高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史 - 5 ノーヴー時代

サラ・プラット夫人の事件


 ある女性たちにとって多妻婚の教理・慣行が苦悩に満ちたものであったことは、すでに述べたナンシー・リグダンの経験からも理解できよう。相思相愛の夫婦がモルモン指導者の理不尽な要求によってひき裂かれる場合には、多妻婚がただの野蛮な慣習でしかないことが明るみにでる。この悲惨な事件の一つは、数学者である使徒オーソン・プラット夫妻の身に起こったのである。この事件はいろいろと紛糾し、事件の真相についても諸説紛々あり、その立場によって解釈にも違いがあるが、おおよそは次のようであった。

 サラ・プラットは「その町でもっともエレガントで気品があり、優しい女性」だったが、まだジョセフとドクター・ベネットが親密にしていた頃、ジョセフはベネットとともにサラを訪ね、自分の妻となることを強要した。夫オーソンは英国伝道に派遣されていて、その留守を狙ってのことである。ジョセフはいう。

  「プラット姉妹、神はあなたを霊的妻の一人として私に与えられたのです。神が聖なる老ヤコブに祝福を与えたように、神は同じ祝福を私にも与えられたのです。というのは私は長い間、あなたを暖かい眼でみ守り、あなたとの夫婦の喜びを得ることを真摯に熱望してきました。どうか私を拒絶しないで下さい。」

 これにたいしてサラは、ジョセフに次のように答えたといわれている。

  「結婚の契りを破れと私におっしゃるのですか。誠実な私の夫を裏切りなさいと仰っているのですか。私は決してそんなことはいたしません。私の性を辱めたり、私の名誉を傷つけることはできません。ヤコブの祝福などどうでもいいことですし、そのような啓示など信じません。いかなる事情のもとであっても、あなたの申し出に同意することは決してありません。私には一人のよき夫がいます。私にはそれで十分です」(58)

 いつもなら成功するはずのジョセフの常套手段も、サラには通じないことを察知したジョセフは、この話が広がることを恐れ「このことを他言すれば、お前の評判は地に落ちるものと覚悟するんだな。そのことを決して忘れるな・・」とサラを脅迫した、とベネットは証言する。しかしベネットは、その後も度々サラを訪ね、ジョセフの一件をもちだしてはサラをからかっていた。しかし夫オーソンが英国から帰国してからも、サラは夫にはすべて内密にしていた。この不快な経験を早く忘れたかったのであろう。しかしこの不快な経験は、ある日ジョセフがサラに近づいてキスをしたことを契機として、悪夢へと変わるのである。

 耐えられなくなったサラは、夫オーソンにこれまでの経緯を話したが、オーソンはこれを聞いて激怒し、ジョセフにたいして二度とこういう真似はしないよう注意するのである。ジョセフとオーソンとの関係が険悪するなか、ジョセフはサラの話をすべて否定したばかりでなく、実はサラはベネットの愛人なのだとあらぬ作り話しをするのである。また、ベネットも負けじとジョセフの無節操ぶりを語るにつれ、妻の誠実さを疑ったこともなかったオーソンの心にも疑いの雲が沸き上がり、誰の言葉も信ずることもできなくなるのである。その後、オーソンは突然姿を消した。心配した信徒たちが手わけして方々を探したが、遠く町を離れた河のほとりに放心状態のオーソンが一人佇むところを発見されている。プラット夫妻の暗い日々を彷彿とさせるエピソードである。やがてプラット夫妻は指導者を信頼できなくなり、モルモン教会から去った。

 この間、最も苦悩したのは他ならぬサラ・プラット夫人であった。彼女の誠実さと名誉が傷つけられるままにされたからである。彼女はジョセフやベネットの虚偽の証言や気まぐれに翻弄され、そして最後には、夫にも貞節を疑われるはめになったからである。他人の妻を公然と奪うこの多妻婚という慣行は、サラにとっては地獄の教義であった。しかしサラは、晩年になるまで自分の苦悩を人には話すことはなかった。

 皮肉なことに、この事件で心に深い痛手をおったはずの使徒オーソン・プラットは、その後ジョセフと和解し、多妻婚を熱烈に支持するばかりでなく、自らも進んで多妻婚にのめり込むのである。実際オーソンは、多妻婚の規則さえ無視するほどになる。彼が一八五三年、イギリスへ短期出張したとき、妻サラに相談をすることも許可を受けることもせず、英国人サラ・ルイーズ・ルイスと結婚したのである。またプラットは、最初の本格的なモルモン神学者となり、多妻婚をふくめ、モルモン教の教理を組織化するのである。

(58)John C. Bennett, op. cit., pp. 226 - 232


前に戻る   次に進む

「素顔のモルモン教」へ戻る

HOME 「ようこそ」ページへ