高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史 - 5 ノーヴー時代

破壊と破局


 さてロウとフォスターは改革派のために印刷機械を購入し、この印刷機を用いて改革派は「ノーヴー・エクスポジター」という一種の新聞を刊行するのであるが、これがジョセフにとって致命的打撃となるのである。六月七日、「ノーヴー・エクスポジター」は最初の新聞を発行した。歴史家フォン・ブロディーによれば、その記事は意外なほど控えめであろ。もしもジョン・ベネットが記事を書いていたとしたら、内部事情に通じていた彼は、さまざまなスキャンダルを週刊誌まがいにけばけばしくかきたてたに違いない、とブロディーはいう(62)

 社説は、実名にはふれず、あるイギリスの少女がノーヴーにやってきて、預言者により次第に王国の秘義(多妻婚など)に導かれるという物語を淡々と述べたものであった。この物語の後に、ウィリアム・ロウ、ジェーン・ロウ、オースティン・カウルズの三人のサイン入りの宣誓供述がそえられていた。彼らの宣誓供述によれば、殺人以外はどんな罪も赦されるし、またすべての男性に十人の処女を娶る特権をあたえるという啓示を、ジョセフが読みあげるのを聞いたり、実際に啓示を見たというものである。 

 多妻婚は、新聞が攻撃したものの一部にすぎない。「エクスポジター」は、ジョセフの、教団と国家の結合の企て、政治権力の掌握の試みを批判していた。「われわれは、神が預言者をたて、政治的計画と策略とをもってこの世をキリスト教化しようとなさるとは思わない・・われわれは、どんな人間もこの教会の王、あるいは法の授与者とは認めない。なぜならキリストこそがわれわれの王であり、法の授与者だからである・・」。また「エクスポジター」は、ジョセフの財政上の独裁権と土地投機、ミズーリー州にたいしてくりかえされた罵詈雑言、ノーヴーへの特許状の乱用を批判した。そして特許状の取消しと政治的啓示への不服従、また預言者による権力濫用の中止とジョセフの道徳的腐敗をきびしく吟味することを要求した。「エクスポジター」は多くの人々に読まれ、反響をよんだ。すでに多妻婚にかかわっていた者たちは反モルモン教徒による虐殺を怖れ、何も知らなかった信徒たちは内々のゴシップが本当であったことに驚愕し、人々は噂が真実であったことを確認したのである。

 ジョセフは「エクスポジター」を読み、人生最大の危機を感じた。「エクスポジター」 はジョセフを、いわば人々の前で行われる公開裁判に引きずりだしたからである。すでに六〇名もの女性を誘惑して婚姻関係を結びつつ、一方ではその事実を否定しつづけるという、虚構の世界に生きていたジョセフにたいし、「エクスポジター」は否応のない現実をつきつけたのである。ジョセフはもはや曖昧でいい加減な態度をとることができなくなったわけである。大統領候補であり市長であったジョセフが、四〇歳になるまで、彼の空想的、分裂的思考と行動について誰れからも注意を受けず、野放しにされてきたということ自体が謎であり、パラドクスである。またジョセフがもう少し正直であったなら、あるいは自らを真の預言者と信じていたなら、これほど長く秘密にすることはなかったはずであり、信徒たちにたいしても秘密や虚偽を強要することもなかったはずである。そうすれば「エクスポジター」の攻撃にも慌てるこはもなかったはずである。

 しかし、ジョセフがとった行動は「エクスポジター」の破壊であったが、これは理性を見失った最悪の選択であったとしか思えない。ジョセフは教会の幹部会議を開き、全会一致で「エクスポジター」の有罪を決定した。そこには陪審員も弁護士もいなかった。ジョセフはノーヴー軍を召集し、「エクスポジター」の印刷機械の破壊と、見つけたすべての新聞を焼き払うよう命じた。六月一〇日のことである。ノーヴー軍による「エクスポジター」の破壊行為は、ジョセフが自らの過去の行為について、なんら反省の色がなかったことを意味する。 

 改革派はカセージに逃げこみ、「ワーソー・シグナル紙」に「エクスポジター」破壊の経緯のみならず、ジョセフの一連の犯罪を告発した。その告発は、知事ボッグズ暗殺のためにモルモンの無法者ポーター・ロックウェルを雇ったことから、多くのモルモン女性の誘惑の事実にまでわたっていた(63)。その後、地域住民は、人々の財産と権利を奪うジョセフの犯罪を告発し、こうした極悪非道な悪人を生かしておいてよいものかどうかという記事を新聞に掲げた。反モルモン感情はくるところまできていた。一二日、暴動の罪でジョセフの逮捕状が出された。一方ジョセフは、大統領選挙運動のために各地に派遣されている十二使徒にたいし、銃と火薬を準備してただちに帰還するよう伝令を派遣し、またノーヴー市を戒厳令下においた。二二日、地域住民による虐殺を怖れたジョセフは兄ハイラムとともに、ミシシッピー河の対岸、アイオワへ遁走したのである。

 暴動の主犯ジョセフを逮捕する捜索隊が、ノーヴーに派遣された。逃走中のジョセフはじゅうぶんな安全と公正な裁判の約束をイリノイ州知事フォードから得、また妻エマの説得もあって、ハイラムとともにノーヴーに戻り、カーセージへ出頭した。出頭に先立ち、ジョセフは弁護士と証人を確保するため奔走し、その後ノーヴー軍を率いて出頭するつもりでいた。知事フォードは、安全と公正な裁判とのひき換えに、ノーヴー軍の解散と州から調達した銃火器の返却をもとめた。ジョセフはこの要求をのんだ。二五日、ジョセフとハイラムは腹心の部下ウィラード・リチャーズとジョン・テイラーをつれて、カーセージへ出頭した。

 結局、知事フォードの約束と努力にもかかわらず、第一回聴問会の前日、一八四四年六月二七日、激怒していたワーソー周辺の民兵が、看守のすきをついてカセージ刑務所を襲い、ジョセフとハイラムを虐殺しようとした。しかしジョセフとハイラムは、ひそかに持ち込んでいた六連発銃で応戦し、殺害されるまえに数人を殺傷した。彼らは伝説が語っているように、子羊のように黙々と殉教したというわけではない。

(62)Brodie, op. cit., p. 374
(63)The Warsaw Signal, June 12, 1844


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