ダリン・H・オークス長老による説教



自らを信仰ある末日聖徒であるとしながらも、末日聖徒は「(モルモン書が)古代アメリカ大陸の民の歴史的記録であるという主張をとりさげる」べきであると唱えている者がいる。彼らはモルモン書を、価値ある内容が収められている宗教的なフィクションとして読み、活用すべきたどいうことを言っている。このような「高等批評」を行っている者たちは、歴代予言者がこの神権時代の卓越した聖典と位置づけているモルモン書が、真実であるか創作であるか、すなわち歴史なのか単なる物語なのかということについての疑問を投げかけている。

モルモン書の歴史的真実性は、極めて重要な問題であり、その他の問題と同様、福音の第一原則である主イエス・キリストに対する信仰に依るべき(コメント:真理を識別することは信仰により可能かも知れないが、歴史書の真偽の識別は信仰の問題ではないと考える)である。しかしながら、モルモン書の歴史的真実性については、それぞれ一冊の本が書けるほどのさまざまな副次的問題をはらんでいる。私の目的はそれがモルモン書を肯定するしないに関わらず、そのような副次的な問題に対する意見を述べることではない。

 それら副次的な問題は注目に値する。この集会で先ほど話されたように、ニール・A・マクスウェル長老はオースティン・ファーラーの説明を引用されている。

 「議論は確信を生まないが、不十分な議論は信仰を破壊する。証明されているようにみえる事柄は受け入れられず、誰も弁護できない事柄は捨て去られる。理性的な議論は信仰を生み出さないが、信仰を育てる環境を育む。」(C・S・ルイスについてのオースティン・ファーラーの言葉)

 今回、私は理性的な議論をしていくつもりであるが、いかなる証拠にも頼るつもりはない。私はモルモン書の歴史的真実性に対する疑問に対して、信仰と啓示の見地から検討をしていこうと思う。私はモルモン書の歴史的真実性についての問題は、基本的には純粋に学問にのみ頼るという立場と、学問と信仰と啓示とに総合的に頼る(コメント:予断をもって論ずることは、真実の追求の妨げとなる)という立場の違いであると考えている。学問のみに頼る者は啓示を否定し、ニーファイの末日についての予言である「自分の学識で教え、語る言葉を与えてくださる聖霊を否定する」(2Ne28:4)という言葉を成就しているのである。そのような手法を用いる者の典型的なやり方は、地理的問題や「馬」や天使による起源や19世紀の文体といった、限られた問題のみを集中的に論じるのである。彼らはモルモン書の記録の驚くべきほどの複雑性を無視するか見逃してしまっている。学問と信仰と啓示とに頼る者は、問題の全体像をとらえ、単語と同様に内容を、遺跡の発掘と同様に啓示にも目を向ける(コメント:これでは客観的な議論にならない)のである。

 少しの間、弁護士を職業とする者としてお話するとが、もし信仰や人間の理解を超えた世界が存在するということの重要性を進んで認めるというのなら、モルモン書に関する問題は、最も声を大にして論ずべき主題であると申し上げたい。モルモン書の歴史的真実性への反対訴訟は却下されなければならないのである。それは、反対者がとりあげる事柄について論じたり、他の副次的な問題について論証することではない。

 私にとっては、この明確な考えは、BYUでモルモン書のクラスを受講した40年以上前にまでさかのぼる。そのクラスは、大胆にも「モルモン書の考古学」と名づけられていた。思い返してみると、むしろ「モルモン書の読者のためのいくつかの問題に対するある人類学者の見解」とでも名づけるべきだったろうと思う。このクラスで私は、モルモン書は南北アメリカ大陸のすべての時代におけるすべての民の歴史ではない、という考え方を知った。それまで私は、すべての時代のすべての民の歴史なのだと思っていたのだ。もしモルモン書がすべての時代のすべての民の歴史であるとするならば、それに反するどんな歴史的、考古学的、言語学的証拠も、モルモン書に不利なものとなり、学問のみに頼る者にとっては、議論の好材料を提供することとなる。

