高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史 - 5 ノーヴー時代

「カウンシル・オブ・フィフティ」


 「神の国は、神の権威によって設立された政府である。神の国こそ、全世界における唯一合法的な政府である。その他もろもろの政府は非合法であり、神からの権限を与えられていない。この世界とすべての人間を創造された神は、神の法と、神が任命する人々によって世界を治める至高の権利を有する。誰れであれ、人間の法と、人間が任命した役人によって自分たちを治めようとすることは、神の国にたいする直接的反逆である」(47)

 一八四四年三月、ジョセフはモルモン教会の中枢に、ジョセフの腹心の部下からなる「カウンシル・オブ・フィフティ」を組織した。「カウンシル・オブ・フィフティ」とは、モルモン教の独立国家が設立されるとき、その議会および内閣として機能する蔭の支配者集団のことである。また緊急のさいには、モルモン教会とノーヴー市のための蔭の政府、シャドウ・キャビネットになるはずの組織あった。「カウンシル・オブ・フィフティ」はモルモン教会のなかでも最高機密であり、一般信徒にはその存在すら知らされていなかったし、またその記録も最高機密扱いにされていた。彼らがそのような組織を作ったということは、独立国家の実現がごく近い将来のこととして意識されていた証左である。歴史家クラウス・ハンセンの研究によれば、「千年王国」の到来のためには、精神的準備(モルモン教会の設立)だけでは不十分で、「神の王国」(独立国家)の組織も必要であることが強調され、そのため積極的な参与の必要性が説かれたという。 「カウンシル・オブ・フィフティ」の役割はいろいろあるが、国家設立の際のシャドウ・キャビネットとして機能する以外に、合衆国議会への陳情書の作成、政治的政策決定、経済問題の解決、ビジネスの開発、建築資材の確保、指導者のためのボディー・ガードの手配、棄教者や「敵」の処分、教会規律の徹底化などである。長期的な役割としては独立国家のための計画の推進、とくに合衆国の西部、南西部、および中南米にコロニーを建設することと、流入する多数の改宗者の受けいれであった。

 ジョセフは「カウンシル・オブ・フィフティ」を、「王国の活ける憲法」、別名「プリンスたち」とよんでいた。その中には、ヤング、キムボール、ウッドラフ、ハイド、プラットなどのトップの指導者をはじめ、ジョセフのボディー・ガードとして活躍するジョン・ディー・リーやオリン・ポーター・ロックウェルのような腕っぷしの強い無法者、またライマン・ワイト、ウィラード・リチャーズのようなジョセフの腹心の部下など、教会の主要なメンバーをすべて含む、総勢五三名によって組織されていた。また「カウンシル・オブ・フィフティ」は、ジョセフを「神の王国」の国王に任命した。「カウンシル・オブ・フィフティ」とジョセフとの間には強い絆が存在したが、しかしジョセフの死後は、強い絆はブリガム・ヤングとの間にも存在した。

 「カウンシル・オブ・フィフティ」はジョセフの指示に従い、最初、テキサスのコロニーを計画し、ほぼ契約の締結まで交渉が進んでいた。ウッドワース、ミラー、ブラウンがテキサスとの契約締結を進めていたし、いっぽう、ワイトはウイスコンシンのコロニーをテキサスに移動させるべく準備をしていた。しかしジョセフ・スミスの突然の死により、事態に変化が生じたのである。ブリガム・ヤングは、テキサスとの契約締結を無視し、その代わり、カリフォルニア、オレゴン、ユタ大盆地などの西部に関心を示し、「カウンシル・オブ・フィフティ」とともに、そこにコロニーの建設を計画した。しかし、あくまでジョセフの最初の計画に執着したライマン・ワイトやジョージ・ミラーは、ヤングと対立する結果となり、ヤングが覇権を握ると追放された。というより、ライマン・ワイトは自らが育てたウイスコンシンのコロニーに戻り、その後、テキサスへコロニーごと移住した。そしてワイトは、テキサスのパイオニア的開拓者として人々に記憶されるようになる。またジョージ・ミラーは、数年後、テキサスのライマン・ワイトのコロニーに加わるがそこに落ちつくことができず、結局、カリフォルニアのゴールドラッシュに前後してそこの開拓を試み、ミラーもまた、カリフォルニアのパイオニア的開拓者として人々に記憶されるようになるのである。

