高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


 

V モルモン内部の歴史論争−付録・論争の顛末記


 そこでその後、この論争がどのような顛末をたどったのか、簡単に紹介しておきたい。一九九二年、ジョージ・スミスの編集による、この歴史論争にかかわる両方の立場を代表する十六の論文を集めた" Faithful History"という本が出版された。じつは、マイケル・クイン論文は、公にはこのとき初めて活字になったのである。新しい論文のタイトルは"On Being a Mormon Historian (and It's Aftermath)"である、この論文にはその後の顛末記が載せられているので、内容は論文から外れるが、興味深い内容なので、かいつまんで紹介してみよう。

  この論文の発表(一九八一年秋) 後、大きな反響が起こった。講演の内容が伝わるにつれ大学関係者からも一般の方からも、熱心な信徒からもそうでない方からも、あるいはモルモン教徒でない方々からも、その出版は見合わせたほうがよいという助言が、クインに寄せられた。出版後に予想される事態を憂慮しての助言であった。"Sunstone"誌からの出版の話は進んでいた。一九八一年一一月一八日、ブリガム・ヤング大学の学生新聞 "Seventh East Press" が、その第一面にクインの講演要旨を掲載。

 この記事をめぐって、ブリガム・ヤング大学(以下、BYUと略記)学部長ヒックマンと教会トップの会議が開かれる。その後クインは、学部長や学長ゴードン・ヒンクリーと会見。二人は、直接的な表現は避けたものの、その講演の出版は見合わせるべきだと助言する。一一月末のことであった。クインは "Sunstone" 誌に、出版はしないと電話する。一方、モルモンの歴史家にたいするボイド・パッカーの反論が 翌年二月の"Ensign"誌に掲載予定だったが、トップの判断で中止になる。パッカーは教会の有力者である。

 しかし、クイン講演の録音テープと原稿がひそかに回覧され、高名なモルモンの批評家タナー夫妻が、本人の許可なしにこれを出版。また、ニューズ・ウイーク誌は「使徒・対・歴史家」という記事をくみ、パッカーとクインの論争を取りあげる。数日後、クインは教会当局から呼び出しをうけ、使徒パッカーがおおいに憤慨しており、クインを決して赦さないといっていることが告げられる。

 一九八二年五月、五名の監督の推薦によりワードの新しい監督〔教会の牧師に匹敵〕になるはずであったが、使徒マーク・ピーターセンによりこの任命が阻止された、とステーキ部長を通じて伝えられる。ピーターセンは、タナー夫妻による出版のことを暗にほのめかし、「なぜクインは反モルモン教徒と手を組んでいるのだ」と尋ねたという。

 ピーターセンは、教会幹部ベンソン、パッカー、ピーターセンとクインとの会合を手配する。会合当日、ステーキ副部長がクインにつき添う。直接的な追及を避け、その代わりに年功順に、ニユーズ・ウイークの記事について、モルモン教の歴史を書く上での問題点について、またこれらのことがモルモン教徒へ与える影響について、それぞれどう思うかを述べあった。話し合いは和やかにすすめられた。

 六月、学長ヒンクリーはクインに、大管長会の書庫にある〔多妻婚に関連する〕極秘文書閲覧の希望はもっともであるが、却下されたと報告。クインは「多妻婚中止宣言後の多妻婚」について、いまのところもっとも豊富な資料を用いた詳細な論文を発表する予定であると学長に告げる。学長は、決定するのはクイン自身であり、出来るかぎりの援助はしようと約束。 

 数週間後、当時ほぼ原稿が完成していた、クインのルーベン・クラークにかんする伝記について、パッカーは学生の一人に、「あの伝記は、一人の善人をおとしめるものであり、決して日の目をみることはないであろう」と語る。しかし二人の指導者、ハワード・ハンターとトーマス・モンソン〔副管長ハンターは、大管長ベンソンに次ぐ教会ナンバー・ツーの実力者、使徒モンソンは若手ナンバー・ワンの実力者で、近い将来、大管長になることは間違いないと噂されている。筆者注〕の仲介のおかげで、件の本はBYU出版部から無事出版される。二人の指導者は原稿を注意深く読み、いくつかの改正を助言した上で出版許可を下す。一九八三年三月、"J. Reuben Clark: The Church Years" が世に出された。クインはこのとき滞仏中であった。

