高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史 - 4 ミズーリー時代

イリノイへの遁走


 「モルモン戦争」はジョセフ・スミスの逮捕により幕切れとなったが、この時逮捕された者は兄ハイラム、リグダン、パーリー・プラット等の指導者であり、この逮捕者の中にブリガム・ヤング、エドワード・パートリッジ、ヒーバー・キムボールはいなかった。数日後に裁判が開かれたとき、州側の証人として列席していたのは、リード・ペック、ジョン・コリル、フェルプスといったスミスの側近たちであり、ジョージ・ヒンクル、ジョン・ホイットメアーなど、モルモン教会から追放されたかつての指導者たちであった。そして、そこに「ダナイト団」の隊長サムプソン・アヴォードの姿もあった。

 こうしたスミスの側近やモルモンの指導者たちの口から異口同音に語られたことは、ダナイト団の設立、異分子の追放、ガラティンやミルポートなどでの略奪、独立政府樹立とその狙いであった。またアヴォードからは、ダナイト団の団員規則と組織一覧を明示する文書も提出された。その中には、戦争〔を計画・指揮する〕長官が存在したことまで記されていた。しかし逮捕されたモルモンの指導者たちは、これらの関与を否定した。

 弁護士ドニファンの努力や、かつて追放されたジョン・コリルの嘆願が功を奏してか、モルモン教徒にたいする同情の声もあった。しかし結局、ミズーリー州からモルモン教徒が追放される運命はすでに決定されていた。これは「モルモン戦争」の終結直前、一八三八年一〇月二七日、州知事ボッグズによる「モルモン教徒の撲滅と追放」令が発令されていたからである。このため、モルモン教徒は命からがらミズーリー州からの遁走を余儀なくされたのである。逮捕をまぬがれたブリガム・ヤングの指導のもとで、モルモン教徒たちはミシシッピー川の対岸、イリノイ州クインシーに一時的に難を逃れた。またジョセフ・スミスとその仲間も、一八三九年五月、裁判地の変更にともなう護送の途中で役人に賄賂を握らせ、そのまま逃亡し、イリノイ州に逃げこむのである。

 「モルモン戦争」は法的な決着をみることがなかった。ジョセフ・スミスは、後日、ワシントンに大統領ヴァン・ブューレンを訪ね、モルモン教徒がミズーリー州で失った土地や財産の回復(彼らの要求額は二〇〇万ドルであった)に関して、直々に訴える機会があったが、何の約束を得ることもできなかった。この当時、すでに州の問題に連邦政府がどの程度介入が可能かという、州権と連邦政府の権利をめぐる議論があり、連邦議会や大統領もうかつな行動はとれなかったのである。モルモン教徒の側からの、基本的人権、すなわち生命、自由、財産の権利、および信教の自由が侵害されたという訴えは、アメリカ建国二〇〇年の一九七六年六月二五日、当時のミズーリー州知事クリストファー・ボンドが、一八三八年の州知事ボッグズによる「モルモン教徒の撲滅と追放」令は、モルモン教徒にたいして多大な苦難や犠牲を強いたとして、ミズーリー州民を代表して正式に謝罪することによって、一応の解決をみた。しかしモルモン教の側からのミズーリー州住民にたいしての、生命、自由、財産の権利侵害に関する謝罪の言葉は、当時もまたその後も一度として聞かれることはなく、モルモン教会は沈黙したままなのである。


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