高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」


ま え が き


 ローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』シリーズは、アメリカでは人気のホーム・ドラマである。働き者で正直な父と優しい母、貧しいけれど神を信じ、みんなで力をあわせて生きる家族、周りの人たちとも助けあい、自分たちの村をつくっていく素朴で温かい人々、そういう家族が描かれている。つまりそこには、アメリカを開拓したのは、このような自由で、信仰心があつく、質実剛健で、勤勉な人々なのだというメッセージが込められている。それが『大草原の小さな家』の人気の秘密である。この『大草原の小さな家』シリーズは、実話をもとにした物語であるが、理想化されていて、登場する人物や物語が少々美しすぎるのではないかと思うが、それは物語だから仕方がない。ともかく、アメリカ人がこのホーム・ドラマに共感するのは事実である。

 この物語は、ウイスコンシンのペピンという開拓地で暮らしていたローラの家族が、だんだん開拓民が増えて土地が狭くなり、居心地が悪くなったので、もっと広い土地を求め、はるばるオクラホマまでやってくるという話である。実際に移動したのは一八六九年のことである。土地は豊かで作物もよく採れたので、そこに定住したいと思っていたが、大統領がその土地をインディアンに与えたということを聞き、二年足らずでそこを去り、ミネソタのウオルナット・グローブへ引越す。その後ローラの家族はサウス・ダコタへ行き、そこでローラは結婚する。農業ができなくなったローラの父は、鉄道敷設の仕事をする。結婚したローラは、あちらこちらへ移動した後、りんごの実る土地、ミズーリー州マンスフィールドへやって来て、そこに落ちつく。こうしてローラは、『大きな森の小さな家』から数えれば、七つの州にまたがる、九回もの大きな引越しを経験したわけである。ローラの物語は、アメリカの歴史でいえば、南北戦争直後からはじまる、当時の典型的な開拓農家の物語である。

 ところで、ローラの家族がまだミネソタで生活をしていた頃、マーク・トゥエインの『トム・ソーヤーの冒険』が出版された。『トム・ソーヤーの冒険』の舞台は、ミズーリー州のハンニバルという、ミシシッピー川のほとりの小さな美しい村であり、そこはまたマーク・トゥエインが育ったところである。彼が少年のころ、ミズーリー州やイリノイ州には「モルモン教徒」とよばれる、何かと話題の多い人々が住んでいた。マーク・トゥエインも、おそらくモルモン教徒の話を聞いて、その話に興味をもったに違いない。というのも後年、マーク・トゥエインは、ある本にモルモン教徒のことを詳しく書いているからである。

 当時の人々が、モルモン教徒についてどんな話をしていたかについては、旧い記録から知ることができる。当時のアメリカ人も新しもの好きで、モルモン教という新宗教に興味をもち、そのままモルモン教徒になる者もいた。なかにはモルモン教を利用する者もいたし、「モルモン教」こそ自分の求めていた宗教だと感じた人もいたに違いない。しかし多くの者は、いろいろなトラブルや問題のため、モルモン教にたいして批判的な立場をとっていた。

 モルモン教の初期のトラブルは、まず、教祖スミスが魔術に興味をもち、占いや宝探しをし、人々をだましたことである。つぎは不動産の問題で、最初、モルモン教は財産を平等に分ける「共同体」を目指していたが、いろいろな理由で挫折し、土地や財産を提供した信者は、破産した教団からは補償を得ることができず、泣き寝入りを余儀なくされた。つぎのトラブルは土地投機の問題である。当時、土地は八〇エーカーとか、四〇エーカーという単位でしか購入できない仕組みになっていて、それには一〇〇ドルとか五〇ドルという、まとまった金が必要だったため、貧しい人々は土地を買うことが難しかった。そこでモルモン教の指導者は、まとめて広い土地を買い、信者に少しずつ売ることにした。しかし問題なのは、ある信者にいわせると、指導者は貧しい信者にべらぼうに高い値段で売っていたのである。また、負債の返済が目的ではじめられたモルモン銀行も一ヶ月で破産し、いっそう負債を増やすことになり、指導者たちは負債にかかわる訴訟で有罪になり、逮捕された。土地投機の失敗と銀行の失敗で、まるまる財産を失った信者もいた。多くの信者は、こういう時も指導者と苦労をともにしたが、ある信者たちは、財産を失ったことで腹をたて、指導者を告訴した。このようしてモルモン教会は完全に分解した。これはオハイオ州での出来事である。