 ヤングと「カウンシル・オブ・フィフティ」は、西部開拓をにらみつつ、一八四四年四月、合衆国議会への工作を試みた。つまり議会への陳情書を作成するのである。その内容を要約すれば、われわれモルモン教徒は、今日のカリフォルニア、オレゴン、ニュー・メキシコ、テキサス、ネバダ、ワイオミング、ユタ大盆地などを含む広大な地域に、モルモンの独立国家を建設する予定である。われわれは一〇万人の軍隊を設置し、その広大な地域の守備にあたろう。また外国の侵入をくいとめよう。われわれモルモン教徒は、合衆国と同盟を結ぶことを希望する。そうすることは合衆国にとっても利益になることである。第一、西部一帯を守備するための連邦軍は不要になるから、膨大な税金の無駄遣いをせずにすむし、第二に、合衆国の市民は、安全に、かつ自由に西部を旅行できるようわれわれが協力しよう。第三に、モルモン教徒が北米へのイギリスの侵入を阻止することができれば、それは合衆国政府の利害とも一致するであろう、というような陳情書であった。この陳情のために使徒オーソン・プラットが連邦政府に派遣され、議会への働きかけはイリノイの下院議員スティーフン・ダグラスや、上院議員ジョン・ウエントウォースを通じてなされた。しかし結局、この陳情書は議会でも、また委員会でも机上にのぼることはなかった。こうして再びモルモン教会の議会工作は失敗に帰したのである。

 一八四四年五月、ジョセフは合衆国大統領選挙への出馬を表明し、ノーヴーにて大統領候補に指名される。ジョセフは副大統領候補にニューヨークの弁護士ジェイムズ・アーリントン・ベネットを指名したが、ベネットは外国生まれであったため資格がないことが判明し、急遽、シドニー・リグダンが指名された。ジョセフの大統領選出馬がどのように受けとられたかは、つぎの記事によって推測できる。

 「魔法のランプを手にしている、この現代の騎士は一体何者か?─ それはヴァーモント生まれの少年、ニューヨーク州では無知な百姓、セクト意識の強い無教養な愚か者、無法の地ミズーリーでは災難と恐怖の種、イリノイではお気にいりの軍隊の首領・・大勢の人々の憧憬の的・・政治家たちの恐怖の種、野蛮な者たちの畏敬の対象、はたまた国民にとってはつまづきの石、世界にとっての驚異、そしてとどのつまりは<モルモン教の預言者、ジョー・スミス>なのである」(48)

 「カウンシル・オブ・フィフティ」は可能なかぎりの信徒を集め、訓練を施したのち各地に派遣し、モルモン教の宣教と選挙演説を同時にさせたのである。かりにジョセフが合衆国大統領に選ばれたなら、「カウンシル・オブ・フィフティ」がただちに政権を担当する手筈になっていた。「カウンシル・オブ・フィフティ」は、新しい政党を作ることとか、神権政治体制の確立を議論していた。またジョセフは、黒人の奴隷制度についてのそれまでの見解を変え、奴隷解放と、黒人の隔離をその主張にかかげた。そこにリンカーンの影響をみることも可能である。ジョセフがはたしてどの程度合衆国大統領になれる可能性があったか、という疑問には答えがない。ジョセフはそのほぼ一ヶ月後に殺害されるからである。しかしジョセフは、イリノイ州だけでも獲得することは難しかったと思うが、いずれにしろジョセフが大統領候補の一人だったという事実は、いろいろな意味で興味深いことである。

(47)Statement made by Orson Pratt, cited from Klaus Hasen, op. cit., p. 184 - 85
(48)Boston Correspondent, May 22, 1843, cited from Brodie, op. cit., p. 365


前に戻る   次に進む

「素顔のモルモン教」へ戻る

HOME 「ようこそ」ページへ