高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


T 素顔のモルモン教 −
13 モルモン教の教理と神学


 モルモン教は歴史とともに変遷してきたが、それは教理についても同様である。すべての大管長は、その時代における神の預言者とされ、新しい啓示や教えを導入することもあったからである(啓示を語ることに熱心だったのは数人の大管長だけであるが)。したがって教理や神学についても、本来なら歴史的に記述すべきである。ただし教理や神学についての議論は本書の目的から逸脱することになるので、不本意ながらごく大雑把な「神」理解で満足することにしたい。

 モルモン教の「神」は、聖書に親しんだ者にはあまりに奇異で、にわかに信じがたい概念である。そこで、ここに述べてあることが果たして本当にモルモン教の教理なのかどうか疑問に思われるかも知れないが、それも当然であると思う。 

モルモン教の「神」

 「われらは、永遠の父なる神と、その御子イエス・キリストと聖霊とを信ず。」(「末日聖徒イエス・キリスト教会信仰箇条」第一条)

モルモン教のこのような信仰告白をみるかぎり、キリスト教との違いを感じさせない。実際、モルモン教会の十三条の信仰箇条は驚くほどキリスト教的である。しかし、モルモン教の基本的な教理が、この信仰箇条から抜け落ちている。基本的な教理とは、多神教であることや多妻婚の教理、「死者のバプテスマ」や「エンダウメント」といった神殿における秘密の儀礼などである。

 神についていえば、実際、『モルモン経』をはじめとする書物や、指導者たちの言葉を調べると、モルモン教の「神」がキリスト教の「神」とは似て非なるものであることが明らかになる。では、モルモン教徒の信じる神とはどのような神なのか。まず箇条書きにすると次のようになる。

 神は、骨肉の体(つまり物理的身体)をもつ。

 神は、かつて人間であった。

 人間は、神になることができる。

 数億、数兆の神々が存在する。

 アダムは、神である。

 神は、結婚している(母なる神もいる)。

 神は、多妻婚主義者である。

 父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊は別々の神である。

 イエス・キリストは、処女マリアと父なる神との間に生まれた子どもである。

 「神は、骨肉の体(つまり物理的身体)をもつ」

 「御父は、人間の有する肉体と同じく触知し得る骨肉の体を有したもう。御子もまた然り。されど、聖霊は骨肉の体を有したまわずして霊の御方なり」(『教義と聖約』第百三十:二二)。神が、人間と同様、骨肉の体を持つ存在なら、一度に一つの場所にしか存在することしか出来ないわけで、神の偏在性が否定される。さて、このような主張は次の教えと深く関係する。

 「神は、かつて人間であった」

 「神ご自身が、かつてはわれわれ人間のようであり、今は昇栄・昇格した人であり、かなたの天の王座に座しておられるのである・・・神がどのようにして神になったのか、教えてあげよう。神は永遠の始めから神であったとわれわれは考えるかもしれない。しかし、この考えは誤りである・・・神は、われわれのようにかつては人間であったのだ。肯り。我々すべての者の父である神ご自身が、この地上に住み、イエス・キリストがなさったのと同じことをなさったのである」(『予言者ジョセフ・スミスの教え』より)。ジョセフ・スミスがこのように教えたため、今日の「父なる神は、栄光を受け、昇栄し、不死の、復活した人である」という使徒ブルース・マコンキーの言葉が、モルモン教徒の平均的「神」理解と考えてよい。

 「人間は、神になることができる」

 「永遠の命とは、すなわち、唯一の賢い真実の神を知ることである。あなたがたは、あなたがた以前のすべての神々もそうしたように、自分自らが神々になる方法、父なる神の王となり祭司となる方法を学ばねばならない・・・あなたがたが神にまで到達できる日まで、同じ力、同じ栄光、同じ昇栄を継承しなければならないのである・・・」(『予言者ジョセフ・スミスの教え』より)。モルモン教は、神は進歩・発展して神になったと説く。それ以前にも多数の神々が同じようにして神々になったのだ、という。だからモルモン教徒も、進歩・発展して神々や女神になると教える。これを、モルモン教では「永遠の進歩・発展」と呼ぶ。

 神はかつて仁間であり、また、人間は神になることができるとする教理は、非聖書的(非キリスト教的)である。キリスト教の最も基本的な教えはこれである、すなわち、神は神であり、人間は神ではない。人間は人間にすぎない。人間は誤り、罪を犯す。ゆえに神の赦しなくしては生きられない。こうした人間は、いかに努力を重ねても、神に到達することはできない。聖書のなかの「バベルの塔」の物語が、そのことを教えている。人間が神になることができるとするモルモン教の教理は、神と人間が連続しているという意味で、ユダヤ=キリスト教と完全に袂を分かつ。      