 モルモン教の教理や行動も問題であった。終末が近いという教えのため、モルモン教徒は、急いで目的を達成するよう要求された。再臨の土地を獲得することと、神殿を建てることである。「シオン」とよばれるキリストの再臨の地が、ミズーリー州インディペンデンスであると預言されたため、モルモン教徒が人の住んでいるその土地を無理やり獲得しようとしたため、モルモン教徒と住民とのトラブルが起こった。また、モルモン教徒だけが神に愛される人々であり、そのほかの人は無価値で、モルモン教徒の敵であるという教えも問題であった。モルモン教が偏狭で暴力的だという印象を与えたからである。またモルモン教徒は、いつでも大集団で移住したので、移住した土地では多数派になった。そして、多数派であることを利用して政治と経済の指導権を握ろうとしたため、いろいろな紛争がおこり、ついに「モルモン戦争」にまで発展した。指導者は捕らえられ、軍法会議で危うく極刑になるところであった。指導者は逃亡し、イリノイ州に逃げ込んだ。これがミズーリー州での出来事である。

 マーク・トゥエインが住んでいたハンニバルの町から、ミシシッピー川にかかる橋を渡ると(もちろん昔は橋がなく、船で渡った)そこはイリノイ州である。そこから川に沿って二時間くらい車を北に走らせると、ノーヴーという小さな町に着く。そこがかつてモルモン教徒たちがつくった町である。今ではみる影もなく、田舎の小さな町に過ぎない。小さな丘の上には昔、モルモンの神殿が建っていて、ミシシッピー川を行き交う船からも見えたそうである。当時、若きリンカーンはイリノイ州の議員を勤めていたが、その後、弁護士をしながらいろいろな政治活動をしていた。モルモンの指導者たちは、そこに独立国家(州)の建設を計画し、そのためイリノイ州から「特許状」を獲得し、それを利用して軍隊や、特別な法律を作った。犯罪をおかして逮捕されても、モルモンの法律で釈放される仕組みになっていた。イリノイ州の議員たちとは、選挙での投票と引換えに、モルモン教徒のための便宜を計らうという、政治的取引をした。また、教祖スミスも大統領選挙に出馬した。さらに指導者たちは、ここノーヴーで多妻婚を始めた。しかしモルモン教徒はこの問題で大混乱し、さまざまな問題が起こった。指導者は、多妻婚に反対するグループの襲撃を指揮し、そのため指導者は暴動のかどで逮捕され、そのままカセージの刑務所で付近住民によって殺害された。残ったモルモン教徒たちは、ヤングの指導のもとではるかロッキー山脈のふもとへと移民していった。

 おそらくマーク・トゥエインは、こうした話をたくさん聞かされたのではないかと思う。彼は、南北戦争が始まると志願兵として南軍に加わるが、二週間でそこを抜けだし、西部をいろいろ見聞する旅にでる。彼は、旅行の途中で、ユタ大盆地にきずかれたモルモン王国の首都ソルトレークを訪ねている。その時にモルモン教について聞いたり調べたりしたことを、ある本に詳しく書いている。モルモン教徒の多妻婚という慣習のこと、ソルトレークの町の様子とか、モルモン教徒による百数十名の西部開拓民の虐殺事件のことなどである。

 マーク・トゥエインがまだ西部をうろうろしている頃、リンカーン大統領はいろいろ難問に直面していた。南北戦争はアメリカを崩壊させるかもしれないし、奴隷制度についても心配であった。さらにリンカーンは、モルモン教徒の問題とも取り組んでいた。じつはリンカーンが大統領になる一〇年前、モルモン教会は多妻婚を公認していることを公にし、アメリカ中をあっと言わせた。多妻婚は、キリスト教道徳からは考えられないことで、人々はモルモン教徒を病気だとみなしつつも多妻婚を禁止せよとの要求が大きくなっていった。リンカーンが「共和党」をはじめたとき、その最初の綱領(プラットフォーム)に奴隷の解放と多妻婚の廃止を掲げた。実際、リンカーンが大統領になったとき、バーモント州出身のジャスティン・モリル議員と協力して、モリル法を作り多妻婚を禁止した。しかしロッキー山脈にいるモルモン教徒には、遠くワシントンの議会で決められたことは効力をもたなかった。その後、連邦政府はつぎつぎに法案を可決するが、連邦軍が法律に違反した人々を逮捕するまで、多妻婚という習慣はなくならなかった。

