高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史 - 3 カートランド時代

『アブラハムの書』と黒人差別


 「シオン軍」によるシオン奪回作戦の失敗によるミズーリー撤退から、一八三八年、再びシオン奪回を画策しミズーリー州住民との全面的「モルモン戦争」に発展するまで、ほぼ三年間あるが、その間、特筆すべき出来事が三つある。一つは銀行設立とその失敗、多妻婚の開始、もう一つはパピルスの入手である。

 ジョセフはつねづね、自分が無学であることを人前で公言し、「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする」という聖書の言葉で自分を弁護してきた。しかしジョセフは内面では劣等感に悩まされており、それだけ向学心も旺盛だったと研究者はいう。この頃、ジョセフは外から専門家を招いて、ギリシャ語やヘブライ語の学習を始めており、他のリーダーたちにも学習を勧めていた。

 一八三五年の夏、マイケル・チャンドラーという人物がエジプトのミイラ四体とパピルスを携えてジョセフのもとを訪れた。彼はジョセフが古代エジプト文字を翻訳したという噂を聞き、パピルスの内容を判読してもらうために訪ねてきたという。後日、ジョセフがジョサイア・クインシーに語ったところでは、この時ジョセフの母がミイラとパピルスを六〇〇〇ドルで購入したそうである。さて当時の言語学の専門家たちは、パピルスは本物であるが内容については判断できない、ということであった。考古学者シャンポリオンがロゼッタ・ストーンに刻まれていたヒエログリフ(象形文字)を解読したのはちょうどこの頃のことであるが、それが本として出版されたのは一八三七年のことである。ジョセフがパピルスを入手したのはその二年前のことであるから、パピルスは専門家でさえ解読できない時代だったのである。

 ジョセフは念入りにパピルスを調べたのち、一つはアブラハムが書いたものであり、もう一つは〔ヤコブの子〕エジプトのヨセフが書いたものであると語った。このようにしてジョセフは『アブラハムの書』の翻訳にとりかかるのであるが、最初は自らの語学力で解読を試みるポーズをとっていたが、結局『モルモン経』のときと同様、直感で翻訳をすすめたようである。秘書であったウォレン・パリッシュの記録では、「私はジョセフの傍らに座り、ジョセフが天からの直接のインスピレーションによって受け取ったという、エジプトの象形文字を書きとめた・・・」という。しかし実際には、『ヨセフの書』は手つかずのままだったし、『アブラハムの書』は一八四四年まで印刷されなかった。

 『アブラハムの書』は、ジョセフの語学の才を判断する注目すべき書である。ジョセフのパピルスは彼の死後売却され、シカゴの大火で焼失したものと信じられていた。したがって件のパピルスが、本当にアブラハムの手になるものかどうか永遠に不明のままになるところであった。しかしごく最近、件のパピルスはニューヨーク・メトロポリタン美術館に保存されていることが判明し、その後、数人の専門家によって解読が試みられた。専門家の一致した意見では、これはエジプトの神々の埋葬に関するパピルスである、ということである。これによって、ジョセフは古代エジプト文字についてはずぶの素人であったことが証明されたことになる。したがって同じ文字で書かれていたとされる『モルモン経』についても、かりにこれが金版からの翻訳であったとしても、翻訳された内容については眉唾であると受けとられても否定することは難しいのである。いずれにしても『アブラハムの書』なるものは、事実上、架空の書物であることが明らかになった。

 『アブラハムの書』は、内容的にも重要な問題を含んでいる。モルモン教の黒人差別や人種主義は周知の事実であるが、その思想的根拠が『アブラハムの書』に由来するからである。この書によれば、黒人の祖先はノアによって呪われ、それ以来、黒人は神権をうけることが許されない運命の下にあるとする。また人間は誕生する以前、すでに霊として存在し、知性の優れた霊と劣った霊は、それぞれの知性に応じて別々の星に住み、別々の人種として誕生してくる、というのである。つまり『アブラハムの書』は、なぜいろいろな人種が存在するかということを説明するモルモン教の神話である。と同時に、呪われた存在としての黒人を、モルモン教のなかでは二級市民として位置づけ、差別する神話であり、さらには差別を合理化する神話である。モルモン教は、黒人を長いあいだ正式な会員としては認めてこなかった。

 モルモン教徒のなかに黒人奴隷を所有する者が増えてきたとき、そういう連中を会員から除外すべきであるとする意見が一部の指導者からでたことがある。つまり初期の指導者のなかに「奴隷制度即時廃止論」のシンパがいたのである。これにたいしてジョセフは、奴隷制度については不干渉、「奴隷制度即時廃止論」については反対の態度をとった。ジョセフが奴隷制度を肯定する根拠として『アブラハムの書』のほかに、天国におけるエホバとルシファーの戦いの物語を援用する。天国には三種類の霊が存在する。エホバ、すなわち神の側につく霊と、ルシファー、すなわち悪魔に加勢する霊と、どちらにも組せず戦いの推移をただ見守る霊がある。さてこの日和見的な霊は、アウトサイダー的態度をとることにより結局はルシファーに味方したのであり、その結果としてアフリカ人として生まれるよう運命づけられた、という物語である。『アブラハムの書』は、こういう物語とともに、モルモン教徒による黒人差別の神学的根拠として用いられてきたのである。

 こうしてモルモン教には、黒人差別あるいは人種主義を当然とする長い歴史がある。こういう黒人差別の歴史は奴隷解放令の後も、あるいは六〇年代の公民権運動の後も、変わることなく続いてきた。したがってモルモン教会こそ、黒人差別と人種主義という立場を最後まで崩さなかった、アメリカ史上、最大宗教グループであった。

 因みに一九七八年、モルモン教は黒人にたいする差別を撤廃し、黒人にも神権を授与するという画期的な宣言が大管長キムボールによってなされた。真面目なモルモン教徒は自分の耳を疑ったに違いない。なぜなら一五〇年間の一貫した教えが、一夜にして変えられたからである。したがって建前のうえでは、黒人差別は廃止された。では『アブラハムの書』は誤りとしてモルモン教会の正典から廃棄されたのであろうか。パピルスが再発見されて以来モルモン内部でもこの文書をめぐってさまざまな議論がなされているようであるが、現在のところ『アブラハムの書』はまだ正典から外されてはいない。ジョセフが後世に残した遺産のなかで、これほど醜悪で深刻な問題をひき起こした文書はない。


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