なぜジョセフ・スミスは
モルモン書を書いたのか


モルモン教会が神の真の教会でなく、ジョセフ・スミスが自分の考えで創設した教会であるとするならば、ジョセフ・スミスがなぜ教会を設立することにしたのかという彼の動機を解明していく必要があろう。歴史的な検証をしていくと、この教会はモルモン書の出現から始まったことは疑いようもない。いわゆる「最初の示現」は、モルモン書の正統性を裏付けるため、教会設立後に生まれた作り話なのである。モルモン書出現当時の社会的背景やスミス家の事情を調べていくと、なぜジョセフ・スミスがモルモン書を創作することとなったのかがわかってくる。すべてはモルモン書の金版の発見から始まったのである。

<経済的困窮>

ジョセフ・スミスが生まれる前、ジョセフの両親はもともと農作業に従事していたが、中国に朝鮮人参を輸出すると儲かるという話を聞いてそれに全財産を注ぎ込んだ。しかし輸出代理人に金を持ち逃げされ、一文無しとなっている。ジョセフの母親ルーシーによると、一家は数千ドルにも及ぶ負債を抱えることとなり、農場を800ドルで売るはめとなった。その後、バーモント州シャロンにあるルーシーの父親の農場を借りたが、農場といっても土地はかなり荒れており、ジョセフの父が農閑期に学校で教鞭を執るなどして糊口をしのいでいた。ジョセフ・スミスが生まれた(1805年)のはその頃である。ジョセフが5歳になる頃まで、家族はあちこちを転々とした。当時のニューイングランド一帯は、ジェファーソンの禁輸政策による不況が続いていた。加えて偽札が流通し、ジョセフの父親もひっかかり訴訟を起こしたことが当時(1807年)の裁判記録に記されている。その後も一家が伝染病にかかってジョセフが足の手術を受けるなど、家族には苦難が続いた。1816年は記録的な冷害の年で、農作物は全滅した。家族は新たな約束の地を求めて、ニューヨーク州パルマイラへ移住した。幼かったジョセフは引越しの際、家財道具の引き取り価格について母親が債権者と口論しているのを聞いていたという。この体験はジョセフに強烈な印象を残したことだろう。

<宝探し>

パルマイラでは、ルーシーがパンやルートビアを売る店を営むなどして100エーカーの未開墾地を購入し、丸太小屋を建てて住むようになった。しかし生活はなかなか安定しなかった。青年への成長期にあったジョセフは、農場のつつましい生活に満足ができず、一獲千金を夢見たとしても不思議ではない。教会設立以降にみられる彼の卓越したリーダーシップや弁舌の才から考えて、生涯一貧農としての生活をすることは我慢ならないことだっただろう。当時のニューイングランド地方では、金鉱や宝が埋められているといった噂があり、多くの人々がそれらを探しあてようと宝探しに従事していた。ジョセフもそれに加わった。ちょうどニューヨーク州西部からオハイオ州にかけて、アメリカインディアンの遺体が葬られている塚が何百もあり、骸骨だけでなく、石や銅、時には銀の細工物が出土していた。もっとすばらしい宝物があるのではないかと期待するのは当然であり、さらにこの近辺がニーファイ人絶滅の地とモルモン書に記述するヒントになった。当時のパルマイラの新聞「Reflector」紙には、ウォルタースという占い師が、古代のインディアンの記録を入手し、埋められた宝物のありかをつきとめたと称しているとの記事が掲載されている。彼は農民を騙し、1日3ドルの報酬で宝のありかを指南していた。ジョセフもウォルタースと同様に、周囲の人間にどこそこに宝が埋められているというようなことを言いふらしていたことを、何人かが証言している。ジョセフはいわゆる「覗き石(seer stone)」なる物を入手し、霊を見ることができたり金銀のありかがわかると称していた。ジョサイヤ・ストール氏(ジョセフの友人の父)はジョセフの霊能力を聞きつけ、ジョセフに銀鉱を探すのを手伝ってくれるよう依頼した。その条件は、月14ドルの給料と宿を提供するとのことだった。(ジョセフは後年、自分が宝探しに従事していたことを公式に認めており、月に14ドルしか稼げないので止めたと言っている。)父親思いのジョセフは、収穫の時期も過ぎたので、父も雇ってくれるよう交渉し、許可を得た。銀鉱探しの途中、ペンシルバニヤ州ハーモニーのアイザック・ヘイル氏のもとに滞在し、そこで将来ジョセフの妻となるエマ・ヘイルとの運命的な出会いがあった。

