高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史 - 3 カートランド時代

第一回、および第二回ミズーリー旅行


 ミズーリーに到着して分かったことは、リグダンの伝道がまったくの失敗であったことである。インディペンデンス(ジャクソン郡)は店が数軒あるだけの小さな町であり、獲得した信徒はたかだか数人の女性だけであった。一八三○年、大統領アンドルー・ジャクソンはミズーリーの西側、今日のオクラホマ州をインディアン居住地区に指定したため、開拓者はミズーリー州より西へ移動することができず、オクラホマ、カンザスとの州境に位置したインディペンデンスで足止めをくらっていた。

 やがてオハイオ州から逃れてきたモルモン教徒を中心とする新しい共同体が、インディペンデンスとインディアン地区の中間点、今日のカンザス・シティにつくられることになるが、その共同体に加わった者はほとんど無産階級だったため「ミズーリー共同体」は常に財政的な問題をかかえることになる。ジョセフが教会をすべてミズーリーに移す計画であったかどうかは分からない。ともかくオハイオから同行したリグダンや他の信徒が現状に失望し、オハイオに戻るべきことを主張したが、ジョセフもそれに屈し「ミズーリー共同体」をカウドリ、ハリス、パートリッジに任せてオハイオに戻った。こうして貧しい「ミズーリー共同体」と、比較的安定した「カートランド共同体」ができたわけである。ミズーリー共同体は印刷機械を購入し、インディペンデンスにて最初のモルモン教の新聞、かつ当時の最も西部に位置した新聞 "Evening and Morning Star" を、ニューヨーク出身のジャーナリストで詩人のウィリアム・フェルプスの編集の下で刊行を開始する。

 一方、カートランドに戻ったジョセフは人々の強い勧めで、ジョン・ジョンソンの家に寄宿しつつ著作の活動に没頭する。三つの天国説は、この頃のアイディアである。しかしカートランドの教会から離反者が続出した。またミズーリーからも謀叛のニュースが届き、ジョセフは自分でなければ解決できないと考え再びミズーリー旅行へ出発する。しかし出発の直前、一八三二年三月、ジョセフは就寝中暴徒に襲われて、殴られたうえ、体中にコールタールを塗りたくられるという事件が起こった。

 暴徒の一人は、ジョセフが妻エマと寄宿していたジョン・ジョンソン家の息子イーライ・ジョンソンであったが、彼はジョセフが、彼の妹ナンシー・ミランダと親密すぎることに憤慨していたことが原因であった。イーライの怒りは根拠のないものではなく、事実、ジョセフはナンシー・ミランダと関係をもち、密かに彼女を妻の一人としている。モルモン教徒の研究家ジョン・スチュアートは、ナンシー・ミランダをジョセフの最初の多妻であり、その開始を一八三〇年代の始めと考えている。最近の研究によれば、ジョセフは生涯少なくとも六〇名以上の妻をもつが、ナンシー・ミランダはジョセフの初期の妻の一人とされている。このことがイーライ・ジョンソンがモルモン教をすてた原因の一つであった。因みにナンシー・ミランダはその二年後(モルモン教系図図書館の記録では三年後)、使徒オーソン・ハイドと結婚した。しかしその後、ブリガム・ヤングがハイドに彼女がジョセフの妻の一人であることを教えたため、怒ったハイドは二人の間にすでに数人の子供がいたにもかかわらず、ナンシー・ミランダを離縁したそうである。多妻婚がモルモン教徒にすら悲劇をもたらした、その一例である。多妻婚は『モルモン経』のなかでは異教徒の慣習として厳しく戒められていたから、モルモン教徒たちはジョセフが多妻婚に興味をもっているとは、夢にも思わなかったはずである。

 第二回のミズーリー旅行は、主として、ミズーリー教会内部にくすぶっていた信徒たちの不満を解決するためのものであった。不満はさまざまなことに起因していた。一三〇〇キロの距離が二つの共同体を隔てており、コミュニケーションが上手く機能せず、またジョセフがトップの指導者をすべてカートランド教会から選んだため、すべてのことがカートランドで一方的に決定されることに、ミズーリーの信徒たちが大きな不満を抱いていたのである。さらにカートランド再建の負債の支払いを、監督パートリッジと「ミズーリー共同体」に押しつけたため、ジョセフにたいする不信が高まっていたのである。ジョセフの訪問によりこの問題はどうにか収拾する。


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