高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史 - 5 ノーヴー時代

政治集団としてのモルモン教


「人々の怒りを招いた原因は、モルモン教徒が過去の選挙において、つねに投票における統一行動をとったことである・・そのような行動は、モルモン教会からの公認がえられなければ、立候補しても勝ちめがないという事実を明らかにした・・モルモン教徒は政治においても宗教においても、またその他のすべてのことにおいて、集団行動を原則としているようである。彼らは、信徒のあいだに互いに政治的意見の相違が生じれば、やがてそれが宗教にまで影響し、モルモン教会のなかに分裂・分派が起こるだろうと危惧する・・こうしたものの見方や行動の仕方は、私からみればきわめて遺憾なことである・・」(イリノイ州知事)(36)

 モルモン教徒のコミュニティーは、外部の眼からは、きわめて特異なものに映ったようである。つまりモルモン教徒は、排他的なまでに結束が固く、共通の目的のために熱心に働き、一致して行動する、そしてすべての信徒の行動は中央からしっかりとコントロールされている、というのである。実際、こういう印象はそれほど事実からかけ離れたものではなかった。

 モルモン教には独自の世界観や宗教観がある。しかもそれは千年王国を待望する終末思想によって彩られたものである。指導者たちは、こうした終末思想にもとづくモルモン教独自の世界・コミュニティーを建設しようと意図していた。モルモン教徒の排他的な経済活動や選挙での統一行動は、こうした彼らの考え方の反映である。選挙における投票の統一行動が地域の住民にとって大きな脅威であったことが、その後の紛争から知られる。

 モルモン教徒が集中していたハンコック郡の場合、モルモン教徒の移住以前とそれ以後の投票数の変化は明瞭である。一八三八年の連邦議員選挙、州知事選挙、及び州の上院・下院選挙の平均値と、一八四〇年、四一年の大統領選挙、州の下院選挙、及び連邦議員選挙の平均値を比較すると、投票数では一〇三五票から一八〇四票へと急激に増加した。ホイッグ党への平均投票数では、六三五票から一一九八票へと変化し、民主党のそれでは、四〇四票から六〇六票へと変化している。つまりハンコック郡では、モルモン教徒の投票数七六九票が全体の四三パーセントを占めており、かりにこの票がすべてホイッグ党か、あるいは民主党へ流れたなら、それは各々の得票総数の五五パーセント、六六パーセントになり、それが直ちに過半数を占めることになった。したがってモルモン教徒が特定の候補者に投票した場合、その候補者は間違いなく当選したのである(36)。換言すれば、モルモン教徒を敵にまわした場合、周辺の住民がモルモン教徒のように統一的行動をとらないかぎり、選挙での勝ち目はないということが明瞭になった。しかしアメリカでは、地域住民が選挙において統一的行動をとるという伝統はなかったのである。

 こうしてモルモン教はイリノイ州において、後日ユタ州において実現することになる、ある政治思想を形成する。それは投票は個人が行使するものではなく、集団の力を示すために行使されるべき手段であるという見方であり、また、個人としての人間は王国のなかで救済されるが、王国そのものはモルモン教徒一人一人の集団行動によってのみ救済されうるという思想である。この考え方は、ミズーリー時代の指導者の思考と行動の中にすでに表れていたが、イリノイ時代により明瞭な形をとって表れたのである。モルモンの指導者は選挙の票という餌をちらつかせて、ホイッグ、民主両党を味方にひきよせ、政党をコントロールするようになる。「特許状」を獲得できたのは、一つにはこのような巧みな操作があったからである。また選挙のときには、モルモン教徒は投票数にものをいわせて議席を獲得し、とくに郡レベルの選挙ではモルモン教徒が多数派を構成したため、地方政治がモルモン教徒によって支配されるという面が顕著になった。また合法的な政治的手段を用いて独立国家(州)を設立しようとするモルモンの計画が、次第に外部の人々にも知られるところとなり、地域住民の憎悪と恐怖心はいっそう膨張し、住民とモルモン教徒との対立・敵対関係が顕著になっていくのである。

(36)Thomas A. Ford, "Report of the Governor in Relation to the Difficulties in Hancock County." Reports made to the Senate and House of Representatives of the State of Illinois, 1846.


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