ヘイル氏は銀鉱探しがうまくいかないのを見て、一行に不審を抱いた。このことは、後にヘイル氏が娘エマとジョセフとの結婚に反対する原因となった。銀鉱探しがうまくいかず、ジョセフの父はパルマイラに戻ったが、ストール氏はあきらめきれず、ジョセフを手元に置いて、農作業をさせたり学校に通わせたりした。もちろん、ジョセフは合間を見てはエマに会いに行っていた。1826年3月、ストール氏の隣人ピーター・ブリッジマンがジョセフを治安を乱す罪を犯したとして訴えている。ジョセフは、覗き石を使って金鉱を探しあてることをしてはいたが、最近は目の痛みがあり、もうやっていないと証言している。ストール氏は熱心にジョセフを弁護し、彼に宝を探し当てる能力があることを主張している。ストール氏によると、古い切り株の根を掘っていくとお金の入った箱と鳥の羽がみつかるというのでその通りにしたところ、確かに鳥の羽を見つけたというのである。しかし、お金の箱はどこかに持ち去られた後だったのだそうだ。結局ジョセフの裁判は有罪となったが、どのような処分が課せられたかという記録は、残念ながら残っていない。

この裁判をきっかけに、ジョセフは宝探しをやめてしまった。しかし覗き石を捨ててしまうことはなかった。その頃には、ジョセフのエマへの思いは高まり、エマなしにパルマイラに戻ることは考えられなかった。しかしエマの父親は、当然ジョセフの裁判のことを知っており、そんな男に娘を嫁がせるわけにはいかなかった。エマ本人は、背が高く、そこそこハンサムで、野心を持った魅力的な青年ジョセフに心を惹かれ、恋に落ちた。彼らが選んだ結論は駆け落ちだった。ストール氏の助けもあって、1827年1月18日、彼らは密かに挙式し、ジョセフの両親と同居すべくマンチェスターへ向かった。結婚して8ヶ月後、スミス夫婦はエマが自身で所有していた家財道具と家畜をとりに、エマの実家ヘール氏のもとを訪れた。ヘール氏の怒りも収まる頃合いと考えたのだろう。荷物を運ぶために同行したピーター・インガソル氏の証言によると、ヘール氏はジョセフを見るなり、大粒の涙を流してジョセフに「おまえは俺の娘を奪って結婚しやがった。こんなことなら娘を殺して俺も死んだ方がましだ。宝探しなんてろくでもないことに時間をつぶし、覗き石なんて嘘で大勢を騙しやがって!」となじった。ジョセフは神妙にも涙を流し、覗き石で宝のありかなどわからないことを認め、宝探しについて今まで言っていたことはみんな嘘だったと白状した。そして、もう二度と宝探しなどしないと約束した。ジョセフの謝罪を受けて心がやわらいだヘール氏は、ジョセフに仕事の世話をしてもよいと申し出、ジョセフも同意した。しかし結局、手に土して働くことにジョセフは魅力を感じなかった。宝探しはあきらめたとは言え、次の一手を考えていたのである。

<金版の発見>

先述したように、インディアンの塚があちらこちらに見られたことは、当時の人々のいろいろな憶測を生んだ。かつてこの地で大虐殺があったという説が広く信じられ、当然このことはモルモン書の内容に反映されている。母親の証言によると、ジョセフもこの説を深く信じ、20歳になる前から、古代インディアンの生活や宗教や動物の状況について、想像力たくましく自説を語っていた

ちょうどその頃、カナダでインディアンの歴史記録が発見されたという噂や、エリー運河沿いを宝探ししていたら真鍮の版を発見したというニュースが伝わっていた。ジョセフは幼少の頃から家族の経済的困窮状態をよく知っており、妻を迎えたとなってはさらに一獲千金の夢をふくらませていたに違いない。そこでジョセフは、塚を築いたインディアンについての本を出版してひとつ稼いでやろうと思ったのだろう。近くの小高い丘(後に金版発見の地、クモラの丘として有名になる)こそ、絶滅したインディアンの種族の記録を発見する場所として最適だった。ジョセフの企てについて、以下のような証言がある。

