高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史 - 5 ノーヴー時代

多妻婚の矛盾と苦悩


 『モルモンの多妻婚、その歴史』という著書の中でリチャード・ワゴナーは、多妻婚を経験した妻たちの手記や手紙、日誌などを丹念に調査した結果、多くの妻たちはいろいろな問題をかかえ、幸福ではなかったと述べている(52)。初期の多妻婚の妻たちも、また多妻婚が全盛をきわめたユタにおける妻たちも、幸福とはいえなかったというワゴナーの結論は、それまでの報告とは一八〇度異なるものである。実際、複数の妻たちの狭い家のなかでの共同生活は、日本の嫁・姑の関係を考えれば想像のつくことで、難しい問題が多々あったようである。そのためか、問題を軽減するために姉と妹を同時に妻とすることも珍しいことではなかったようである。

 当時の指導者ヒーバー・キムボールは、〔複数の妻のいる指導者の〕家では争いごとが絶えず、力と権威をめぐる口論も激しく、最初の妻と新しい妻とが対立することもしばしばであった、と述べている。レイモンド・ベイリーの研究によれば、一八四一年からジョセフが獄死するまでの間、ジョセフ・スミスと妻エマの関係は険悪化する一方だったという。ジョセフは一八四一年頃から、精力的に女性たちを求めたからである。ブリガム・ヤングの妻たちは、自分たちの不幸をヤングに訴えたようである。新しい妻が増える度に妻たちはますます不幸になっていったようで、こうした事態を目前にしてヤングは妻たちに、自由にするから勝手にしてくれと説教の中で語ったこともある。

 モルモン教徒であるスタンリー・アーヴァインの研究によれば、女性の数が男性の数より多かったから多妻婚が発生したとする社会学的説明は、統計的数字を見るかぎり根拠のないものである。また社会学者キムボール・ヤングによれば、女性不足で、モルモン教徒の中には結婚のできない男が大勢いたという(53)。またユタでは結婚相手を確保することが極めて難しいために、一五歳の少年が一二歳の少女と結婚することが珍しいことではなかったという(54)

 もう一つの問題は乱婚である。多妻婚と呼ばれているものの、その実態は乱婚に近いケースもあった。モルモン教徒であるジョン・スチュアートは、一八四一年の春からノーヴーには三種類の性的関係(一夫一婦、多妻婚、乱婚)があったという。多妻婚は神の定めたもの、乱婚はサタンの教えであるとしつつも、多くの指導者が過ちを犯したとスチュアートは述べている。場合によっては毎日のように次々と女性たちを誘惑するスミスやヤングの行動は、多妻婚というより乱婚とよぶべきであろう(55)

 また一人一人の女性のおかれた状況は、複雑なものである。たとえばプリシンディア・ブュエルやジーナ・ハンティントン・ジェイコブズが好例である。プリシンディアは背が高く、堂々としていて、振る舞いには威厳があったといわれている。彼女は一七歳でノーマン・ブュエルの妻となったが、彼女が二九歳の時、そのままの状態でジョセフの妻となった。彼女は夫ブュエルの子どもを産みつつ、ジョセフの子どもも一人得ているのである。そしてジョセフの死の二年後、プリシンディアは夫ブュエルと別れ、使徒ヒーバー・キムボールの多妻の一人となった。

 ジーナ・ハンティントン・ジェイコブズは大変美しい人だったそうである。彼女は二〇歳の時、ヘンリー・ジェイコブズの妻となった。しかしその僅か八ケ月後に、ジェイコブズの妻のままでジョセフの妻となった。その時、彼女は妊娠七ケ月であった。ウィリアム・ホールの著書によれば、その後夫ジェイコブズが英国伝道で不在中に、ジーナはジョセフの子どもを産んでいる。夫ジェイコブズがそのことを知った後も、彼はジーナとは別れなかった。ジョセフの死後、今度はブリガム・ヤングがジーナを要求した。ヤングの言葉によれば、ジーナはジョセフの永遠の妻であり、ヤングはジョセフの代理としてジーナの地上の夫であるという。ジェイコブズはヤングの要求をのみ、ジーナを諦めた。こうしてジーナは、ヤングの多妻の一人となったのである。

 その後のジーナ・ハンティントンに関する興味深い話しがある。歴史家スタンリー・ヒルションによれば、一八六九年、ジーナは「ニュー・ヨーク・ワールド紙」にモルモン女性の責任について述べた記事の中で、彼女もヤングの他の妻たちもいかに孤独で不幸であるかを語ったそうである。

 「・・妻は自分の夫にたいし無関心を装わねばならない・・尊敬以外のどんな感情ももってはならないのです。・・また愛という間違った感情をもってはならないのです。というのは多妻婚には愛など存在する余地がないからです。・・昔、両親が結婚相手をきめてくれた旧きよき時代がとても懐かしい・・」(56)

 ジョセフの妻のうち半数以上は他人の妻であった。この場合、彼女たちにとって現実の夫は地上だけの夫、ジョセフは永遠の夫であると説明された。したがってこれらの女性たちは、一度に二人の夫を持っていたのであり、生まれたのが誰の子どもなのかわからないことも稀ではなかったのである。こういう状況は多妻婚というより、乱婚とよぶほうが正確ではなかろうか。ワイル博士によれば、ノーヴー時代に、ジョセフ・スミスは十二使徒全員の妻を要求したそうである。この中にはヒーバー・キムボール夫妻もいた。ヒーバーと最初の妻ヴァイレイトは、互いに相思相愛の仲であった。しかし妻ヴァイレイトをささげることが神の要求であり、彼らは悩みに悩んだ末あることを思いついたのである。それは彼らの娘を身代わりにすることであった。キムボールが恐る恐るジョセフに、妻の代わりに娘ではだめだろうかともち掛けると、ジョセフは即座に娘でも構わないといったという。このようにしてキムボール夫妻の娘ヘレン・マー(一五歳)は「まだ蕾のまま、預言者に差しだされた」という。これは一種の人身御供である。この事実はモルモンの使徒オーソン・ホイットニーによって確認されている(57)

 ジョセフが新しく妻たちを娶る時、かならず啓示を示して本人やその家族を納得させたが、もしも神の啓示を受けいれないなら、その人は必ず滅びるであろうという脅迫を用いていたのである。多妻婚は最初、男性指導者たちに受けいれられ、男たちによって担われる教義であるが、やがて女たちも洗脳されていった。また女性の場合には、気にいらない夫から逃れ、ハンサムで魅力的な男性と結婚する方法として利用されることもあった。

(52)Richard S. Wagoner, Mormon Polygamy: A History (Salt Lake City: Signature Books,1989) pp. 92 ff
(53)Kimball Young, Isn't One Wife Enough?: The Story of Mormon Polygamy (New York:Henry Holt, 1954) PP. 124 -125
(54)The New York Herald, Jan. 27, 1872
(55)John J. Stewart, Joseph Smith the Mormon Prophet (Salt Lake City: Mercury, 1966) p. 148
(56)quoted in The Lion of the Lord, by Stanley P. Hirshon(New York:Knopf, 1969) pp. 229 - 230
(57)W. Wyl, Mormon Protraits (Salt Lake City, 1886) pp. 70 -72


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