高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史 - 5 ノーヴー時代

ドクター・ジョン・ベネット


 一八四〇年の初秋、一人の男が洗礼をうけてモルモン教会に加わった。彼の名はジョン・ベネットといい、モルモン教の歴史に消しがたい足跡を残した人物である。彼は医学博士号をもち、かつてオハイオ州の某大学にて「産科学」を教授していたというふれ込みで、その当時イリノイ州医学会事務所に勤務し、同時にイリノイ州市民軍の主計総監をしていた。年齢はジョセフ・スミスと同様、三五歳であった。ベネットはかねてからモルモン教に並々ならぬ関心を抱き、ジョセフ・スミスへの接近を試みていた。一方、ジョセフもベネットにたいし大いなる関心を示したが、それには理由があった。第一に、一八三九年に新しい町ノーヴーにやってきたモルモン教徒は、新しい州で生き残るための方策を探る必要があった。ヤングやキムボールを含む一二使徒のうち九名は英国伝道に出かけていたし、リグダンは病弱で頼りにならず、ジョセフは弧軍奮闘の状態にあった。政治や政府のことに疎いジョセフは、イリノイ州で知名度の高い世事にたけた人物を必要としていたのである。そういうわけで、ジョセフがベネットに並々ならぬ興味を示したのは、彼の経歴やイリノイ州でのコネクションに関心があったからに他ならない。

 ベネットは、イリノイ州から「特許状」を獲得するというジョセフの計画に、必ずや役に立つであろうと自らを売りこみ、事実、「特許状」をモルモン教会のために獲得したのである。このためジョセフは、ベネットにたいして特別な恩義を感じ、教会内に「副管長」という役職を新設し、入信一年足らずの、あまり評判の芳しくないベネットを副管長に任命することで恩義に報いたのである。モルモン教会の大管長(ジョセフ・スミス)に次ぐ地位は、相談役〔カウンセラー、今日ではこれを副管長と呼ぶ。当時はリグダンとハイラム・スミスがその地位にいた。筆者注〕であったが、ベネットは副管長に就任して以来、病弱なリグダンに代わって、その責任を肩代わりしていくことになる。また、ベネットは最初のノーヴー市長になり、さらにノーヴー大学の総長、ノーヴー軍においてはジョセフに次ぐ准将の地位に就任した。こうしてベネットは、一八四二年五月に追放されるまでの約一年半にわたり、ジョセフのもっとも親しい友人、かつ相談相手であり、モルモン教会第二の指導者として台頭することになったのである。

 ベネットは、ジョセフの腹心の部下として、ジョセフの夢の実現に大きく貢献した。独立国家(州)建設というジョセフの計画に不可欠な「特許状」をジョセフと共に作成し、その「特許状」をイリノイ州から獲得したのはベネットである、というのが通説である。しかしある研究によれば、ベネットは政治的コネクションをまったく利用せず、「特許状」がノーヴー市に与えられたのは偶然であるという。当時、イリノイ州はホイッグ党と民主党の勢力が拮抗しており、どちらの政党も新興のモルモン教の票に興味を示し、モルモン教がそのチャンスを利用して「特許状」を獲得したのだ、事実、他の新興都市も「特許状」を得ているではないか、という。ただしベネットは、イリノイ州議会の開催期間中、ロビーイスト(議会工作の活動家)として奔走していたことも事実である。

 またベネットは、モルモン軍と市政府の考案と、その設立に貢献した。そして新しいノーヴー市長として、さらにノーヴー軍の准将として、ジョセフの陰になり日向になって働くのである。たとえばベネットは、イリノイ州市民軍の主計総監という自らの立場を利用して、ノーヴー軍のためにイリノイ州から武器を流用するのである。当時、イリノイ州市民軍はマスケット銃を使用していたのに対し、ノーヴー軍は最新式のライフル銃を備える部隊をつくることができたのである。

 こうしたベネットの目覚ましい活躍のゆえに、ベネットへの信徒の苦情についてはジョセフは聞く耳をもたなかった。しかし、ベネットは多妻婚にたいしてジョセフに劣らぬ関心を示し、いろいろな女性への接近・誘惑を公然と試みるに及んで、ジョセフはこれを放任することができず、リグダンの娘ナンシーの一件を契機として、ジョセフとベネットは犬猿の間柄となるのである。モルモン教の側にたつ研究書には、ベネットはプレイボーイであり、モルモン教会がまだ多妻婚を知らないとき、スミスの親友という立場を利用してベネットが勝手に女性たちを誘惑した、そしてベネットが、これはすべて一人で思いついた悪行であり、申し訳ないことをしたと謝罪したと説明している。