ピーター・インガソル氏の証言

ある日ジョセフが家に細かい白い砂を持ち帰った際、食卓についていた家族から、何を持っているのかと尋ねられたそうです。ジョセフは「その時たまたまカナダで見つかった、黄金の聖書と言われている歴史記録のことを考えていたんだ。そこで、わざと深刻そうな顔をして、これは黄金の聖書さ、と答えたんだよ。ところが驚いたことに、みんなそれを信じたんだ。そこで僕は、これを誰にも見せてはならないと命じられていて、これを見たら必ず死ぬぞ、と言ったんだ。で、取り出して見せようとするふりをしたら、みんな恐がって部屋を出て行ってしまったよ。まんまと愚か者どもを騙してやったから、これからも楽しみだよ。」と言っていました。ジョセフは、そんな本なんて持っていないし、あり得ないと言っていたんですが、ウィラード・チェイス氏のところに行って、その黄金の聖書を入れるための木箱をつくってもらおうとしたんだけれどつくってもらえず、ジョセフは自分で箱をつくり、他人には木箱を持ち上げたりさせて、黄金の聖書の感触だけわかるようにしているんだとも言っていました。

ウィラード・チェイス氏の証言

1827年6月、ジョセフの父親は私に、霊がジョセフのもとを訪れて、家の近くに金パンに記された記録が埋められていると告げたと語っていました。でも取り出そうとすると、金版を守っているガマガエルが人間に変身して、ジョセフの頭を打ったのだそうです。これは何年か前の話だそうです。1827年9月になって、ジョセフは私に、ついに金版を掘り出して翻訳することが許可されたと打ち明けてくれました。でも彼は金版を入れる箱が必要なので、もし私がつくれば、金版の分け前をくれると約束してくれました。でもそれから数日たって、ジョセフは友人に、自分はそんな金版なんか持っていなくて、あの間抜け(私のこと)をまんまと騙してやったと言っていたという話を聞いたんです。

ジョセフのちょっとしたイタズラ心から、話が大きくなってしまったのである。その頃はまだ、モルモン書の金版発見は、宗教的な意味を持っていなかった。ジョセフ・キャプロン氏は、ジョセフの父が、発見当初に金版が啓示や宗教に関係があるという話をしていたことはなかったと、証言している。しかし金版の発見は、周囲の人々に波紋を広げて行った。

<金版の役割>

モルモン書の見証者として知られることとなるマーチン・ハリスはスミス家の知り合いで、裕福な農場主であった。彼はクエーカー教をはじめとするさまざまな宗教教派を渡り歩いてきた人物でもあった。教派間の論争をまのあたりにしていたハリスにとって、黄金の聖書の発見は極めて大きな意味を持っていたに違いない。ハリスは金版の発見について、地元の牧師に「ついに画期的なことが起こりました。この世界に大きな光が注がれ、われわれの間近に神の顕現が起こるのです。発見された黄金の聖書の内容は、すべての宗教論争を鎮め、すぐに栄光に満ちた福千年をもたらすものなのです」と語っている。少しおっちょこちょいな性格のハリスは、金版こそ神のみ言葉であると言いふらして歩いた。ジョセフは金版の翻訳にあたって、ハリスの期待を裏切らず、当時論争となっていた教義的内容をモルモン書に織り込んだ。

ジョセフは長い間、金版発見の経緯について語ることをためらっていたのも事実である。教会設立から1年後の1831年になって兄ハイラムからせがまれても金版発見の詳細を語ろうとせず、1838年になってようやく、現在知られているような公式の記録として明らかにされた。いずれにしても、ジョセフの意図に関わらず、金版の話は一人歩きを始めた。金版の発見にすっかり興奮したハリスは、金版の翻訳の出版の費用を自ら負担するばかりか、ジョセフの借金を全額肩代わりすることを申し出た。少しばかり形は違うが、経済的困難を克服しようというジョセフの所期の目的は果たされることとなった。アメリカインディアンについての自説を出版しようという思いは、いつしか宗教書の執筆、そして宗教教祖への道へとジョセフを導いていったのである。

参考文献:"No Man Knows My History - The Life of Joseph Smith" by Fawn M. Brodie

関連ページ:「素顔のモルモン教−ジョセフ・スミスの魔術時代」


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