 マーク・トゥエインが『ハックルベリー・フィンの冒険』を書いて間もなく、イギリスのポーツマスという港町の近くの開業医で、当時、二七歳だったコナン・ドイルが、最初の本『緋色の研究』を出版した。シャーロック・ホームズ・シリーズの第一作である。この本では、ホームズとワトスン博士が初めて知りあい、その後、奇怪な事件が起こり、ホームズとワトスンはその事件にのめり込んでゆくことになる。この奇怪な事件は、はるか大西洋の彼方、アメリカ西部に繰り広げられるモルモン教徒の多妻婚にまで行き着くのである。この『緋色の研究』の第二部は、指導者ヤングに率いられるモルモン教徒の西部への大移動の話と、ユタにおけるモルモン王国建設と多妻婚がテーマである。コナン・ドイルはさすがは医師で、記述の内容はかなり正確である。

 コナン・ドイルが『緋色の研究』を出版したころ(一八八六年)、モルモン教徒の多妻婚もその全盛期をすぎ、新しい方向を模索している最中で、ちょうどその頃、多妻婚を実行する者には選挙権を認めないという、エドモンズ法案が成立した。モルモン教の大管長は、一八九〇年、多妻婚を中止すると宣言した。コナン・ドイルの『緋色の研究』は、モルモン教のことを考えると、象徴的な本である。というのもモルモン教は、その後もずっと、多妻婚の問題を根本的に解決できなかったからである。多妻婚をどうするかという問題でモルモン教は内部分裂を続けてきたし、もうすぐ二十一世紀を迎えようとしている今日でも、多妻婚を続けているモルモン教のグループが、人里はなれたロツキー山脈のなかにひっそりと生活している。

 「共和党」のもう一つ目標はどうなったか。奴隷制度の廃止は実現し、黒人奴隷は解放されたが、法律で自由を保証することと、社会が黒人を一人の市民として認めることとは別である。解放されたはずの黒人は、その後もずっと差別やリンチを経験しなければならなかった。クー・クラックス・クランという過激な白人至上主義グループがまだアメリカにのさばっていて、黒人や新移民などがいやがらせを受けている事実をみても、この問題がまだ解決していないことがわかる。最近ではロス暴動(一九九二年四月)が、黒人への差別の存在と、黒人たちの不満の深さを改めて浮き彫りにした。

 モルモン教会は、黒人差別を当然とみなす人種主義の立場を、つい最近にいたるまでとり続けてきたアメリカ最大宗教グループである。モルモン教会は、教団内での黒人の市民権を認めてこなかったのである。モルモン教はこの問題も、まだ根本的には解決していない。今日、モルモン教会は、世界でももっとも裕福な宗教教団であるが、しかしモルモン教会内部には、解決すべきたくさんの問題があるようである。

*  *  *  *

 この本を書く契機となったのは、今から十五年ほど前に出版された『アメリカ生まれのキリスト教』(旺文社、1980)という、学術的にモルモン教を紹介する本である。本の著者はモルモン教の大学で学んだ経験をもつ仏教徒である。その本には、それまでに筆者がモルモン教について読んだり想像していたこととまったく異なることが書いてあった。つまりその本は、モルモン教は誤解され、批判されてはいるが、「アメリカ建国のパイオニアであった・・ピューリタンの根本理念とほとんど同じ」理念をもつ宗教で、モルモン教徒は「極めて道徳律の高い、努力型の人間・・」を理想としているのだ、と主張する。つまり、モルモン教徒は一風変わっているが、まさしくキリスト教である、と主張しているのである。しかし当時も今日も、モルモン教にかんする日本語の文献はほとんどなく、事実を確認するために、文献を集め、研究をする必要を感じた。それが執筆の動機である。

 それから十五年も経ったことになる。五、六年前から、少しずつ論文の形で発表してきたが、この機会にもう少し読みやすい形にしてみた。読者の率直なご批判や、ご意見をいただきたいと願っている。またモルモン教に関する文献は膨大にあるので、一緒に研究の仲間に加わっていただけるなら、さらにいろいろな点を検討することができると思う。ともかくこの本で、より真実に近いモルモン教の姿と、その歴史を描くことができたのではないかと思う。