 ナンシーの一件とは、副管長リグダンには一九歳になるナンシーという娘がおり、ジョセフもベネットもナンシーに特別な関心を示していた。ジョセフはナンシーを多妻の一人にしたいと望み(ジョセフには、その時点で少なくとも一〇人の妻がいた)チャンスを伺っていた。ジョセフがナンシーをオーソン・ハイド夫人(ハイド夫人とは、ナンシー・ミランダ・ジョンソンのことで、彼女はハイド氏と結婚する以前にジョセフの多妻の一人となっている。「第一回、および第二回ミズーリー旅行」参照)宅に一人でくるように誘ったことをベネットが聞きつけ、先手を打つのである。ベネットはナンシーに、決して一人ではジョセフとは会わないようにと執拗に訴えたが、驚いたナンシーは大声を上げてその場をのがれた。そうとは知らないジョセフは、自分と結婚することが神の望むことであり、正しいことであるという趣旨の手紙をナンシーに書いた。ナンシーは悩んだ末、父リグダンに手紙を見せ、ジョセフの悪巧みが露顕したという事件である。かんかんに怒るリグダンを前に、ジョセフは最初これを否定していたが、しかし証拠の手紙を突きつけられ、認めざるを得なかったのである。この一件以来ジョセフとリグダンの間には決定的な亀裂が生じ、他方、ジョセフとベネットの関係も険悪化の一途をたどることとなる。

 さてベネットがいろいろな女性を誘惑していたのは事実であるが、それは決してベネットに限ったことではない。ベネットは、親友であったジョセフ・スミスの模範に従ったまでのことである。ベネットはジョセフのもっとも私的な部分を知っていたし、その一部分には自らも関わっていたため、ジョセフは、ベネットを敵にまわすことに大いなる躊躇と危険性を感じていたのである。事実、ベネットはモルモン教会から破門された後、自らの体験にもとづく『聖徒たちの歴史、もしくはジョセフ・スミスとモルモン教の暴露』を、同年(一八四二年)暮れに出版し、その中でモルモン教を暴露し批判したのである(35)。しかもベネットの著書の内容は、各地の主要な新聞に掲載されることとなり、それ以降アメリカ市民のあいだで、モルモン教徒といえば多妻婚がイメージされるようになった。ベネットの著書には、モルモン教にたいするさまざまな批判が述べられているが、たとえば次のようなものが目につく。

 ジョセフはフロンティアに独裁制をしいて、西部諸州を転覆し、自らを王とする帝国を設立しようと企て、モルモン軍の手によってそのことを推進しようとしている。私(ベネット)は、この軍隊のために大砲三〇門と大量の武器をイリノイ州から調達した。モルモン軍の兵士は、ほとんど全員がダナトイ団の「死の誓約」を交わしており、ことの善悪に関係なく、あらゆる方法を用いて預言者ジョセフを護ることが義務づけられている。ダナトイ団のなかでも一二名の荒くれ男は「破壊の天使」とよばれ、かれらは白いローブをまとい、腰には真紅のサッシをまき、その任務は預言者ジョセフの敵をみつけだし真夜中に暗殺することである。またノーヴーの頽廃ぶりにも言及し、ジョセフの設立した売春制度をこと細かに描き、これはすべてモルモン教会の指導者たちのためのものであると語る。さらにジョセフの好色ぶりを述べ、彼は美しい売春婦から、ナンシー・リグダンのような未婚の娘たち、さらに既婚夫人にまで手をだしているとし、プラット夫人などの実名をあげて述べている(プラット夫人のことは「多妻婚」の項で述べる)。ともかくベネットは、ジョセフ・スミスこそ、その界隈で最大のくわせ者だと結論づけているのである。 

 ベネットの結論はともかく、具体的な出来事を詳細に報告している点で、このベネットの著書はモルモン教会にとっては厳しい内部告発である。モルモン教会は、ベネットが評判のよくない男であったことを理由に、この告発をたんなる中傷として片づけている。しかし、ベネットは短期間であったにせよジョセフがもっとも信頼を寄せる腹心の部下であり、ジョセフの片腕であったという事実も忘れてはならない。しかも取りあげられている具体的な出来事はベネットのたんなる捏造ではなく、事実、ナンシーの一件にしろ、プラット夫人の一件にしろ、教会を分裂させかねない出来事であったし、実際、その後多妻婚をめぐってモルモン教は内紛と分裂を経験することを考えれば、これは中傷として片づけられない告発である。

(35)John C. Bennett, The History of the Saints, or an Expose of Joe Smith and the Mormons, Boston, 1842 (Photomechanical Reprint)


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