 四月、使徒ピーターセンは、雑誌 "Dialogue" や "Sunstone" への寄稿者にたいする尋問の指揮をとる。クインはまだ滞仏中で、この事件を知ったのはある人が送ってくれた新聞による。学長ヒンクリーは尋問のことを知り、直ちに中止するよう使徒たちに命じた〔ヒンクリーは副管長の一人。教会のナンバー・スリーの実力者〕。

 クインはその夏に帰国後、直ちにハンターとモンソンに会う。二人は、クラークの伝記を執筆するさいのクインの率直さを支持すると表明。その時、ハンターはクインにたいしつぎのように語った。「君の原稿のなかのある部分を改正するようアドバイスしたが、BYU出版部にたいしては、あれはたんなるアドバイスにすぎないと説明しておいた。優れた歴史家である君に訂正を要求するほど、われわれは身のほど知らずではないからね」と。出版からほぼ一年後、モンソンは "Church News"に、クインの著書の書評を載せるよう圧力をかける。それまで書評が載らなかったのは、編集者が明らかにパッカーの気持ちを察してのことであった。

 一九八四年五月、学部長はクインに、「モルモン歴史協会」に提出した論文を出版しないよう、教会当局から指示があったことを伝える。その論文は、教会当局の公的なビジネス活動にかんする歴史調査であった。こういうお願いをしてまことに申し訳がないと学部長はいい、それにたいしクインは、出版を見合せること、またこの件は内密にしておくことを約束する。

 一九八五年、" Dialogue" に、クイン論文「モルモン教会当局と新多妻婚、1890 -1904」が掲載されると、ステーキ部長は三人の使徒から、クインから「テンプル会員」の資格を剥奪するよう命ぜられる。クインはすでに六年前から、大管長会と教会歴史部門の長にたいし、多妻婚中止宣言後の多妻婚について調査をしていることと、いずれそれを発表するつもりであることを伝えていた。いまや三人の使徒がクインにたいし「主に油そそがれた者にたいする悪口を語った」と断罪した。また、論争をひき起こす論文をこのまま書き続けるなら、新たな制裁を検討すると断言する。

 教会当局の制裁措置を伝えたのは、エリア部長ジェイムズ・パラモアであったが、彼はステーキ部部長会にたいし、この命令にはステーキの意向も反映しているのだとクインに伝えるよう要請。ステーキ部長はそんな嘘はつけないとつぱねる。ステーキ部長はクインの論文を読み、使徒たちのやっていることが理解できないと洩らす。

 クインがステーキ部長に語ったことは、これ以上騒ぎが大きくならないよう、これらのことは同僚にも誰にも語らないつもりである、しかしこれは(大管長ベンソンの言葉を借りるなら)「兄弟たちを憤慨させる」歴史を書くことへの脅迫である。ステーキ部長の考えでは、これはすべてクインをBYUから追放するための陰謀である。また彼はクインにたいし、破門などの制裁措置はとらないし、彼がどのように歴史を書くべきかを教える役目をひき受けようとは思わない、と語った。(皮肉なことに、彼はクインの親しい友人であると同時に、パッカーのお気に入りでもあった)。

 使徒パッカーは、ステーキの集会等々で「あるBYUの歴史家は、モルモン教会をはずかしめるために多妻婚について書いている」と、公の席で語りはじめる。あるBYUの宗教教育の教員は、クインを「BYUの反キリスト」とよぶ。クインの多妻婚にかんする論文は(また新しいモルモンの歴史研究も)、初期の教会指導者たちの行動を、誤りとはいわずとも、恥ずべきものとみなす論文であり、「主に油そそがれた者に対する悪口」であると教会当局はみなした。しかしクイン自身は、初期の指導者の言葉や行動、状況を良心的に再現することが、不誠実だとは思っていなかった。

