高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


W モルモン教と黒人問題
−ユタにおける奴隷制度


 ジョセフ.スミスの死後、シドニー・リグダンとブリガム・ヤングの間で後継争いが起こるが、結局、ヤングがモルモン教の大管長に就任する。さて、奴隷制度の問題に目をむけると、スミスの死後も指導者たちは黒人差別の立場を続けていたようである。一八四五年四月一日の次のような記事がある。

 「ハムの子孫は、聖なる神権を棄てたことによる呪いとして黒い皮膚と、黒い心とをもつ。奴隷制度廃止論者は、セムやヤペテの僕、奴隷として生きてきたハムの子孫にたいする神の呪いを無効にしようとする者たちである。しかしこの永遠の定めに逆らうには人問を超越した力が必要なのである(24)」。

 ちなみに、このTIMES AND SEASONSという雑誌は、後の第三代大管長ジョン・テイラーが編集していたモルモンの雑誌である。モルモン教会は黒人を「劣った人種」であると信じてきたので、ユタ準州では奴隷制度は容易に受けいれられたようである。一八五一年の次のような記事がある。

 「奴隷制度に関しでわれわれの立場を明確にさせることが義務であると感ずる。ソルトレーク・バレーには南部からきたものがおり、彼らは奴隷を所有しているのである(25)」。

 歴史家スタンリー・ヒルションは、一八五五年五月四日のニューヨーク・ヘラルド紙の記事を引用しているが、その記事によればブリガム・ヤングは「黒人は地獄におちている」と語ったという。

 「奴隷制度を擁護する多くのものと同様、ヤングは黒人をカナーンの子孫であるといい、聖書によれば彼は自らの兄弟の『僕の僕』とされたのだという。ヤングは一八五五年、次のように説いた。黒人は地獄におちている、そして神がその呪いを解かれるまでその主人に仕えるのである……これが奴隷制度廃止論にたいする私の、またすべてのモルモン教徒の答えである(26)」。

 一八四四年にスミスが獄中で殺害された後、一八四六年、モルモン教徒は当時のメキシコ領ユタに永住を決意し,いくつかの群れに分かれて移動を開始し、一八四七年に最初のモルモンの群れがユタに到着する。したがってここに引用した記事は、スミスの死後、まだモルモン教徒がイリノイ州ノーヴーに留まっていた時のものから、ユタ定住後数年たってからのものまである。ここからわかることは、ユタ定住後数年以内にユタには黒人奴隷がいたことである。モルモン教に入信した南部人がユタに来たとき、黒人奴隷をそのまま連れてきたのである。モルモンの指導者は、奴隷を所有する南部からの移民を受けいれた。

 スミスの時代とその後の時代では、奴隷制度に関するモルモン教の立場に大きな変化はない。黒人はもともと神により奴隷たる運命を甘受しなければならないというのがモルモン教の教えだったからであるこかしここで指摘しておきたいことは、奴隷制度の問題が観念的レベルから現実的レベルに移行したことである。モルモン教徒のなかに奴隷所有者が現われたからである。

 奴隷制度については、ヤングの時代に、すなわちユタ定住後わずか数年で実際にこれを受けいれている。スミスの時代には奴隷制度はまだ外の問題であったため、社会一般の大勢に迎合しつつも、ときおり発作的に奴隷解放を唱えるという曖昧な態度でもゆるされた。しかしユタ定住後、奴隷を所有する信者をかかえた時点で、もはや曖昧な態度をとることが容認されない状況になったわけで、指導者は態度決定を余儀なくされたのである。とはいうものの、モルモン教の奴隷制度の支持、奴隷制度廃止論にたいする反対、論駁、あるいは奴隷の売買については、いわぱごく自然のなりゆきであり、それまでのモルモン教の思想との乖離はない。