 「数億、数兆の神々が存在する」

 「・・・神々下りてその姿の如くに人を組織したまえり。すなわち神々の姿の如くにこれを造り、男と女に造りたまえり・・・」。これはモルモン版・創造物語である。『モルモン経』のなかの創造物語では、神は単数で述べられている。しかし、その後に書かれた『アブラハムの書』では、複数の神々による創造物語へと変容している。

 「我々は父なる神によって生まれたのである。父なる神は、その前世で、その父から生まれたのである。またその父は、もっと昔の父から生まれたのである。このように世代から世代へ、一つの天の世界から他の天の世界へと遡り、このようにどんどん遡っていって、ついに我々の頭では理解出来ないほど旧い世代へと遡るのである」(最初の指導者の一人オーソン・プラットの言葉)。かつては人間であった父なる神から、我々人間が誕生し、その人間がこんどは神々になるのである。これがモルモン教の教えである。

 「アダムは、神である」

 この有名な「アダム=神」説は、ブリガム・ヤングの教えである。ヤングは、最初の人間アダムがわれわれの神であり、イエス・キリストの父であると教えていたが、しかし二〇年経ってもまだヤングの教えを信じない信徒にむかって、ヤングはこう語った。「モルモン教徒のなんたる不信仰であることよ。私はあなたがたに、神が私にお示しになったこと、すなわち、アダムこそがわれわれの父であり神であるという教えを語ってきたのに、まだ信じようとしない信徒がいるのである」(一八七三年六月一八日付けの新聞「デザレット・ニューズ・ウィークリー」より)。

 ブリガム・ヤングは、アダムがイエス・キリストの父であったと教えていた。そればかりでなく、父なる神(アダム)は、我々が子供を創造するように人間を創造したと主張していた。ヤングの理解する創造とは、生殖のことである。したがって我々人間は神から生まれた、とも説明される。そこで生殖(創造)が成立するために、つぎの教理が必要になったのである。 

 「神は、結婚している(母なる神もいる)」

 モルモン教徒は、啓示をそのまま受けいれるよう要請されている。それが正典の教えと調和するかどうかは関係ないのである。大管長は神の預言者なのだから、新しい啓示は新しい教理なのである。指導者が、神は天において妻をもっていると教えると、信徒はそれを否定するものを何一つもたないのである。ブリガム・ヤングのいうように、創造という行為が生殖のことを意味するなら、神には妻、すなわち母なる(女)神が存在しなくてはならない。

 「神は、多妻主義者である」

 この教理がいつ成立したかが、この教理を理解する鍵である。モルモン教の神は、最初から多妻主義者だったのではない。それはモルモン教徒が、最初は多妻婚を認めていなかったからである。つまり、最初にモルモン教の指導者が多妻婚を公にし、その後に出来た教理なのである。

 『教義と聖約』第百三二章は、ジョセフ・スミスが神の啓示として、モルモン教徒にたいして神に従う新しい律法、すなわち多妻婚、を導入するくだりである。多妻婚は、永遠の生命への道であり、神の位に達するために不可欠であることを説いている。したがって多妻婚は承認されるべきものだ、と結論する。この啓示は一八四三年七月、ジョセフが妻エマを説得するために、エマに対して示した啓示であった。因みにエマは、手渡された啓示を一読して、ジョセフの目の前で直ちにこれを破り捨てたという。 

 天にいます神々は多妻婚を行っているばかりではない、多妻婚は救いに不可欠である、とブリガム・ヤングは断言した。「神々となった唯一の人間は・・・多妻婚を行った人間である」(『講話集』十一巻、二六九頁)。天において神々は、多くの妻たちとの間に沢山の子どもを作っている。その子どもたちは霊として、天のいろいろな星々に住んでいるのである。著しい数の霊の中から選ばれた霊のみが、人間の体のなかに生まれることが許され、こうして地上の生活を終えて、やがて神々になるのである。神々から生まれた子ども(霊)が、そのままでは神になれないというのも不思議な話であるが、これは一種の輪廻の思想である。