 一九八六年春、BYUの歴史専攻の卒業生たちは、「もっとも優秀な教授」にマイケル・クインを選出する。しかしその秋、BYU当局は、イギリスで予定されているモルモン教の祝典の参加者リストからクインの名前を外す。また大学当局は、クインの「研究のためのリーブ」の申請を二年続けて断る。学部長がクインを部屋によびその理由を説明した。大学理事会のなかの教会指導者が、大学が援助をしてはならない教員と、研究テーマのリストを配付したのだと。「私は、いつの日か、BYUが真の大学となる日がくるのを待ちわびていたが、その日は永遠にこないのではないかと思うようになった」と、学部長はクインに語る。

 一九八七年一月、クインへの圧力は増す。BYU当局は歴史学科とチャールズ・レッド ・センター(アメリカ西部研究所)にたいし、クインへの学術援助を撤回するよう指示。これはパリ大学におけるアメリカ宗教学会での論文発表にたいして、すでにクインにたいし約束されていた基金であった。クインは仕方なく、自費で参加する。論文のタイトルは "Religion, Rationalism, and Folk Practices in America to the mid-19th Century" で、モルモン教に言及するものではなかった。

 新しい学科長が就任し、クインに研究を中止しないかぎり事態の改善はありえないと語り、暗にモルモン研究を中止するよう要請。アメリカ社会史を専門とするクインにとって、宗教以外に関心のあるテーマはいろいろある。モルモンの歴史研究をあきらめることは圧力から逃れる安全な道であるに違いないが、しかしそれは受入れ難いことである。保身のためならなおのことである。大学の原則は「出版せよ、さもなくば滅びよ」であるが、BYUのモルモンの歴史家にとっては「出版するなら滅びよ」である、とクインはいう。 一九八七年、クインの論文「初期モルモン教と魔術的世界観」が出版されると、BYU歴史学科の教員二名は、クインはモルモン教をすてたため破門されたという噂を流す。噂は事実ではないが、クインにとってショックだったのは、噂を流したのがクインの同僚であり友人だったことである。ある学生が宗教学部長に、クイン教授は辞めさせられるのかどうか尋ねたとき、彼は学生に、理事会としてはそのことに反対であると伝える。彼の表現では「マイク・クインを辞めさせるのは、肥え溜めをかきまぜるようなものだ。悪臭(スティンク)が増すだけである」と(この言葉には、そんなことをしたらクインはますます鼻持ちならなくなるだろうという別の意味がある。筆者注)。この時点ではクインは、BYUに滞在しなくても済むリサーチ・フェローシップを申請している。

 BYUを辞任せよという脅迫や最後通告はまだなかったが、教会当局はすでにクインの解雇を決定しており、あとは大学当局とクインの消耗戦になった。学部長と会談でクインは、BYUでの将来がどのようにみえるか尋ねられ、明るいものとは思えないと答える。クインはまた学部長から、いろいろな圧力にどのように対処してきたかを尋ねられ、「負け戦ですよ」と答えると、学部長はクインに、君が他のところに移る道を選択しても理解できるよ、と語ったという。

 一九八八年一月二〇日、クインは学年末をもって辞任する旨の辞表を提出。クインはBYUの状況について「理事会や理事会を左右している人物から、問題なしとの御墨付をもらった分野以外では、BYUにおける大学としての学問の自由は、一握りの教員と職員の個人的な献身によりかろうじて保たれているだけである」と説明する。辞表を提出したとき、クインは終身雇用を保証されており、歴史学の教授で、歴史学科の大学院プログラムの責任者であった。辞任はクインにとって、個人としても大学としても失敗であったことを意味していた。

