高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史 - 5 ノーヴー時代

エピローグ


 人々は、ジョセフ・スミスの死を契機に、そのまま暴動か戦争になるのではないかと危惧したようである。十二使徒は不在であったが、ジョセフの側近ウィラード・リチャーズの指導のもとで、ノーヴー軍は知事フォードの暗殺を企てるような行動には走らなかった。もしもこのとき、ノーヴー軍が復讐のための行動を起こしていたなら、数万人のモルモン教徒は虐殺されていたに違いない。 

 ジョセフの死後、モルモン教会は深刻な内部分裂を経験する。シドニー・リグダンはブリガム・ヤングとの後継争いののち、ピッツバーグへひき揚げ、ライマン・ワイトはテキサスへ移住し、チャールズ・トムプソンはセントルイスへ行ってしまった。弟ウィリアム・スミスは兄ジョセフの後継者であると主張していたが、ヤングにより破門された。このようにして教会の内部分裂は、しだいにヤングを指導者と仰ぐグループによってまとめられていく。ヤングはイリノイにおける反モルモン運動の高まりの中で、西部への大移動を決行するのである。一八三六年、モルモン教徒はロッキー山脈のふところに安住の地を求め、いくつかの群れに分かれて移動を開始した。そして一八四七年、最初のパイオニア的グループ、一四八名がメキシコ領ユタに到着したのである。

 約二〇〇〇名の信徒が、一八四七年の冬をソルト・レークですごした。残る約一万六〇〇〇人の信徒のうち、毎年、三〇〇〇人の規模でユタへ移動したといわれている。また、アメリカ東部、イギリス、スカンジナビア諸国から、毎年三〇〇〇人ほど、合計三万人がユタにやって来たという。このようにして、一八六〇年には四万人、一九〇〇年には二〇万人のモルモン教徒を数えた。彼らはユタを中心に、ネバダ、ワイオミング、アイダホに、三五〇にのぼる開拓地に分散して定住していく。そして、さらにコロラド、オレゴン、カリフォルニアへと開拓前線を延ばし、その街道にそってモルモンの村々を建設していくのである。  

 ジョセフが自らの後継者として考えていたジョセフ・スミス三世は、ヤングによって破門された信徒たちを吸収しつつ、一八六〇年、イリノイ州アンボイに「復元・末日聖徒イエス・キリスト教会」をおこす。その後、本部をアイオワ、さらにミズーリー州カンザス・シティの郊外にあるインディペンデンスに移動した。ジョセフの妻エマもジョセフ三世の教会に加わった。この一派は多妻婚を否定する点で、ヤングに率いられてユタ州に移動した主流派と決定的にたもとを分かつ。しかしこのグループは、多妻婚はドクター・ジョン・ベネットが始めたもので、ブリガム・ヤングやハイラム・スミスがそれを拡大・発展させたとし、ジョセフ・スミスは神の預言者であり、多妻婚とまったくかかわりがなかったと主張するのである。すでに述べてきたように、歴史的な事実関係からみれば、これは根も葉もない主張である。

 多妻婚は、ヤングの指導のもとで公認され、ロッキー山中の陸の孤島ユタにおいて全面的に開花することになる。一八五二年、モルモン教は多妻婚を実行している、というモルモン教会の発表が全米にショックをあたえた。エイブラハム・リンカーンから始められた「共和党」は、その最初のプラットフォーム(綱領)に「野蛮な双子の遺物」の撲滅を掲げた。すなわち奴隷制度と多妻婚である。リンカーンは、一八六一年に大統領に就任するやいなや、ただちにモリル法を成立させ、多妻婚を禁じた。連邦政府はその後六〇年間にわたり、多妻婚を撲滅するためのさまざまな法律を成立させたが、ホワイト・ハウスとユタの地理的距離は、法律だけでは無力であることを証明した。ユタでは、多妻婚を禁ずる新しい法律ができる度に、多妻婚を推進するキャンペーンが起こり、その度に多妻婚の数が増えたという。しかしまた、連邦政府による多数の逮捕者がでると、また下火になったといわれている。一八九〇年、大管長ウッドラフは、州昇格のために多妻婚を犠牲にする政治的な決断をした。その後も多妻婚はひそかに続けられていくが、やがて多妻婚は内面化され、教理としての精神的多妻婚というかたちで生きのこり、現実の多妻婚は否定されていく。しかしモルモン教会のこうした現実路線を、神聖な教理からの退行・逸脱とみるグループは、主流派から分離し、自らを「原理主義」と称する少数グループを形成し、初期モルモン教のもっとも神聖な原理である多妻婚をまもり、今日にいたるまで存続させているのである。