 多妻婚が救済の必要条件であるなら、モルモン教徒は多妻婚を放棄することはできないことになる。モルモン教徒が、多妻婚廃止にたいして執拗に抵抗した理由は、多妻婚が救済というモルモン教の中核的教理にかかわっていたからである。したがって、連邦政府のモルモン教にたいする政治的干渉を、モルモン教徒は信教の自由への干渉と受け止めたのである。

 「父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊は別々の神である」

 アダムが父なる神で、イエス・キリストが処女マリアと父なる神との間に生まれた子どもだとすれば、父なる神とイエス・キリストとは別々の存在である。モルモン教は、父なる神とキリストは骨肉の体をもっているが、聖霊は骨肉の体をもたない霊の存在であると説明する。こういう素朴な考えは、キリスト教の三位一体説より、はるかに理解しやすい考えである。ただし、理解しやすい教理が必ずしも真理とは限らないのである。

 「イエス・キリストは、処女マリアと父なる神との間に生まれた子どもである」

 ジョセフ・スミスとかブリガム・ヤングという初期のモルモン教の指導者たちは、素朴な人々であったに違いない。聖書の比喩とかアレゴリーを、文学的な表現として理解することができず、文字通りに理解したからである。処女マリアは聖霊によってイエスを身ごもったという聖書の記述は、人間には神秘であり、その意味を完全には理解することはできない。神秘的な出来事をそのまま受けとめる信仰が必要なのである。

 しかしモルモン教の指導者たちは、その素朴さでこれを解釈し、「処女懐胎」を否定する。骨肉の体をもたない聖霊が生殖できるはずがなく、子どもの誕生は、父の存在なくしてどうして可能であろうか、と考えたのである。「父なる神と御子イエス・キリスト」という表現も、誤解をうむ原因となった。モルモン教の指導者たちはこれを比喩的表現とは考えず、生物的な親子の関係として理解したのである。この考えが敷衍され、次々と新しい解釈が生まれることになった。父なる神(アダム)がイエス・キリストの父である。神は、骨肉の体をもつ。誕生は、生殖行為以外にはありえない、云々である。しかし、この教えには矛盾点も多い。

 1 神には、すでに天に妻が存在しているから、神は姦淫を犯したことになる。またマリアも同様である。なぜならマリアは既にヨセフと婚約をしていたからである。 

 2 モルモン教の教理では、人間は誕生以前、すでに(父なる神の子)霊として先在している訳で、マリアはいわば父なる神の子どもなのである。したがって、イエスの父が神であったとすれば、イエスは近親相姦によって誕生したことになる。

 3 マリアは、すでにヨセフと婚約していたから、マリアが結婚したときには処女でなかったことになる。等々。

聖書の「神」からモルモンの「神々」へ 

 以上、モルモン教の「神」を大まかに素描してみた。キリスト教の一つと信じられているモルモン教も、そのヴェールを取り除いてみると、キリスト教とは似て非なる宗教であることが次第に明らかになってくる。実際このような奇異な教理は、キリスト教とは何のかかわりもない教理で、むしろ世界のいろいろな地方にみられる土着宗教に近いものである。しかし、モルモン教はその教理を「回復された福音」と呼び、モルモン教なくして救いはなしとスミス自らが豪語していたのである。

 モルモン教の教理が終始一貫したものではなく、時代とともに進化・発展してきたことはすでに述べた。たとえば、ジョセフ・スミスがもっとも「完全」な書物であると語った『モルモン経』には、神は一人しか存在せず、しかも神は永遠の始めから神であると述べている。

「・・・そこでゼーズロムがまた『それならば、汝は生ける真の神があると言うのか』ときくと、アミュレクは『さよう、生ける真の神はまします』と答えた。そこでゼーズロムが『神は一つより多いか』と問うと、アミュレクはそうではないと答えた。またゼーズロムが重ねて『それでは、どうしてそれらのことを知っているのか』ときくと、アミュレクは『天使が私に示した』と答えた」(アルマ書十一:二七〜九)

「・・・私(モルモン)は神が・・・変りたもう神でもなく、無限の過去から無限の未来にわたって同じにましますことを知っている」 (モロナイ書八:一八)

 ジョセフ・スミスがモルモン教を創設したとき、神を全知全能であり、いつまでも変わらぬ神として教えていたのである。したがって、初期のモルモン教は「神」の概念についてはキリスト教会の教えときわめて近いものであった。しかし繰り返すが、モルモン教の教理・神学も歴史とともに変化してきたのである。そのため、モルモン教の教理そのものが相互に矛盾し、その矛盾が未解決のまま今日にいたっているのである。


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