高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


T 素顔のモルモン教 −12 歴史的特長


終末思想 

 モルモン教は「末日聖徒イエス・キリスト教会」と称することからも分かるように、終末思想、すなわちこの世の終わりが近いという意識の上に成立した、一種の再臨運動である。初期の指導者は自分たちが生きているうちに終末がくると考え、一刻も早い終末の到来を熱望し、その到来を早めるために暴力的手段に訴えることも是とした。モルモン教徒は、移転した先々で地域住民との間にいろいろな摩擦や紛争をひき起こすが、こうしたモルモン教徒がすべてのことに性急であったのは、素朴なまでの終末信仰のなせる業である。しかしモルモン教の終末思想は、禁欲的なキリスト教的終末思想とは逆に、現世肯定的、快楽的である。初期のモルモン教を特長づけたこの終末信仰は、二十世紀になってから次第に衰退し、形骸化していった。

アメリカニズム 

 モルモン教は非常にアメリカ的な宗教である。まず『モルモン経』の物語が、アメリカを中心として述べられている点である。『モルモン経』の物語では、終元前六〇〇年、主がエルサレムにいたリーハイとその妻サライアに現れ、その土地を離れることを命じ、その家族を約束の地バウンテフル(アメリカ大陸)に導いた。このリーハイの息子たちの子孫が白人ニーファイ人とアメリカ・インディアンのレーマン人である。キリストは復活後アメリカ大陸に現れ、イエス・キリストの教会について教え、ニーファイを含め十二名を弟子して選び、バプテスマを授ける権能を与える。復活されたキリストは、アメリカ大陸にて山上の説教をし、その他いろいろな注意を与える。アメリカ大陸に住む人々は、結局、その悪のため滅びることなる。時代は下って十九世紀、ジョセフ・スミスというアメリカ人青年が預言者として選ばれる。スミスが、再び正しい(モルモン)教会を復活させたのである。

 ジョセフ・スミスは、ミズーリー州についてさまざまな啓示を信徒に示した。モルモン教徒が入植した土地に、アーダーム・オンダイ・アーマンという名前をつけ、そこがアダムが神に捧げものをした土地であると語った。またファー・ウエストでは、そこがカインがアドルを殺した土地であると語った。このようにスミスの啓示によれば、ミズーリー州こそ神の創造物語と密接にかかわる土地である。

 また、ジョセフ・スミスの預言の一つは、キリストの再臨に関するもので、再臨の場所をミズーリー州インディペンデンスであるとする預言である。このためモルモン教徒は、インディペンデンスに特別な思い入れをもっている。このようにモルモン教は、アメリカこそが神に選ばれた土地であり、モルモン教徒こそ選民とする、アメリカ中心的世界観をもつ。

多妻婚 

 モルモン教会は二十世紀初頭まで、多妻婚をもっとも神聖な教理とみなし、最後まで多妻婚存続のために闘ってきた。アメリカでは、多妻婚こそモルモン教という宗教をもっともよく表す特長であると考えられてきた。歴史家は、歴代の指導者たちが多数の妻をもっていたことを証明しているし、多妻婚がアメリカ社会の物議をかもし、モルモン教への反感をかう原因であったことも事実である。こうした時代を背景として誕生した共和党は、一八五六年、その最初のプラットフォーム(綱領)に「双子の遺物、多妻婚と奴隷制度」の撲滅を掲げたことや、やがて民主党も多妻婚にたいする闘いを開始したことは周知の事実である。今日のモルモン教は、多妻婚を精神的なものとして再解釈しているが、あるモルモン教の一派は、今日まで多妻婚をかたくなに守り続けている。

 『トム・ソーヤーの冒険』で有名な作家マーク・トゥエインは『Roughing It』という本のなかで、ブリガム・ヤングがモルモン教を支配していた時代のソルト・レークを訪ねた時のことを記している。マーク・トゥエインは異教徒の巣窟(酒場)でいろいろな男の話を聞いたようであるが、多妻婚もモルモン教徒についての恰好の話題であったようである。やれ年老いたモルモンの長老や監督が処女と結婚したとか、やれその姉妹両方と結婚したとか、やれ元気のよい娘なら十一歳頃には妻にしたがるとか、そうなればその子の祖母は願い下げだ、などという話である。その場にジョンソンと名のる男がおり、彼はブリガム・ヤングを度々訪ねたと語った。そして彼は一つのエピソードを語り始めた。

