高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


V モルモン内部の歴史論争−教会当局の歴史家批判−批判の具体的内容

その7・最大の争点、モルモン預言者無謬説


 使徒パッカーのこういう要求のなかに、じつはかなり深刻な問題が含まれている。それは教会当局がまさに要求していること、つまり、公的な(教会の)預言者の発言および行動は、それが何であれ、つねに神の意志の現れであるという主張である。つまりモルモン教の歴代の指導者たちの言葉や行動には、いささかの誤りもなかったし、今もないというのである。これは、カトリックの法王無謬説のモルモン版に他ならない。

 歴史家クインは言う。『モルモン経』ですら、その第一頁に、「さて、もしもこれから語られることの中に何かの誤りがあるとすれば、それは人間の誤りである」とわざわざ述べてある。正典でさえ誤りの可能性を認めているのである。またモルモン教の預言者であっても、彼は一人の人間である。スミス自身がこのように語っていたではないか。預言者の言葉が、つねに主の言葉だというわけではない、「預言者は、預言者として行動しているときだけ預言者である」と。一九四〇年、年次総会の席上で大管長会の決定事項を発表するとき、時の副管長ルーベン・クラークはこのように語った。

 「われわれが判断を下すとき、われわれがつねに正しいという訳ではない。われわれは間違えることもある。だが、われわれの絶えざる祈りは、主がわれわれの判断を導いて下さるように、そしてわれわれが常に神の導きに心を開いていることができるように、ということである」

 また一九五四年、副管長クラークは、セミナリーの教師たちを前に、このように明言した。「教会の大管長でさえ、つねに聖霊の導きによって語っているわけではない」と。

 またクインは歴史家としての立場をこのように釈明する。歴史家が、預言者の決断や発言がすべて誤りのないものであるという立場をとるなら、モルモン教の教理に照らしてみても、正典に照らしてみても、あるいは人間の行動に照らしても、またモルモン教の歴史に照らしてみても、その歴史家は誤っている。またモルモン教の歴史記述が、預言者の言葉も行動も、すべてが神の導きの下にあったかのような印象を読者に与えるとすれば、これも誤りである。いやしくも歴史家なら、一つの事実にかんする裏表、両義性、不確定性、あるいは預言者や大管長会の決断にさいしてのプラグマティズム、また預言者や大管長会の重大な公的発言がもつ限界や誤り、あるいはその発言がひき起こしす望ましからざる結果を決して隠さないという、宗教上、また学問上の義務があるのだ、と。

 しかしすでに述べたように、エズラ・タフト・ベンソンは、「歴史家が預言者たちを過度に人間的に描くことにより、これら預言者の霊的側面より人間的弱さのほうが強調されてしまう・・・」ことを批判した。またボイド・パッカーは、歴史家についてつぎのように語った。

 「歴史家が、大管長の評判について為したことは何の価値もないことである。歴史家は人々に、預言者が人間であることを何とか説得しようとしているらしい。そんなことはすでにわれわれの知るところである。すべての預言者も、またすべての使徒も人間であった。歴史家がわれわれに、その人間がじつは預言者だったのだということを説得してくれたなら、どれほど価値があったことであろう。・・
 歴史家は、預言者についてのわれわれの記憶や思い出から大切な何かを奪ったのである。歴史家は信仰を破壊したのである・・。」


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