 モルモン教の研究をしている間に、モルモン教の内部でも、またアメリカ国内でもいろいろな事件が起こった。モルモン教内部では、指導者がつぎつぎに交代するなかで、一九七八年には黒人への神権授与の宣言があり、モルモン教徒を驚愕させるという出来事があった。一九八五年には、ソルトレーク市で小包爆弾で二人のモルモン教徒が殺害されるというミステリー事件が起こり、アメリカ中の新聞で報道された。これは教祖スミスの魔術にかんする旧い文書をめぐる奇々怪々の事件で、それに関する本が五冊も出版されたほどである。「マーク・ホフマン事件」として知られているこの事件は、モルモン教徒の古文書商ホフマンが、教祖スミスの手紙を偽造し、モルモン教会当局に破格の値段で売却したが、真相が明らかになることを恐れたホフマンが関係者をプラスチック爆弾で次々と殺害しようとした事件である。筆者の興味をひいたのは、この偽造文書が、スミスが魔術を用いて『モルモン経』を入手したことを伺わせる内容のものだったことと、その文書が人手に渡ることを恐れたモルモン教会当局が、ホフマンの要求通り高額で買い取ったという点である。現在は、モルモン教徒の知識人が教会から追放されるという、モルモン当局の反動的政策が問題になっている。

 一方、アメリカ国内では、「ピープルズ・テンプル」(人民寺院)というカルト集団がいろいろな問題をおこし、中米のガイアナに集団移民し、視察に訪れた数人の連邦議員を殺害した後、九百数十名の信徒が殺害され、また自決するという事件が起こった(一九七八年十一月)。つい最近では、テキサス州ウエイコで、「ブランチ・デヴィディアン」(ダビデ会派)が重武装して建物にたて籠もり、FBIとの銃撃戦の後、自ら建物に放火し集団自殺を計るという事件が起こったが、事件の全容が次第に明らかにされつつある。これらのカルト集団は、すべて強力なカリスマによって導かれていたこと、信徒にたいし絶対的服従と自己犠牲を強いたこと、指導者が複数の妻(多妻婚)をもっていた点で共通している。

 

 最後に、本書の内容について一言しておく。

 第一章は、モルモン教の全体像を、できるだけありのままに、わかりやすく解説したものである。一般的に、モルモン教はキリスト教の一派だ考える人もいるが、実際にはどうなのかを明らかにした。モルモン教の宗教としての特長、歴史の特長、モルモン教徒が今日直面している課題などをまとめてみた。第一章は、この本のために新しく書きあげたものである。

 第二章は、モルモン教の歴史である。とり上げたのは、モルモン教の教祖ジョセフ・スミスの時代、すなわち一八三〇年頃から一八四五年頃までのわずか十五年間という短い期間である。モルモン教はアメリカで生まれた宗教運動であり、いろいろな意味でアメリカ的特長をもっている。したがって、広くアメリカというコンテキストの中で、モルモン教を理解する努力をした。十九世紀初期のアメリカは、地理的な膨張、イギリスやスペインとの戦争、西部開拓、ヨーロッパなどからの移民、インディアンの強制的移転、奴隷制度をめぐる問題、銀行や土地政策、経済不況、州権と連邦の権利をめぐる議論、等々の特長をもつ。モルモン教は、こういう特殊な環境のなかで発展したわけである。

 これは最初、メモ書き程度のものであったが、歴史的背景を知らずにはモルモン教の全体像も理解しにくいことに気付き、今回、この本のためにまとめてみたものである。モルモン教という、きわめてアメリカ的宗教の視点から見たアメリカ像研究の一端として読んでいただければ幸いである。

 第三章は、モルモン教内部における歴史論争で、モルモン教の歴史をどう理解し、どう記述すべきかという深刻な論争である。現在もっとも注目すべき若手の歴史家マイケル・クインの論文を中心にまとめまてみた。この論争により、モルモン教会当局と若手の歴史家との考え方の違いが明瞭になったと思う。

 第四章は、黒人問題、奴隷制度にたいする、モルモン教の主張、教理、慣行をいろいろな角度から扱った論文である。モルモン教の黒人差別や人種主義的立場が、どのような経緯で生まれ、どのように発展してきたかを論じたものである。これはすでに他の雑誌に発表した二本の論文を一本にまとめ、大幅に書き改めたものである。


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