 ある日彼がヤングと楽しく語らっていた時、一人のヤング夫人がやってきて自分にもブローチを頂戴とせがんだ。というのは彼女はヤングが第六夫人にブローチを与えたことを知り、それはえこひいきだから、自分にもくれないなら困らせるわよとヤングを脅した。お客のまえではないかとヤングが彼女を諭すと、彼女は、知られて困るようなことがあるなら、外で待っててもらえばいいでしょと答える。ヤングは彼女にブローチを約束し、彼女は去る。二分と経たないうちに二人のヤング夫人がやってきて、自分たちにもブローチを頂戴とせがむ。ヤングが二人を諌め始めるや、二人は話をさえぎる。第六夫人はブローチを貰い第十一夫人はブローチを買って貰うことになっている。私達にもその権利はあるはずよ、と甘える。ヤングは二人にブローチを約束し、彼女たちは去る。こうして三人、九人、十一人のヤング夫人が次々にヤングのもとにやってきて、泣いたりすねたりして、結局全ての妻たちがブローチを買って貰う約束をとりつけた。

 「ご覧のとおり、いつもこうなんですよ。私がどんな生活を送っているかおわかりでしょう。つねに気をつけることなんて出来やしません。うっかり一人の妻に二五ドルのブローチを買ってあげると、それでは済まないのです。二五ドルは結局六五〇ドルにもなるのです。しかし、それとても終わりではありません。このユタの山々、村々には私の妻たちがいて、もし彼女たちがこのブローチのことを聞きつけると、買ってくれなければ死ぬと言いだすでしょう。そうすると第六夫人に与えたブローチが、終いには二五〇〇ドルになるのです。・・・世間じゃ多妻婚のことを羨ましがっているかもしれませんがね、ご覧のとおり、けっして楽なものじゃありません・・・」とヤングが語った、とジョンソンは茶目っ気たっぷりに述べている。

 この話はマーク・トゥエイン一流のユーモアで編集されており、西部特有のトール・テイル(ほら話し)を思いださせる。しかしマーク・トゥエインがソルト・レークを訪ねた時、多妻婚はブリガム・ヤングによって公認されており、多妻婚が全盛を極めていた時代であり、その事実は広く人々に知られていたのである。

 シャーロック・ホームズのファンの方なら、コナン・ドイルの最初の作品『緋色の研究』を読まれたかも知れない。この作品の第二部は、モルモン教徒の大移動の話と、ユタ定住後の多妻婚をめぐる物語である。モルモン教徒として育てられた一人の美しい娘が、若くたくましい開拓者と出会い結婚を誓うが、大管長ヤングは異教徒との結婚を認めず、教会の決定に従い指導者の妻の一人となるよう命ずる。父と娘と若者の三人は真夜中の脱出を計画し、見張りのすきをついて山岳へと逃亡する。しかしモルモン教の秘密警察「ダナイト団」の追求から逃れることはできず、父は殺害され、娘は後宮へと連れもどされ非業の死を遂げる。生き残った若者が復讐を誓う。というような物語で、これは勿論フィクションである。

 しかし、コナン・ドイルが描写するユタの特異な雰囲気、つまり経済的繁栄、それとは対照的な得体の知れない恐怖、人々を圧倒している教会の支配の影などは、映画を見ているかのように見事であり、また驚くほど正確である。いったい作者がどのようにして情報を入手したのか興味のあるところである。当時の記録をたどれば、事実は小説よりはるかに興味深いものであった。ともかく、期せずして『緋色の研究』は、当時のモルモン教を知る恰好の入門書となっている。