 しかしそうではなく、モルモン書はアメリカ大陸の一部に過去の数千年の間に住んでいた民の記録に過ぎないとすれば、議論のあり方は大きく変わってくる。問題はもはや絶対的なものではなく、相対的なものとなるのである。言葉を換えて言えば、私が述べたような条件下では、歴史的真実性に反対する者は、モルモン書が、ある特定の時期にアメリカ大陸に住んだいかなる民についても歴史的に誤っていることを証明しなければならず、どうしようもなく難しい作業に取り組まなければならないのである。エスキモーの文化を一つとりあげて、アジアからのすべての移民がアジアから来たという議論はできないはずなのである。モルモン書の歴史的真実性に反対する者は、そこに記録されている宗教的生活がアメリカ大陸のどこにも存在しなかったことを証明しなければならないのである。

 モルモン書の歴史的真実性を肯定する立場の優位性を説明するもう一つの方法は、われわれ真実性を主張する者は、この問題に関して、引き分けで十分満足していることを指摘することである。誠実な求道者は、その真実性についての否定的見解を支持する未解決の問題が存在するにも関わらず、モルモン書が古代の記録であることについてはたくさんの証拠が存在し、その真実性に対する疑問について、自信を持って答えを見出すことができないという結論に至るであろう。そのような状況にあっては、モルモン書を支持する者としては、歴史的真実性の問題について、引き分けあるいは保留とし、別の機会に再審理するということで納得することができる。

 実際、この世的な証拠でモルモン書の真実性を肯定にも否定にも証明することはできないというのがわれわれの立場(コメント:少なくとも考古学によっては証明できないことを認めているのに注目すべきである。一部の教会員は、証拠が続々と発見されていると考えている)なのである。その真実性は、モルモン書にもあるとおり、聖霊の証によるのである。われわれは引き分けということで一応の納得をするが、モルモン書の歴史的真実性を否定する者は、それでは納得がいかないのである。彼らはその歴史的不真実性を証明する責任があるのだが(そうする必要性を感じているようだ)この世的な証拠をすべて検証してみるとあまりにも問題が複雑であるため、彼らは証明ができないでいるのである。

 ヒュー・ニブレーは関連してこのようなことを書いている。

「モルモン書あるいはその他の古代文書に対する歴史的批判の第一のルールは、決して物事を簡略化し過ぎないことである。いかに単純かつ簡潔な表現であっても、モルモン書に記述されている歴史には、他の記録にはほとんど見られないほどの、一般読者の目にふれない豊富な出来事が詰まっているのである。怠惰とうぬぼれだけが、読者をしてモルモン書の内容についての最終的な答えを早急に得ることができたという確信に至らせるのである。」

 付け加えさせていただけば、この点を示すものとして、オルソン・スコット・カードがモルモン書の真実性を支持してその言語、文化、著作物について説得力のある記述をしている「モルモン書−本当に書かれたものか、それとも策略か?」がある。

 私は信仰と啓示を除外しないで本を書いている著者達に賛辞を送りたいと思う。われわれに与えられた理性の力をわれわれが行使すること、そしてまた神聖な賜物としての信仰を行使し、神からの啓示により教えられる能力を養うようにすることを、創造主が期待しておられるということは、私の信仰と経験の一部となっている。しかしこれらは求めなければ与えられないのである。学問を用いて信仰や啓示を誹謗する者は、救い主からの質問「互いに誉れを受けながら、ただひとりの神からの誉れを求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。」(ヨハネ5:44)についてよく考えてみるべきである。

 神はわれわれに、神について論じるように薦めておられるが、神が薦めておられるのは、学問的な発見や証拠に基づいてということではなく、霊的な本質問題への関心や霊的に成熟した態度に基づいてということなのである。現代の啓示で主は、民と論じることについて、3度言われている。(教義と聖約45:10、15;50:10−12;61:13;イザヤ1:18も参照せよ)これらの啓示はすべて、すでに主との誓約に入ったイスラエルの長老たちや回復された教会の会員に向けてのものであることは意義深い。

