高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史 - 4 ミズーリー時代

戦争のドロ沼化


 こういう具合に紛争はますますエスカレートしていくが、その後の経緯を、歴史家スティーフン・ルシュール(インサイド・ワシントン出版社、副編集長)の研究からまとめてみよう(26)

 初期の開拓民の行動は、理性的で節度のあるものであったが、開拓民はしだいに自警団を組織し、モルモン教徒をその土地から追放するために呵責なき行動にでた。モルモン教徒との平和的共存は不可能との判断に達したからである。彼らはこうした行動を違法であるとは考えず、むしろ法を補足するものとみなしていた。モルモン教徒がこうした異常事態をひきおこしている以上、彼らの行動も正当なものであると考えた。開拓民はたびたび集会を開き、議論を交わし、彼らの企図を印刷し、有力者に援助を依頼した。

 この当時のモルモン教会のやり方は、むしろモルモン教に対する住民の敵意に油を注ぐ結果になる。コールドウェル郡では、モルモンの指導者が政治を左右し、モルモンの秘密警察ダナイト団は、モルモンの絶対的指導体制の確立に暗躍した。このためミズーリー州の住民は、モルモン教をますます狂信的で非アメリカ的宗教であるとみなすようになる。モルモン軍とダナイト団は、非モルモン教徒の開拓民に恐怖心を植えつけたし、また開拓民はモルモンの軍人を、冷酷な人間であると考えていた。

 モルモン教会には秘密結社ダナイト団のほかに、モルモン軍が組織されていた。モルモン軍は暴力沙汰のときにかりだされたが、彼らは過剰な攻撃をしたり、ときには罪のない市民にたいして報復を行った。モルモン軍の選民としての自覚と、指導者にたいする絶対的信頼、さらに決して追放されまいとする決意が、彼らを多くの誤り・罪へと導いた。モルモン教徒はミズーリー州に多くの友人・理解者をもっていたが、武力や暴力で解決を計ろうとしたために、その友人や理解者からの支持も失うのである。事実、その後、双方の暴力はエスカレートし、モルモン教徒による暴行、放火、殺人、財産や家畜の略奪がくり返された。また住民や自警団によるモルモンへの報復として暴力行為、略奪行為もあった。地域住民による暴力としてもっともよく知られている事件は、停戦直前の一〇月末、ホーンズミルというモルモン教徒の部落が自警団に襲撃され、一七人が殺害され一五人が負傷するという事件である。

 郡や州当局は、ますます過激になる紛争をなんとか平和裡に解決したいと願い、犯罪にかかわった多くのモルモン教徒や開拓民を逮捕したが、この騒ぎはいっこうに静まるようすがなく、やむをえず州の民兵を導入して鎮静化を試みた。ミズーリー州の民兵は、初期のモルモン教徒と自警団の衝突を回避させることはできたが、自警団からの執拗な圧力に抗しきれず、やがて解散された。民兵は民間の紛争解決のための訓練をうけていなかったし、また隣人である自警団にたいし同情を示したからである。あとはモルモン教徒と自警団とが勝手に紛糾するに任せられた。

 この事態を解決できたのは州知事ボッグズ以外にはいなかったとみられている。すなわち、すべての連隊を出動させるより、ボッグズ自身が姿をみせることこそ自警団を鎮静化し、少なくても一時的和平をもたらしたのではないかといわれている。しかしボッグズは、モルモン教徒や旧開拓民、軍の士官からの度重なる要請にもかかわらず、紛争の現場に一度として姿を見せなかった。したがってボッグズが紛争の解決に乗りだした頃には、州当局では収拾できないほど紛争はエスカレートしていたのである。

 この紛争を始めから憂慮する人物が数人いた。デイヴッド・アチスン将軍、アレグザンダー・ドニファン将軍、それにジョサイア・モーリン州上院議員である。アチスンは市民軍の士官、州議員であり、モルモン教徒のために働いていた弁護士であった。ドニファンは弁護士であり、かつてモルモン教徒のための弁護をしたこともあり、彼らの良き理解者であった。彼らは、市民が共謀して自警団を組織したり、無法行為にたいし一貫して反対の立場をとってきた。しかしモルモン軍の遠征が頻繁になるにしたがい、またモルモン教徒がコミュニティーにとって大きな脅威であると確信するにいたり、モルモン教徒か開拓民かの選択を迫られた時、彼らは開拓民を支持する立場を選択したのである。州知事ボッグズに宛てた彼らの報告により、ボッグズはモルモン教徒を追放すべく州軍を召喚した。一〇月三一日、ジョセフ・スミス、シドニー・リグダン、ライマン・ワイトなどの指導者は降伏する。翌一一月一日、スミスはモルモン軍に降伏するよう説得し、ここに戦争は終結した。

 同日、ルーカス将軍は軍法会議を開き、七人のモルモン指導者の極刑を主張するが、ドニファン将軍などが処刑に反対。その後、議会上院における聴聞会が開かれ多くのモルモン教徒が証言台に立たされ、これが記録として残されている。翌年五月、ジョセフ・スミスと四名の指導者がデビース郡における犯罪で告発され、リバティ刑務所に収監される。その後、裁判地の変更による護送の途中、ジョセフ・スミスとその仲間は役人に賄賂を握らせ、そのまま遁走し、イリノイ州のクインシーに逃げこんだ。以上がルスュールの理解する「モルモン戦争」の経緯である。

(26)Stephen C. LeSueur, The 1838 Mormon War in Missouri,(Columbia, Univ. of Missouri Press, 1990)


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