 ファン・ワゴナーの『モルモン教の多妻婚、ある歴史』(一九八九年、シグネチャー・ブックス出版)によれば、多妻婚の妻たちは一般に決して幸せではなかったことを、手紙や日記などを駆使して明らかにしている。また離婚も少なくなかったようである、歴史家マイケル・クインによるモルモン教の幹部に関する研究によれば、多妻婚を実行していた七十二人のトップ指導者のうち、三十九人が結婚の破局を迎えていた。内訳は、離婚が五十四件、別居が二十六件、結婚の取消しが一件である。これらの指導者は数人の妻を持っていたから、破局のチャンスも多かったのであろうと述べられている。

 今日のモルモン教が、一夫一婦制の伝統を護ることに象徴される、旧きよきアメリカを固守しようとする保守主義を代表する宗教団体である事実は、歴史のアイロニーというべきであろう。ただし今日のモルモン教は、この世での多妻婚は放棄しているものの、精神的な意味での多妻婚、つまり彼岸の多妻婚は放棄していない。

独立政府樹立への夢 

 モルモン教の事情に明るい研究者の間では、モルモン教の最大の特長は、その政治的な夢にあったと考えている。モルモン教徒が「神の国」というとき、それは政治的意味を含んでいた。一八四四年、ジョセフ・スミスはイリノイ州ノーヴーにて、最も信頼できる人を集めて最高機密である「カウンシル・オブ・フィフティ」を組織したのは、政治的な意味での「神の国」を開始するのが狙いであった。その最初の目標は、モルモン教の独立した国家(州)を樹立することであった。ジョセフ・スミスが大統領選挙に出馬したのも、仮にスミスが大統領になったなら、その夢の実現が容易になるからである。投票する者の大多数をモルモン教徒にできれば、どんな選挙でも勝つことができるし、モルモンによる支配を長期にわたって確保できると真剣に考えられていたのである。このためにも宣教に重点が置かれ、また選挙キャンペーンには可能なかぎりの人手が動員された。

 かりに大統領選挙に失敗しても、第二、第三の方法が考えられていた。まずオーソン・ハイドをワシントンに派遣し、アメリカ議会との交渉にあたらせた。交渉の内容は、モルモン教徒の自治州樹立への協力を得ることであった。しかし、この試みは上手くいかなかった。この段階で、自らの手で独立政府を樹立する以外に方法がないとの判断に達し、早速次の方策が検討された。すなわち、当時のメキシコ領テキサスの一部をモルモン教会のために獲得すわことで、そのためにスミスは三人の使者をサム・ヒューストン(テキサスの有力者)のもとに派遣した。しかしこの計画は、契約の直前になってスミスが獄死し、次期指導者ブリガム・ヤングがスミスの計画を無視ししたため宙に浮いてしまった。このことも内部分裂に拍車をかける原因となった。

  スミスの死により、その指導権を確立したブリガム・ヤングと「カウンシル・オブ・フィフティ」の指導下で、ロッキー山脈の中に彼らの王国(独立政府)建設が実験されることになった。しかし、初期の夢であるモルモンの独立した国家という夢は、いろいろな理由から挫折を余儀なくされた。ただし、ユタ州は今日、事実上モルモン州として機能しており、独立国家の夢の半分は実現したのである。

 モルモン教の歴史は、ある意味では迫害の歴史である。モルモン教の側では、迫害は多妻婚にたいする偏見が原因であったと主張しているし、一方、アメリカ社会も、キリスト教文明社会にあるまじき多妻婚というモルモン教の風習が、迫害の原因だと考えている。当時、共和党や民主党は、多妻婚を旧世界の遺物とみなし、多妻婚に対する宣戦を布告していた。しかし、モルモン教会は政治的目論見を隠すために、意図的に多妻婚に人々の注意を集め、多妻婚を犠牲にする道を選んだのである。独立政府が樹立できれば、多妻婚の復活はいつでも可能だからである。

 歴史を調べると、地域住民とモルモン教徒との紛争の主たる原因は、多妻婚ではなく、モルモン教の独立政府樹立への活動であったことが明らかになる。モルモン教は独立政府の樹立達成のため、信徒による選挙での統一行動、法や役人の無視、「ダナイト団」などの秘密警察や「モルモン軍」を背景にした力の論理、モルモン教に協力しない人間を敵とみなす二元論をおし進めた。他方、こうしたモルモン教の思想・行動にたいする地域住民の反発・抵抗が、次第にモルモン教徒への迫害へと発展していったのである。しかし、モルモン教の独立政府樹立という夢も、モルモン教をとり囲む状況の変化や終末信仰の衰退とともに、次第に色あせていくことになるのである。