 これらの啓示で、まず主は、永遠の誓約をこの世にもたらし、この世の光、主の民の旗印としたと言われている。「それゆえ、あなたがたはそのもとに来なさい。そうすれば、昔の人々と論じたように、わたしはやって来る者と論じよう。そして、わたしは力強い論拠をあなたがたに示そう。」(教義と聖約45:10)と言われている。このように、論じるようにというこの神聖な言葉は神に信仰を現し、罪を悔い改め、た者に対して与えられたものであり、バプテスマの水により神聖な誓約を交わした者に対して与えられたものであり、われわれを真理に導く御父と御子を証する聖霊を受けた者に対してあたえられたものなのである。論じることと啓示により理解力を強めるために、主はこれらの人々にかつて与え、今も与えているのである。

 モルモン書の歴史的真実性を否定する末日聖徒の批評家のある者たちは、モルモン書の内容のある部分について、その価値を賞賛し、肯定することにより、末日聖徒を説得するきっかけとしようとしている。このような方法をとる者は、つくり話として断じている書物の内容を、なぜ賞賛することができるのかを説明するという重要な責任を負っている(コメント:説明は容易である。世界の偉大な文学作品は「つくり話」であっても真理を語っているという点でその価値を賞賛できるのである)。私は救い主の神性についての同様のアプローチを理解することができないでいる。ご承知のように、ある学者たちや聖職者たちは、主を偉大な教師であると言いながら、そのような人物がどうしてあれほどの崇高な教えをし、(彼らに言わせれば嘘であるが)ご自身を死者から復活する神の御子であると言うことができたのか、説明をする責任がある。

 新手の批判者達もモルモン書に対する同様の問題を抱えている。例えば、モロナイという名の人物が記録した教えの価値をわれわれは支持しているが、もしそれらの教えのに価値があるとするならば、以下の言葉がその人物の言葉であることをどうやって説明することができるのだろうか?

「もし(この記録に)誤りがあるとすれば、それは人の誤りである。しかし見よ、わたしたちはまったく誤りを見いださない。それでも、神はすべてのことを御存じであるので、非難する者は、地獄の火に投げ込まれる恐れのないように用心しなければならない。」(モルモン8:17)

「わたしは、これらのことを覚えておくように勧める。わたしが偽りを言っていないことが、あなたがたに分かる時がすぐに来るからである。あなたがたは、神の法廷でわたしに会うであろう。そして、主なる神あなたがたに、『わたしはあなたがたに、死者の中から叫ぶもののように、まことに地の中から語るもののように、この人が書き記したわたしの言葉を告げなかったか』と言われるであろう。」(モロナイ10:27)

 ある書物の著者の宣言や予言者や記述の真実性を否定しておきながら、その道徳的・宗教的内容を受けいれるということは、どこか奇妙である(コメント:前のコメントを参照のこと)。このような態度はモルモン書が説き主唱している信仰と啓示の概念を否定しているだけではない。学問的にも決して適切とは言えない(コメント:ずいぶんと思い込みが激しいようである)のである。

 私はすでにこの世を去った優れた同僚であり友人であった方の言葉を思い出さずにはいられない。この有名な法律学の教授がシカゴ大学のロースクールでの最初の授業で話した言葉の中に、法律家は同時に学者でなければならない、というものがあった。彼は続けてこう言った。

「古のユダヤ人の学者の言葉『ゴミはゴミに過ぎない。しかしゴミの歴史、それは学問である』は喜びをもってみなさんに思い起こされるであろう。」

 このような素晴らしい説明は、いわゆる学問というものは、この世的なものを扱っても崇高なものにすることができるということを思い起こさせてくれる。ゴミの歴史についてもそうなのである。このように、私の友人は「奇跡は作り話に過ぎない。しかし奇跡の歴史、それは学問である」と言って説明することもできたであろう。モルモン書についてもそうなのである。この書物を学問の対象としてしかみていない者は、それを神の言葉として敬う者とは非常に異なった視点を持っているのである。

