高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史
5 ノーヴー時代(1840-45)


 ノーヴー時代は、その後のモルモン教を理解するための重要な時期である。ノーヴー時代のモルモン教に詳しいロバート・フランダース(サウスウエスト・ミズーリー州立大、歴史学教授)、歴史家クラウス・ハンセンの研究を参照しつつ概要をまとめてみたい。

 結論を先取りすれば、まず、モルモンの指導者は政治的独立を目指す一種のモルモン自治州(国家)を建設しようとした。独立州建設という政治的野望を達成するため、まずノーヴー市はイリノイ州から「特許状」を得、これに独自の解釈を加え、ノーヴーを独立国家として機能させようとする。教会がノーヴー市を牛耳る、いわば神権政治体制の確立を目指し、ノーヴー軍や市議会、条令による社会・経済統制をしいた。その後「特許状」の内容をめぐってイリノイ州と摩擦が表面化すると、モルモンの指導者たちは、教会のなかに影の支配集団「カウンシル・オブ・フィフティ」を結成し、あらゆる方法で独立を達成しようとした。また同時に、スミスは大統領選挙への出馬により、合法的な解決も目指した。この独立国家建設という政治的野望はやがて、未開の地ユタへのモルモン教徒の大移動へとつながっていく。

 またこの時期に、モルモン教会はフリーメーソンとの関わりを深め、モルモン幹部がこぞってフリーメーソンの会員になり、ノーヴーにフリーメーソンのロッヂを建設するが、その一方で、モルモン教そのものをフリーメーソン(秘密結社)化していく。そして、それまでのモルモン教には存在しなかった「死者のバプテスマ」とか「エンダウメント」のようなさまざまな秘密の儀礼を導入するのである。

 もう一つの特徴は多妻婚である。ジョセフはそれまでの単発的、実験的、躊躇をともなった秘密の誘惑から、次第に多妻婚にたいして積極的になっていく。ノーヴー時代に多妻婚の啓示が信徒たちにはじめて公にされたのである。ジョセフの六〇名以上の妻は、殆どがこの時代に結ばれた関係である。また多妻婚が暴露され、暴露した新聞社を襲撃・破壊するという事件を引きおこしたため、結局、暴動の罪で逮捕され、そのままジョセフ・スミスは刑務所にて一命を落とすことになった。

 この時期のもう一つの特徴は、モルモン教指導者間での分裂・分派である。ジョセフと教会第二の指導者リグダンの関係の亀裂と、もう一つは、ジョセフとドクター・ベネットの急速な接近と分裂、そしてジョセフの死後に起こった、親スミス派と親ヤング派の分裂である。イリノイ州における独立国家建設が難しくなってきた時、ジョセフ・スミスのテキサス移住案が、ブリガム・ヤングの提唱するユタ・オレゴン移住案に優先されて検討されていた。しかし、スミスの獄死にともない、後継者争いの後、新しい指導者になったヤングはテキサス移住案を無視し、ユタ移住案を積極的にすすめた。スミスの夢に忠実であろうとした親スミス派は、ヤングに反発して教会から離脱し、独自のモルモン教会をつくった。従ってユタへの移住は、ブリガム・ヤングを指導者と認める親ヤング派が中心となったのである。


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