 政治的神の国という夢は、ユタにおいて、ブリガム・ヤングによって実現された。しかし独立国家(州)への道は、アメリカの国家としての利害と抵触するものであり、連邦政府との「ユタ戦争」とよばれる紛争へと発展する。信徒以外の人間を敵視し、略奪、虐殺という、いちじるしく排他的姿勢をとり続けたからである。この時にモルモン教会によって実行された計画的犯罪の一つは、一八五七年の「マウンテン・メドウの虐殺」である。これはダナイト団のリーダー、ジョン・ディー・リーの指導のもとで、カリフォルニアに向かう子女をふくむ百数十名の開拓者の虐殺事件である。この話はあまりに有名で、マーク・トゥエインもある本のなかで述べているほどである。モルモン教会の敗北と、連邦政府によるユタ占領の後、モルモン教会は独立国家の夢をすて、合衆国という枠組みのなかで生き残る道を選択し、独立国家の夢は将来に託した。今日、ユタ州は、事実上モルモン州として機能している反面、共和党の支持基盤である。モルモン教徒は、熱心なモルモン教徒であることと、愛国的なアメリカ人であることとは矛盾するとは考えていない。しかしイエール大学のハロルド・ブルーム教授も指摘するように、ジョセフの夢は独立国家建設であり、アメリカの「多様のなかの調和」という原理とは根本的に矛盾するものであるから、その内側に、モルモン教は相反する二つのモメント(方向)を抱え込んでいるのである(64)

 ジョセフは死して神話的人物になった。ジョセフがもっていたさまざまな特長のうち、いろいろなものが抜けおち、限られたものだけが残された。それが今日、伝説として伝えられているものである。すなわち、最初のヴィジョン、天使の訪問、『モルモン経』、神の預言者としてうけた『知恵の書』、神権の授与と殉教の死である。それから神殿とよばれる建物で行われている、さまざまな異教的儀礼と、さまざまな異端的教理である。いわく、モルモン教徒はやがて神にまで到達し、一人ひとりが一つの星を支配するようになる、云々である。

 ジョセフが残したもののなかで、『アブラハムの書』ほど醜悪なものはである。アメリカにおいてモルモン教会ほど黒人にたいする徹底した差別思想をもち、それを実践した教団はない。人種差別撤廃と人種統合を、宗教の名をかりて批判し、もっとも執拗な抵抗を試みたのはモルモン教会である。これにはブリガム・ヤングの影響もみ逃せない。しかしその発端は『アブラハムの書』にある。『アブラハムの書』はジョセフが残したものには違いないが、それは同時に、十九世紀初期のアメリカの遺物なのである。

 おそらくジョセフが残した伝統のなかで、もっとも忠実に受け継がれたものは、神と富、信仰と物質的成功を同一視する伝統である。マックス・ヴェーバーが指摘したように、もともとピューリタンがもっていた禁欲的合理主義という精神的傾向は、信仰における敬虔と世俗的な営利精神を併せもつものであるが、その後、この傾向はアメリカ人の金銭・富にたいする無差別的・無条件的愛へと発展するのである。したがって、この傾向はすべてのアメリカ人の中に認められるものであり、モルモン教徒だけの特徴であるということはできない。にもかかわらず、モルモンの指導者たちの中に、この特徴を明瞭に見いだすことが可能である。さてノーヴーで確立されたこの信仰と物質的成功を同一視する慣習は、ユタでも華々しく開花し、今日にいたるまで継承されている。事実、モルモン教における教団指導者の条件として、霊的に優れていることと、ビジネスと財政運用の手腕とがなによりも要求され、また同時に高く評価されている。共同体という共産思想はすっかり忘れさられた。つまり、モルモン教も個人主義にすっかり毒されたのである(もっとも、その傾向はいまに始まったことではないが)。その代わりビッグ・ビジネスは美化され、今日、モルモン教会は世界で有数の金持ち教団になったのである。

 モルモン教は、ジョセフ・スミスが存命のあいだはジョセフ・スミスの宗教であり、ブリガム・ヤングが存命のあいだはブリガム・ヤングの宗教であった。モルモン教は、時代に適応し、時代とともに変容してきた宗教である。アメリカのフロンティアとともに発展してきたこのモルモン教徒は、フロンティアのにおいのする宗教であり、カウボーイのように頑固であり、カウボーイのようにしたたかである。

(64)Harold Bloom, The American Religion: The Emergence of the Post-Christian Nation (New York: Simon & Shchuster, 1992) p. 91


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