高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史 - 3 カートランド時代

ミズーリー住民との不和


 しかしこの頃から、モルモン教徒とミズーリー住民との間に摩擦が起こり、これがしだいに大きく膨張し、やがて一八三八年の「モルモン戦争」にまで発展することになる。いろいろな記録をみても不和の原因は明らかではないが、歴史家ブロディーの主張とはかなり違う。ブロディーによれば、ミズーリー住民がモルモン教徒にたいして敵意を抱いた理由は三つある。一つは、ミズーリー州は奴隷州であったが、モルモン教徒は奴隷制度に反対であったこと( 事実はそれと異なる。W「モルモン教と黒人問題」参照)。第二は、モルモン教会の一種独特の社会生活や経済制度が、ミズーリー住民に排他的印象を与えたというもの。第三は、モルモン教徒がシオンの国建設を強調したので、地域住民がいつか自分たちがその土地から追放されるのではないかという危惧の念を抱いたというものである。

 筆者の調査では、問題の一つはモルモン教独自の共同体思想にあった。ミズーリー州でも、モルモン教会はすべての会員にたいし財産の奉納を要求したことである(またその後、ジョセフはモルモン教徒にたいし全収入の一割の献金を義務づけた)。財政的危機と、オハイオ州での「エノク共同体」失敗の経験から、モルモン教会はミズーリー州ではより徹底した共同体の建設を目ざしていた。もともとモルモン教会の運営はローンで賄われており、財政は火の車であった。「ミズーリー共同体」の信徒数は一八三二年には三〇〇名、翌年には六〇〇名、翌々年には一二〇〇名を数えているが、信徒の数は流動的であり、一時的にモルモン教に加わりやがて脱会する者がたえなかった。モルモン教会は脱会者を棄教とみなし、財産を返さなかったため、脱会者の十中八、九は郡や州の裁判所に訴訟し、裁判所はほとんどの場合、脱会者に有利な判決を下した。こうして教会と信徒との間では金銭や財産をめぐるトラブルが絶えず、またモルモン教の側では裁判を宗教問題に対する郡や州政府の政治的干渉としてとらえ、ミズーリー州に対して敵対意識と怨念を深めていくのである。

 第二の問題はシオンの国建設である。ジョセフ・スミスはミズーリー州インディペンデンスこそ主が再臨され、キリストの弟子が集められる新天地、すなわちシオンの国が建設される場所であると預言したのである。モルモン教徒たちはインディペンデンス(ジャクソン郡)を約束の地であると確信し、シオンの国の樹立を一刻でも早めるために自分たちの力でジャクソン郡を手に入れる努力を重ねていた。当時の指導者の一人デイヴィッド・ホイットメアーによれば「モルモンの印刷所が襲われた理由は『戒律の書』(後の『教義と聖約』)のせいである。ジャクソン郡の住民はそれを見て自分たちがシオンの国への侵入者、すなわちモルモン教会の敵であり、したがってシオンの国から排除されねばならない存在であることを発見したのである。『戒律の書』のなかのそうした記述を知った住民は激怒し、モルモン教徒をジャクソン郡から追い出したのである」。いったい『戒律の書』には何が書いてあったのか。  

「・・・世のもろもろの国民はシオンを崇めて言わん。誠にシオンは、われわれの神の市な り。誠にシオンはたおるることを得ず、またその場所より移すことを得ず、そは神そこに在し、主の御手そこにあればなり・・・一方、すべて悪しき者は悲しまん。見よ、報復は、神を畏れぬ者たちの上に・・・速やかに来るなり・・・
・・・されど、シオンもしわがすでに命じたるところを守り行わざる時は、われ激しき苦悩、疫病、災、剣、応報および焼尽す火をもて報いん・・」(12)

 モルモン教徒は自分たちの信仰を認めない者を「敵」とする二元論にたっていた。したがって、モルモン教の側にはじめから対立を生みだし、しかも対立を是認していく必然性があったわけである。そして「敵」にたいしては報復の預言が語られる。モルモンの側からの一方的な報復宣言を黙って見過ごすほど、開拓民はおとなしくはなかったのである。モルモン教徒と住民は、互いに破壊や略奪行為へとしだいにエスカレートしていく。一八三三年八月、暴徒がインディペンデンスになだれ込み、印刷機械を破壊し印刷所を焼き払い、監督パートリッジにコールタールを塗りたくり、モルモン教徒にたいしジャクソン郡から立ち退くように命じる、という事件が起きている。

 当時のモルモンの指導者の一人ウィリアム・マクラリンによれば「・・・指導者や信徒たちは、このような預言を文字通りに受けとり、つぎのように人々に言明していた。ハルマゲドンの戦いは近づいた、もし異教徒が神の法に抵抗するなら流血をみることになろう、と・・・このように語る以外には、なに一つ罪を犯してはいないのである・・」(13)。こういう記述をみると、モルモンの指導者たちは一種の興奮状態にあり、地域住民の警戒心や恐怖心を受けとめる冷静さを完全に欠いていたと言わざるをえないのである。また歴史家クラウス・ハンセン( カナダ・クイーンズ大学教授)はこのように述べている。 

「異教徒たち(地域の住民)がスミスの権威にたいし猛烈に異議を唱えたのには理由がある。というのも、早くも一八三三年に、あるミズーリー州の住民がこのように語っているからである。
 モルモン教徒の預言者(スミス)は信徒たちに、つぎのことを何とか信じこませようとしていた。すなわち、彼は自らの政府、あるいは王国をつくるつもりである、そうすれば彼らは州の法に拘束されなくて済むからである。むしろ、彼ら自身の法を作り、法を遵守させる役人を置こう。こうして独裁者である予言者スミスは、啓示を用いたり、大管長会、あるいは評議員会により支持をうけ、ひとたび命令が下されると信徒はただちにそれに従わねばならないことになっていた・・」(14)  

 このことが大きな問題になったのは、その背景に政治がからんでいたからである。つまり第三は、モルモンの政治的行動である。モルモン教徒は一つの町や郡(カウンティ)に大挙して移住し、行った先々でただちに多数派になったことである。しかもモルモン教会は選挙ではつねに統一行動をとったため、多数派であるモルモン教徒の投票がそのまま通る可能性が高かったのである。地域住民の側からすれば、考え方の異なる他所者が大挙して押しかけ、地域住民の利害をまったく無視した行動をとったばかりでなく、選挙では力にものをいわせて主導権を奪うモルモン教徒を歓迎する訳にはいかなかったであろう。しかも地域住民を敵視し、対立的姿勢を強めていったとなれば、摩擦や紛争の発生は時間の問題であった。

 こうした特徴的な政治行動はミズーリー州のみならず、オハイオ州、イリノイ州、あるいはユタ州でも同様であったから、これはモルモン教の本質にかかわる問題とみてよい。

(12)『教義と聖約』97: 25-26
(13)Salt Lake Tribune, October 6, 1875
(14)Klaus J. Hansen, Quest for Empire, The Political Kingdom of God and the Council of Fifty in Mormon History,(East Lansing; Michigan State Univ. Press, 1967), pp.151 - 52


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