 学問や物的証拠は、この世的な価値を持つものである。私はそれらの価値を理解しているが、それらを使った経験もいくらかある。そのような技術は、理解に訴えるものがある。しかし他にも方法や価値基準がり、われわれは学問に熱中するあまり、学問的証明や、物的証拠や理性によって弁護することができないものについて、耳や目や心を閉じてはならないのである。

 別のたとえを挙げると、歴史、特に教会歴史は、それぞれの扱う主題について教えるべきことがあるとは言え、単に経済学や地理学や社会学な面での理解に限定できるものではない。歴史について、ゴードン・B・ヒンクレー大管長は、われわれの先人を貶めてけなすような情報を引用する批判者達についてコメントしている。

「われわれは先人たちも人間であったということを認めている。彼らが過ちを犯すということは疑いもない。しかしそれらの過ちは、彼らの驚くべき業績と比較すれば、とるに足らないものである。過ちだけをとりあげて偉大な善行を見逃してしまうことは、風刺画を描くことと同じである。風刺画はおもしろいが、醜く不正直であることもしばしばある。顔に傷があったとして、それでも美しく力強さを保った顔である。しかし顔の他の部分に比べて傷だけを過度に強調すれば、肖像画は完全ではない。私は真理を恐れるのではなく、歓迎する。しかし事実はこの教会の偉大な力と成長という要素に力点を置いた、正しい文脈で述べられるべきである。」

 マタイの16章では、イエスがペテロに、みたまの証に従うことと、この世の考えに基づく自分だけの考えに従うことについてを対照した重要な教えを説いておられる。

「イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子達にたずねて言われた、『人々は人の子をだれと言っているか』。彼らは言った、『ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちはエリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります』。そこでイエスは彼らに言われた、『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』。シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』。すると、イエスは彼にむかって言われた、『バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。・・・』・・・そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。」(マタイ16:13−17、20)

 これはみたまによる啓示の価値についての主の教えである。(「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである」)同じくマタイ16章の続く3つの聖句では、同じく使徒ペテロのこの世の価値観に基づく先ほどとは対照的な考えについて、救い主が飾り気のない言葉で語っているのを見ることができる。

「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、『主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません』と言った。イエスは振り向いて、ペテロに言われた、『サタンよ、引き下がれ。』わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(同21−23)

 みたまの証(「神のこと」)よりも学者の研究結果やこの世的な価値に基づく自らの判断(「人のこと」)に屈してしまう時、われわれもペテロと同様の非難を受けるのである。

 人間の理性では、神に限界を設けたり、神からの戒めや啓示の力を軽んじることはできない。そのようなことをしてしまう人々は、自らを予言者サムエルの証を否定した不信心なニーファイ人のようにしているのである。モルモン書には、「また、彼らは互いに論じ、論争して言った。『キリストのような者が来ることは道理に合わない。・・・』」(ヒラマン16:17−18)とある。

 そのような「論」を持つ人々は、誰かが言っている、われわれの心は、頭では理解できないことをわれわれに伝えている、という特別の経験を否定するのである。

 悲しいことに、末日聖徒の一部の人々は、他の人々が啓示に頼ることをあざけっている。そのようなあざけりは、学問的に優れた業績を持っているが、霊的には貧弱な業績しかない人々から出て来るのである。

 モルモン書の重要性は、イエス・キリストを、われわれを死と罪から贖い救う、永遠の父なる神の御子として証していることにある。もしある文章がイエス・キリストの卓越した証であるならば、それが事実なのか作り話なのか、つまりキリストを預言し彼の姿を目撃した人々が実際に生きていたかどうかということに大きな意味がないといういうことが言えるのだろうか?

