高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史
4 ミズーリー時代(1838-39)


 ジョセフが他の指導者やその家族とともにコールドウェル郡ファー・ウエストにやってきたのは、一八三八年三月一四日のことであった。ミズーリーの信徒たちは心からジョセフを歓迎した。理由が何であれジョセフがミズーリーに来ることになったのは、神の導きであると信じて疑わなかったのである。ミズーリー共同体は、未開の大草原に土地を求め、開墾と村づくりを細々と始めていた。大草原とよばれてはいるが、ミズーリーは樹木が生い茂り、土地は豊かであった。また指導者たちに数カ月遅れて、カートランドから行き場のなくなった信徒たちが、またその後、カナダからの改宗者もやってきて新しい生活を開始した。

 当時、ミズーリー州の人口は三二万五〇〇〇人で、その大半は州の東側に住んでいた。一方、モルモン教徒はミズーリー川の北部、州の北西部に集中し、モルモン教徒以外の人口はまばらであった。モルモン教徒の数はやがて一万人にまで膨張し、コールドウェル郡には五〇〇〇人、その周囲のデビース、レイ、キャロル、チャーリトン郡に残りのモルモン教徒が定着した。その地域では、モルモン教徒が地域住民をほぼ二対一の割合で圧倒していた。ヴィンソン・ナイトというモルモン教徒の記録によれば、彼が入植した五月には、デビース郡にはモルモンの一二〇家族と他の開拓者一四〇家族が入植していたが、一一月にはモルモン教徒の数が二〇〇〇人にまで増えたという。こうした状況のなかから、やがてモルモン教徒と地域住民との紛争が発生するのである。これが「モルモン戦争」とよばれている、一八三八年の夏から初冬までのほぼ四ケ月間にわたる紛争である。

 モルモン教徒は、西部に新エルサレムの建設を命ずるスミスの言葉に従ってミズーリー州へ移動してきたが、その入植した先で旧開拓民からの抵抗にであった。開拓民たちはモルモン教の教えにたいし、猜疑心を抱いていたからである。モルモン教徒は、彼らこそ神の選民であり、ミズーリー西部は神が彼らに与えたシオンの土地であると主張していた。モルモン教は閉鎖的集団であり、その経済活動も閉鎖的であった。開拓者の眼には、指導者や教団にたいするモルモン教徒の盲目的忠誠・服従が、狂信的に映ったのである。あるいは、ミズーリー西部の開拓民がほとんど南部出身であったのに反し、モルモン教徒はカナダからの移民と北部出身者であったことも紛争の遠因であったかもしれない。またモルモン教徒は、旧開拓民の経済を脅かした。というのは地元の土地投機業者は、広大な土地を教会の基金で購入するモルモン教会には歯がたたなかったからである。一八三八年の夏にかけ、モルモン教徒が大挙して入植しはじめ、その数は一万人に達した。そして新しく出現した、ダイアマンとかデウィットなどのモルモン教徒の町が、新しい政治・経済の中心地として急激な成長をとげ、それまでの政治・経済の中心地にとって代わった。こうしたすべてのことが、旧開拓民の不安と恐怖心を募らせることとなり、とり返しのつかない事態になる前に手をうたなければならないという、逼迫した行動へと開拓民をかりたてることになったのである。


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