高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


U モルモン教の歴史 − 歴史学にもとづくモルモン教の歴史
1 ジョセフ・スミスの時代


時代背景 

 一九世紀初期のアメリカは、強いナショナリズムの時代で、領土をさかんに膨張・拡大してゆく時代である。それまでのアメリカの領土は、ミシシッピー川より東の土地だけであったのが、一八〇三年、フランスからルイジアナを購入し、ミシシッピー川よりロッキー山脈までの広大な土地を入手した。これを手始めとして、フロリダの購入、テキサスとオレゴンの併合、メキシコ戦争によるテキサス、ネヴァダ、ユタ、アリゾナ、ニュー・メキシコ、カリフォルニアなどの土地の奪取・獲得というように、またたく間に領土を拡張していくのである。こうした領土の獲得は、戦争をしかけて力づくで奪ったり、戦争をちらつかせた強引な交渉で手に入れるという、力の論理によるきわめて暴力的なものであった。

 この領土拡大は、先住民(インディアン)の立場からすれば、侵入と生活破壊に他ならなかった。とくにアンドルー・ジャクソンは、先住民にたいし、それまでの大統領にない過酷な政策をとり、先住民の土地を強引に奪っていった。したがってほとんどの先住民には、死か降伏か、そのどちらかの道しかなかったのである。抵抗することは戦争を招き、死を意味したからである。強制的移転により、先住民の生活と文化は崩壊していった。こうして手に入れた先住民の土地が、土地とビジネスを求める白人の農民やプランターに開放されていくのである。モルモン教徒も、典型的開拓民と同様、広い西部を、土地とチャンスを求めて流浪するのである。

 合衆国は州のゆるやかな連合であって、セクション(地域)間にはいろいろな対立があり、その対立が亀裂を深めたり、結合を分断する可能性をもっていた。セクション間の対立とは、基本的には南部と北・東部の経済問題であり、貿易をめぐる関税問題と、そして間接的には奴隷制度とかかわっていた。このセクション間の対立がやがて南北戦争へと発展するのである。初期のモルモン教と多少ともかかわりのあった同時代人には、アンドルー・ジャクソン、サム・ヒューストン、リンカーン、サミュエル・クレメンズすなわちマーク・トゥエインなどがいる。

 ジャクソンは、孤児として成長し、西部のテネシー州で成功し、有力者となった人物である。彼は西部の新開拓地における典型的な成功者で、弁護士、プランター、土地投機業者をかねていた。一八二九年に大統領となったジャクソンは、新興の西部の代表だっただけでなく、インディアン戦争の勇者として有名だった軍人である。米英戦争中はアラバマのクリーク族を襲い、一八一七年から一八年にかけてはセミノール族を襲って、再び名を上げた履歴をもつ。ジャクソンが大統領になれたのは、「丸太小屋」に象徴される貧しい庶民の出身だったばかりでなく、インディアン戦争の英雄だったからである。ジャクソンは、モルモン教が誕生し成長する背景、すなわち、その政治・経済的な環境を整える役割をはたした。ジャクソンは庶民に、チャンス(競争)の平等を与えたのであり、チャンスを利用して成功するかしないかは個人の頭脳と努力にかかっていたのである。モルモン教はいろいろな失敗を重ねつつ、ついにはこのチャンスを掴んだといえよう。

 サム・ヒューストンは、一三歳で軍人の父を亡くし、彼自身もながく軍人であった。ヒューストンは教育を一年余りしか受けられなかったが、法律を学び、その後、ジャクソンと同じテネシー州から連邦下院議員に選出され、一八二七年にテネシー州知事になった。彼は昔、チェロキー族と三年間生活をともにした経験があり、その後、先住民の妻をえている。彼は先住民がしだいに土地を奪われていくのを黙って見ていることができず、ジャクソン大統領に手紙を書いたり、議会に働きかけたり、先住民のために努力するのであるが、結局、この努力も報われなかった。その後ヒューストンは、知事を辞任し、当時まだメキシコの領土だったテキサスに夢をもとめた。彼は、同じくテネシーで州議会議員、連邦下院議員を勤めたことのある野性児デイヴィ・クロケットとともに、開拓民と力を合わせ、メキシコからテキサスの独立をかち取るのである。ヒューストンは、このテキサス独立軍の司令官であった。モルモン教は、コロニーの拡大を計画していた時、テキサスにヒューストン司令官を訪ね、モルモン教徒による軍事援助と引換えに、広大な土地をもらう契約を交わしている。