 クインの辞任は同僚たちにとって寝耳に水であり、学科長は直ちに学科会議を開催。クインはその時にはじめて、一九八二年から一九八七年までの脅迫まがいの出来事を話す。大学連盟にたいし、BYUの認可をとり消すよう要望する手紙を書くべきだという人たちの意見には耳をかさなかった。クインは新聞社にたいし、辞任にいたるまでの脅迫については記事にしないよう説得する。いろいろな学部の教員から、辞任をせず、学問の自由をまもるために公然と抵抗すべきである、という批判がクインに寄せられる。ある教授は、「いまや彼らは血の味を覚えた。今後われわれがどうなるのかを知りつつ、君はわれわれから去ろうとしている。これから大学の検閲は厳しくなるだろう」と語る。

 クインを慕っていた学生たちからも、状況の説明や釈明をしなかったことによる誤解が起こる。クインの辞任三ケ月後、こんどは『モルモン経』の歴史に関する私見を述べたためヘブライ語の教授がBYUを退任させられるという事件が起こる。その事件後、クインは感想を求めた新聞記者に、「BYU当局者が、ハーヴァード大学は東のBYUになれるよう努力すべきであるといったそうであるが、それはあたかも普通の病院に、アウシュヴィッツになれるよう努力すべきだ、というようなものである。BYUは思考(マインド)のアウシュヴィッツである」と語る。クインはまた「BYUにおける学問の自由は、大学の理事会や当局が問題を感じない場合にのみ存在する。この定義に従えば、ソヴィエトの大学にはつねに、スターリンの時代ですら、学問の自由が存在したことになる」と述べ、BYUを痛烈に批判した。

 教会当局やBYU当局、さらにある教授たちの狙いを正確に表現すれば、それは自由な思考の消滅である。これとは対照的に、BYUの教授の多くは、学生と教職員のために、拘束されない自由な思考と人生を求め闘っている。もしもBYUが真の大学であるなら、いろいろなアイディアや考え方をさらに発展させることに、ことさら危険がつきまとったり勇気が必要だったりすることはないはずである。BYUに残り、真の学問の自由のために静かな闘いを続けている同僚にたいし、賛嘆の念を禁じえない、とクインはいう。

 クインはこう確信する。神は一人ひとりに、恐れをもたず、妨害や脅迫をうけずに、探究の自由や表現の自由を楽しむことを望んでいるはずである。また教会当局は、一方では自由行為を讃えながら、もう一方では自由行為の前提 ─情報へのアクセス、制約されない探究、表現の自由─ を必死に制限しようとしていること、これは現代のモルモン教にとって根本的矛盾であり、皮肉な現実である、と。

 一九九一年、雑誌 "Sunstone" のシンポジウムにたいする、大管長会と十二使徒評議員会による合同の非難決議が出される。この非難決議にたいして疑問の声をあげた指導者は、その地位を剥奪された。またシンポジウムで発表を行ったBYUの若手人類学教授にたいしては、教会およびBYU当局から圧力がかけられた。このときクインはある新聞に「教会指導者はそもそものはじめから、しかも一貫して、一般信徒によって催される公開討論会にたいして、つねに不快の念を抱いてきた。十九世紀には、モルモン指導者は忠誠を誓う信徒の反対意見を許容していたが、しかしながら二十世紀には、その存在をすら許容しないのである」と述べる。

 その後の数ケ月、"Sunstone"や "Dialogue" への寄稿者たちは、地域の監督やステーキ部長の前に呼び出された。下線や印のつけられた論文や講演のコピーをつきつけられ、クレームをつきつけられた。地域の指導者たちによれば、これはすべて自発的にやっていることだと説明し、ただ、こうした討論会へ参加することの危惧の念を表現しただけだという。そして、「指導者たちを憤慨させたり」あるいは「信者の妨げになったり」するような活動は中止すべきであると語ったという。しかしある寄稿者は、ステーキ部長から、教会から自発的に身を引くよう求められたと語る。

 クインのもとにはこうした報告が寄せられた。尋問をする指導者の不快なふる舞い、下線や印のついた論文のコピー、この尋問には教会当局は決して関与してはいないという断言 ─これらはすべて、かつてクインが経験したことであった。


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