高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史 - 3 カートランド時代

モルモンの銀行事業


 こうした外部からの融資や借金は、一時的には支払いが延期されはしても、いずれは返済しなければならないし、また利子もかさみ根本的解決どころではなかった。そこで、これらの負債を清算するにはどうすべきかが検討され、熟慮の結果、一八三六年一一月「カートランド安全協会銀行」( Kirtland Safety Society Bank Company) を設立することになった。シドニー・リグダンが頭取、ジョセフ・スミスが現金出納係、銀行の資本金は四〇〇万ドルは下回らないというふれ込みであった。しかし実際にこれだけの資本があったなら、融資をうけたり借金をする必要はなかったはずである。ともかく土地の投機は膨大な金を必要としたし、また人々は銀行の設立を待望していたから、この銀行事業は彼らの大問題を解決するはずであった。

 一八三七年、新聞紙上で銀行開設の大々的宣伝と、新しい信徒たちにたいする銀行への投資の呼びかけがなされた。しかし紙幣の原版が到着したその日、オハイオ州はモルモン教の銀行を認可しないというニュースが届いた。したがって操業は以後、非合法となったのである。ジョセフは面目を保つため信徒にたいしては、これは「モルモンに対する嫌がらせである」と説明した。しかしモルモン教徒の歴史家ロバート・フィールディングは、モルモン教会が申請書を提出した形跡がまったくないという。また仮に申請がなされ無事に交付されたとしても、それは三月末になったはずで、したがってモルモン教会はそれまで待てなかったはずだと述べている(18)。

 モルモン教会は銀行の開設にむけてすでに走りだしており、州からの不認可の通知があったにせよ、そのままつっ走ることを得策と考えた。そこで発行された紙幣に一部訂正を施し(印刷された Bank の文字の前後に、それぞれ anti-およびing を加え) そのまま使用した。したがって銀行の正式名は「カートランド安全協会反・銀行」である。彼らは、自分たちの銀行が十分な正貨をもっていることを人々に印象づけるために、単純な騙しのテクニックを使った。つまり銀行の棚に一〇〇〇ドルと印された箱をたくさん並べていた。実際の中身は石とか砂であったようであるが、どの箱も一番上には五〇セント銀貨を重ね、いかにもギッシリと銀貨が詰まっているかのように見せかけていた。その効果はてきめんでジョセフの銀行は一躍、もっとも信用のある銀行になったという。一時、銀行の現金出納係として働いていたウォレン・パリッシュは、一八三八年にこのように記している。

「・・・ジョセフが、われわれの棚には六万ドルの金貨、銀貨があるし、また一報さえすればただちに六〇万ドルの金貨、銀貨が手に入るのだと言いきったときには驚いてしまった。というのは、われわれの手元にあった正貨はたかだか六〇〇〇ドルで、それ以上はどこからも入手するあてがなかったからである。また、出回っている紙幣は一万ドルであると説明されていたが、実際には、一五万ドルの紙幣が出回っていたのである」(19)

 モルモン教の銀行が発行した銀行券(紙幣)は、バッファローやニューヨークの商人には信用されず、また銀行からまるで相手にされなかった。クリーヴランドの商人たちも警戒を強めモルモンの紙幣を受けいれず、このため大量の紙幣がモルモンの銀行にまい戻ってきた。ジョセフは始めこれを買い戻していたがじきに正貨は底をつき、一八三七年一月二七日、閉店を余儀なくされた。銀行を操業してわずか一ケ月後のことであった。三月には非合法の銀行操業の罪に問われ、罰金一〇〇〇ドルが課された。この銀行操業違法の事実が、当時のモルモン教会のあらゆる活動が非合法だったのではなかったか、という疑念を抱かせる。ともかくこの一件でジョセフの信用は地に堕ちたのである。

 一八三七年五月は、全米規模でみても、合計すれば一億二〇〇〇万ドルの預金額にのぼる、八〇〇の銀行が操業不能の事態になっている。一八三七年は、前年の好景気とうって変わって大不況の年となった。

(18)Robert Kent Fielding,"The Growth of the Mormon Church in Kirtland, Ohio." Ph.D.Dissertation, Indiana University, 1958, pp. 179 -181
(19)Letter to Zion's Watchman, March 24, 1838, cited from Brodie, op. cit., p. 197


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