) Wilford Woodruff, by Mathias F. Cowley, p. 351, quoted in That Ye May Not Be Deceived, p.8.
(45) Journal of Discourses. Vol. 10, p. 110.
(46) Harold Schindler, Orrin Porter Rockwell, Univ. of Utah Press, Salt Lake City, 1993, pp. 341-2.


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