 さて、ジェイムズ・ボイド・クリステンセンはユタ州の奴隷制度に関する研究をし、次のような興味深い記述をしている。

 「一八五〇年の時点では、西部準州のなかで奴隷を所有していたのはユタのみであった…。
 ……一八五〇年の妥協で、ユタは奴隷制度を受けいれ、一八五九年の和解により、ユタはアメリカ合衆国に加えられるときは奴隷州になる予定であった……。
 …カリフォルニアで自由になれたように、ユタでも奴隷が自由を熱望したのも当然のことであった。しかし一八五〇年以降、ユタは奴隷制度を受けいれ、奴隷は合法的に奴隷とされた。一方カリフォルニアは自由(準)州であった……。
 ……一八五〇年から奴隷解放令までの期問、大規模ではないがユタでは奴隷の売買が行われていた……(27)」。

 またある研究は、当時の奴隷の名前と、所有者の名前を掲載している。

 「ジョン・Z・ブラウン博士によれば、一八四八年、彼の父はセントルイスから十六歳の混血の少女ペッツィ・ブラウンを入手し、ユタのリーハイに連れてきた。奴隷解放令の後、彼女は黒人の理容師フレウエルンと結婚した……。
 モンロー・パーキンズはもう一人、ペンという名のニグロを所有していた。パーキンズはこのニグロをユタに住むスプラウスという南部人に売った…。
 ソルトレーク・シティーに住む弁護士ベンジャミン・L・リッチから聞いた話しであるが、彼の祖父チャールズ・C・リッチは(因みにリッチ郡は彼の名前からつけられたそうであるが)三組の黒人夫婦を所有していた。一八五一年、リッチがカリフォルニアに移った際、その地で彼らは解放された・・・。一八五一年、何人かの奴隷所有者がアマサ・ライマンとともにカリフォルニアのサンバーナーディーノヘ出かけた。モルモン教会の開拓村を建設するためであった彼らの名はチャールズ・C・リッチ、ウイリアム・マシユーズ、ダニエル・M・トマス、ウィリアム・クロスビー、ウィリアム・スミスである。彼らの奴隷はカリフォルニアで解放されだというのはカリフォルニアは自由(準)州だったからである。ライマンが語ったところでは、ウィリアム・スミスはカリフォルニアでは奴隷が自由の身になることを知り、奴隷をテキサスへつれて行こうとしたが、彼の奴隷たちは自由を望み、テキサスへ行くことを拒んだそうである……一八五〇年の国勢調査によれば、西部ではユタが奴隷を所有している唯一の州であった。
 一八六○年の国勢調査では、ユ夕準州には九人の黒人がおり、そのうちの三○人は解放された黒人であり、残る二九人が奴隷であった」。

 すでに述べたように、今日のモルモン教の公式見解は、モルモン教会は一貫して奴隷制度に反対の立場をとってきた、すなわちジョセフ・スミスも二代目の指導者プリガム・ヤングもともに奴隷の解放に努力してきたのであり、積極的な奴隷制度廃止論者であったというのである。アメリカ社会一般が、ニグロにたいする偏見と差別を当然としていた時代に奴隷の解放を唱えたため、モルモン教徒は社会の恨みをかい、そのことも彼らにたいする迫害の一因であったのだ。そのように主張しているのである。

 しかし歴史資料を丹念にみていくと、歴史上のモルモン教、およびその指導者たちの姿は、むしろ社会の主流に迎合し、黒人の奴隷制度を当然のことと考え、それにたいする反対はおろか疑問をいだいた形跡すらみられない。そしてユタ定住後は積極的に奴隷制度を受けいれ、モルモン教徒のあいだでも黒人の売買が行われていた。このことに関しては疑問の余地がない。

(24) Times and Seasons, Vol. 6, p. 857.
(25) The Millennial Star, 1851, p. 63.
(26) Stanley P. Hirshon. The Lion of the Lord, New York, 1969, p. 256.
(27) James Boyd Christensen, "A Social Survey of the Negro Population of Salt Lake City, Utah," Master thesis Univ. of Utah, pp. 11-12, 98, 8-9.
(28) Jack Beler, "Negro Slaves in Utah," Utah State Historical Quarterly, Vol.2, pp.124-6


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