フリーメーソンの影響

 モルモン教には多くの特殊な教えや儀礼がある。神殿とよばれる建物の中での儀礼と、それに関連する教えがそうである。神殿における密儀や儀礼というアイディアは、秘密結社フリーメーソンの影響である。神殿における儀礼には、たとえば「エンダウメント」とか「死者のバプテスマ」がある。「死者のバプテスマ」とは、すでに亡くなった人々が救済されるよう、その死者に代わってモルモン教徒が洗礼を受けることである。しかし死者の救済とか、死者のための洗礼という教えは、明らかに非聖書的な教理である。

 一八九八年、大管長ウッドラフが語ったところでは、すでにあの世の人となっているジョージ・ワシントンを含め「独立宣言」に署名したもの全員が、二晩続けてウッドラフに現れモルモン教への改宗を懇願し、その結果、彼ら全員が「死者のバプテスマ」によりモルモン教徒になったそうである。そればかりでなく、アメリカ合衆国の歴代大統領、世界の歴史に登場するローマ法王、コロンブス、メソジスト教会の創始者ジョン・ウエスレーも、死してモルモン教徒になったとウッドラフは語った。

 このようなモルモン教の主張に接すると、いったいどのような方法で死者と接触したのかが疑問になる。それがたんなる夢の中の出来事であるとすれば、夢と現実とを混同すること自体が問題である。しかし仮に、大管長ウッドラフが霊媒として死霊と接触したということであれば、ウッドラフはシャーマンだったわけで、モルモン教はシャーマニズム的要素をもっていたことになる。百年前の話であるから真偽を確認する術はないが、「死者のバプテスマ」は今日にいたるまで最も重要な儀礼として存続している。

 エンダウメントには、アーロン神権やメルケゼデーク神権を受ける際の「死の誓約」が儀礼として含まれている。神権には二重の意味がある。神権とは、モルモン教会でのリーダーシップのことであるが、同時に、人間が神にまでいたる秘密の道である。したがってこれはフリーメーソンの儀礼と同様、人々からは隠された一種の密儀である。会員は「死の誓約」を互いに交わし、密儀を絶対に口外しない。人間が秘密の方法を用いて神に到達するという教えは、サタンがアダムとエヴァをそそのかした誘惑であり、反聖書的な教えである。

 こうした儀礼とその思想、あるいはモルモン教の秘密主義は、十九世紀のフリーメーソンから借用したものである。初期のモルモン教の指導者はオーソン・プラット一人を除いてすべてフリーメーソンであった事実が、モルモン教とフリーメーソンの結合の必然性を物語る。モルモン教はフリーメーソンの影響を受けてから大きく様変わりし、キリスト教とは似て非なる宗教へと変容したのである。モルモン教にたいするフリーメーソンの影響は、想像以上に深く広範囲に及んでいる。(「モルモン教の歴史」の中の「フリーメーソン」参照)。

人種主義  

 モルモン教は設立以来、終始一貫して人種主義、人種差別の立場を貫いてきた。モルモン教の人種主義は、皮膚の色と関係する。皮膚の色が、人間の道徳性、あるいは神の祝福と結合されているのである。皮膚の色の明るさが神の祝福のしるしであり、皮膚の色の暗さが神の呪いのしるしである。このような人種主義的なモルモン神学により、黒人は差別されてきたのである。しかし、モルモン教の人種主義も歴史とともに変遷してきた。かつては白人以外はすべて差別の対象であったが、世界伝道が本格化し、黒人や黒人との混血が多く住む地域(中南米や南太平洋諸島)に伝道が及ぶにつれ、差別の対象が次第に狭められたが、最後まで差別の対象として残されたのがアフリカ系黒人とニューギニアの現地人である(W「モルモン教と奴隷制度」参照)。しかし一九七八年、大管長キムボールは、人種にかかわりなくすべてふさわしい信徒には神権を授けると宣言し、少なくとも建前の上では、モルモン教会から差別が撤廃された。


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