 エイブラハム・リンカーンは、ケンタッキー生まれの貧しい庶民の出身である。リンカーンの父は、土地を買うこともままならない貧しい生活をしていた。しかしリンカーンは極貧から、苦学と努力によって、いわゆる丸太小屋からホワイトハウスへ、田舎弁護士から偉大な政治家になった人物である。一八三二年、彼はイリノイ州議会に立候補し落選した。一八三四年、彼は再び立候補し、弱冠二五歳でイリノイ州議会下院議員に選出され、その後六年間、下院議員をしていた。リンカーンはその間、法律の勉強をし、弁護士となりスプリング・フィールドに住んでいた。彼は一八四六年に連邦下院議員に選ばれ、一八六〇年、南北戦争直前に大統領になった。リンカーンは、モルモン教の創始者ジョセフ・スミスより四歳若いだけで、モルモン教徒がイリノイ州ノーヴーに定住したとき、ホイッグ党(後の共和党)員として活躍していた。ジョセフ・スミスが州から「特許状」を獲得するさい、民主党やホイッグ党の議員たちとしきりに接触をもっていたが、この中に若きリンカーンもいたのである。

 サミュエル・クレメンズ、すなわち作家マーク・トゥエインは、ミズーリー州フロリダで生まれた。彼の父は弁護士のかたわら、いろいろな仕事に手をだし、一攫千金を夢み、ケンタッキー、テネシー、ミズーリーの開拓前線を転々とした。クレメンズ一家は、サミュエルが四歳のとき、ミシシッピー川のほとりの小さな美しい村ハンニバルに移った。ミシシッピー川の向かいはイリノイ州である。サミュエルは十二歳のとき父を亡くした。ちょうどその頃、ミシコッピー川の上流約一二〇〇キロのところにノーヴーとよばれる町があり、モルモン教徒たちが定住していたのである。作家となったマーク・トゥエインは、後年、モルモン教徒の町ソルトレークを訪ね、彼らの奇異な教えや慣習について見聞したことを、ユーモアたっぷりに紹介をしている。

宗教的背景  

 一九世紀初期のアメリカはいろいろな意味で興味深い時代である。独立戦争後の合衆国では信教の自由が詠われ、そのためバプティスト派やメソジスト派は、さまざまなグループへと分裂した。またこの時期にモルモン教、ものみの塔、クリスチャン・サイエンス、(セブンスデー)アドヴェンティスト、シェーカーズ等の新宗教があい前後して、雨後の竹の子のように誕生した。時あたかも大覚醒運動の時代で、バプティスト派やメソジスト派の伝道本部は、巡回伝道師を開拓地の町や村に派遣し、近隣の住民を集め天幕伝道とかリバイバル集会を開き、数日とか数週間の集会を開いたのち、別の町へ移動していくというやり方を採用していた。

 開拓地には、かつてはキリスト教徒であったが、フロンティアでの開拓生活を長く続けているうちに教会から離れてしまった人々が大勢いた。開拓地には教会も学校もなかったのである。大覚醒運動は、失われた魂を蘇生させ、ふたたびキリスト教の信仰にたち返らせる運動であった。集会では讃美歌が歌われ、聖書の言葉が語られ、また時には異言が語られたり、癒しが行われたりもした。ただし集会の目的は、ふたたび救いに与かる魂を見いだすことであり、集会のたびに「招き」がなされ、その場で洗礼が授けられたり、その教派の会員に加えられたのであった。説教者は地獄を鮮やかに描き、救われぬ魂の行くすえを大袈裟に語り、人々に不安をかき立てたため、集会のなかでしばしば発作で倒れる人が出たという。しかしこういう集会は「ヒット・アンド・ラン」と呼ばれ、やりっ放しの無責任な集会に終始しがちであった。したがって、人々は指導者のいない宗教的興奮のなかにとり残されるという結果になったのである。

 信教の自由は素晴らしいことには違いないが、大衆には重荷であった。かきたてられた罪の意識や、救われぬかもしれないという恐怖心、さまざまな精神的不安はてっとり早い救いを求めていたのである。もしそこに強力な指導者が現れ、明瞭な教えや救われるための道を説いたなら、大衆がそれにとびつくのは明らかであった。こういう時代を背景としてジョセフ・スミスをはじめとする、さまざまな新宗教の指導者が出現することになるのである。


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