高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史 - 4 ミズーリー時代

モルモン戦争の始まり


 一八三八年七月四日、アメリカ独立記念日に副管長シドニー・リグダンは、周到な準備のもとにつぎのような戦闘的な演説を行っている。

 「・・われわれの権利は、これ以上踏みにじられてはならない・・われわれの権利を侵害する者があれば、われわれと彼らの間の皆殺しの戦争になるであろう。すなわち彼ら全員の最後の一滴の血が流されるまで、われわれは彼らを追跡するであろう、さもなくば、彼らがわれわれを皆殺しにしなければならないからである。なぜならわれわれは彼らの家族や家々まで押しかけ、われわれか彼らのどちらかが完全に破滅するまでは戦争を止めないからである・・」(21)

 このリグダンの演説は、いわばモルモン教の側からの敵にたいする「皆殺し宣言」であり、モルモン教徒にたいしては暴力行使の免罪符を付与する象徴的演説であった。このリグダンの演説の一ヶ月後に紛争が始まったのである。ことの起こりはデビース郡ガラティンという町における選挙日でのもめ事である。その日事件の現場にいたダナイト団の一人で、この乱闘そのものにもかかわったモルモン教徒、ジョン・ディー・リーの証言では、事件の真相はおおよそつぎのようであった。

 「・・モルモン教徒が投票を始めたとき、リチャード・ウェルドンという酔っぱらいがブラウンという名のモルモンの説教者に近づき、喧嘩を売った。
 おまえはモルモンの説教者か。
 いかにも、私はモルモンの説教者である。
 おまえたちモルモン教徒は、按手により病人を癒したり、異言を語ったり、悪霊を追いだせると信じているそうではないか。
 たしかにそのように信じているが・・
 おまえたちは大嘘つきだ。ジョセフ・スミスは大嘘つきだ。
 ウェルドンはこう言いながらブラウンに襲いかかり、彼を殴りつけた・・モルモン教徒のハイラム・ネルソンが止めに入ったが逆に殴られた・・そのときモルモン教徒ライリー・スチュアートが木材でウェルドンの後頭部に一撃を加えた・・
 投票所の近くには材木置き場があり、手頃な木材がころがっており、危険な武器となった。スチュアートが男たちに囲まれると、モルモン教徒たちは木材を手に、スチュアートの救出にかけつけた。ダナイト団のメンバーから危機のサインが出されたからである〔ダナイト団のメンバーは危険な状況に陥ったとき、助けを求めるサインを出すこと、他のメンバーはサインを見たら、それが正しいかどうかに関係なくとにかく万難を排して仲間を救出すること、それによって生じる問題はすべて教会のリーダーに任せなさい、と教えられていた。筆者注〕。スチュアートが肩を刺されて、逃げようとすると、再び敵に囲まれた・・再び危機のサインが、今度はダナイト団のリーダー、ジョン・バトラーから出された。私〔リー〕はダナイト団のメンバーだったので、ただちにそれに応じて救出に加わった・・ネルソンも男たちに囲まれていたが、先に鉛のついたムチを使って襲ってくる男を打ちのめしていた・・
 ・・バトラーも男たちに囲まれていたが、彼は屈強な男であったから木材を手に、敵をつぎつぎになぎ倒していた・・まもなく争いは終わった・・この乱闘で、九人が頭蓋骨を割り、他の多くの者もみな重症であった・・そこに居合わせたのは男三〇〇人で、そのうち三〇人がモルモン教徒であり、乱闘に加わったのはその中の八人だけであった・・
 ・・私はスチュアート以外の男は知らなかったが、ダナイト団の危機のサインが出されたので、乱闘に加わったのである・・」(22)

 リーはバトラーを無法者でモルモン教徒の敵だと思っていたが、乱闘が始まったとき、バトラーがダナイト団の危機のサインを出したので、彼は敵ではなく味方だと知ったと述べている。モルモンの秘密結社であり自警団であるダナイト団の存在は、モルモン教徒にすらまだ秘密にされており、メンバーも互いの顔は知らなかったのである。この事件でモルモン教徒のなかに負傷した者はいたが、死んだ者はいなかった。しかしモルモンの敵には、かなりの死傷者がでた模様である。ともかく、このようなモルモン教徒と地域住民とのいざこざから、しだいにミズーリー州全体をまきこむ紛争へと発展するのである。

 スミスの書記であり、ダナイト団の副官であったリード・ペックの記録には、事件の翌日の様子が述べられている。 

 「モルモン教徒が虐殺されたという誇張された噂が、翌朝、コールドウェル郡に飛びかった。その報復のため、ジョセフ・スミス、シドニー・リグダンが一五〇名のダナイト団の先頭にたち、真昼にデビース郡にむけて進軍を開始した・・住民たちはモルモンの武力に対抗できないことを知り、森のなかに逃げこんだ・・モルモン軍はそこに二日滞在し、その間、一人の住民に和平協定書にサインさせ、その土地の治安判事アダム・ブラックを脅し同様の証文をとろうとしたが、しかし結局、彼が用意した別の証文で我慢した・・」(23)

 治安判事ブラックの家に押しかけたのは八月二八日のことであった。ダナイト団の隊長ドクター・アヴォードの議会上院での証言では、この時、もしも治安判事ブラックが証文にサインをしなかったなら、ブラックを殺害することが予め決められていたという(24)。再びリード・ペックの記録に戻る。

 「ジョセフ・スミスとライマン・ワイト、その他のこの事件にかかわった人物に逮捕状が出された。敵意をむきだしにしたモルモン教徒の行動のニュースが、またたくまに遠くの地域にまで広まった。しかし地域住民がモルモン教徒との共存は不可能であるとの認識から、モルモン追放の行動を起こすまでにはしばらく時間がかかった。デビース郡の住民は九月始め、隣接する郡の住民の援助をうけて補強された。彼らの脅迫はモルモン教徒を色めきたたせ、一触即発の空気がみなぎった・・
 これと同時に、ジョセフ・スミスはレイ郡にいる巡回裁判所判事に嘆願書を送り、追放の危機にたつモルモン教徒のために仲裁を嘆願した。そのためにアチスン将軍は民兵を組織し治安を回復してほしいという要請をうけた。そこでアチスン将軍は、クレイ、レイ両郡で五〇〇名の民兵を率い、なんとか紛争をくいとめようと、直ちにデビース郡にかけつけた・・」(25)

 リード・ペックによれば、アチスン将軍と民兵の努力にもかかわらず、その任務は失敗であった。モルモンと地域住民双方のリーダーが行ったことは紛争に油をさすことであり、そのまま広範囲の紛争へと発展した。またデビース郡に派遣されていたモルモン軍は、その任務を終えてコールドウェル郡へ帰還の途上、敵である地域住民の農場から麦や家畜をひそかに略奪した。ジョセフ・スミスが手紙で、安あがりの生活手段としてそうすることを勧めていたからだという。あるいはスミスの手紙がくる以前から、知能犯的リーダーが、すでに略奪を始めていたのかもしれない。

(21)A Comprehensive History of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, by B. H. Roberts, Vol. I, p. 441
(22)Confession of John D. Lee, Photomechanical Reprint of 1880 Edition, pp. 58 - 60
(23)"The Reed Peck Manuscript" (typescript, Salt Lake City: Modern Microfilm, n.d.)dated Sept. 18, 1839
(24)Affidavit of Doctor Sampson Avard, Senate Document 189, p. 2
(25)The Reed Peck Manuscript, dated Sept. 18, 1839


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