 ジャック・ウェルチと私が、今晩の私の話のテーマについて話し合った際、彼はこの歴史真実性否定主義という新しい傾向を、「ソルトレークシティでは新しい流儀かも知れないが、何十年にもわたって他の多くのキリスト教宗派では見られてきたことだ」と指摘してくれた。

 その通り!モルモン書が真実か作り話かどうかにあまり意味はないとする議論は、イエス・キリストが実在の人物かどうかにはあまり意味がないとする議論と同類である。われわれが知るとおり、そのような教えを支持するいわゆるキリスト教教師たちは大勢存在し、イエス・キリストの実在を否定しているのである。さらに、神の存在や、神の存在を知ることの可能性する否定する人々もいるのである。モルモン側の彼らの仲間は、モルモン書の教えを部分的に受け入れながら、その歴史的真実性を否定しているのである。

 2ヶ月前、私が15年にわたって責任者を務めている雑誌「クロニクル」を見ていたら、「誰が歴史的人物としてのイエスを必要としているだろうか」という書籍の評論と、その書評の執筆者で、博士号を持ち、ユダヤ教の教師であり、大学教授でもあるジェイコブ・ニュースナーに対するすばらしい評判の記事に目が止まった。彼は「歴史的人物としてのイエス」という言葉を使った2冊の書籍を紹介していた。彼のコメントは一般的な歴史的真実性を検討するということでは説得力のあるものであった。

ニュースナーはそれら2冊を評し、片方については「偉大かつ独創的で優れた学者により書かれた...非常に力強く、詩的な書物である」と、もう一方については「学問の傑作」と賞賛している。しかし、それらへの賞賛の辞にも関わらず、ニュースナーは率直に、両著者の払った努力が妥当なものなのかどうかについて、率直に疑問を投げかけている。彼らの努力は、今日の学問界では典型的に見られるものであるが、「事実と創作、神話や伝説と実際の出来事とを見分け」て歴史研究をするために、聖句を信仰の立場からではなく懐疑的な立場で読み込んでいくというものであった。そのような研究態度で「福音書の懐疑的読解」に取り組んでいった彼らは、福音書のイエス・キリストは実在の人物ではないと考えるに至った。彼らはまた、このことは歴史家にとって意義があると考えるに至ったのである。

 以上のことは私がニュースナーの書評を要約したものである。彼の結論を引用してみよう。

 「歴史的人物としてのイエスの研究ほど不誠実な歴史研究はない。イエスはその始まりも、中間も、最後にいたるまでも、神学的研究対象なのである。キリスト教徒にとっては、肉体化した神が実際にこの地上で語り、行動したということを信じることは、もっとも深遠な神学的意義を持つことであるにも関わらず、超自然的な事柄についての理解がなく、奇跡に対して無感覚になっている歴史研究の手法によって解答を見出そうとしているのである。

 しかし、歴史的な事であれ何であれ、宗教の始祖についての声明には、違った種類の真理が提示されているのである。そのような声明は、より重要な意味を持つだけでなく、1775年のある日ににジョージ・ワシントンが何をした、といった類の記録とは異なった起源への訴えかけをしているのである。それらは単なる情報ではなく、啓示に基づいているのである。宗教の価値を認める者は、神の啓示や霊感に宗教の起源があると信じるのである。福音書に福音的な真理よりも歴史的真実を求めることは、神学的真理と歴史的事実を混同することになり、それらをこの世の基準に貶めてしまうことになり、キリスト教が認めてきたイエスの独自な姿とはまったく反してイエスを扱うこととなるのである。

「歴史的人物としてのイエス」について語るということは、神聖な事柄をメスで解剖してしまうこととなり、違う種類の真理を混同し、患者を手術台の上で死なせてしまうということなのである。外科医はなぜメスを入れたのかということを忘れ、心臓を取り出しておきながら、元に戻すということを忘れてしまうということなのである。「1足す1は2」ということや「憲法会議が1787年に行われた」ということは、「モーセがシナイ山で律法を受けた」ということや「イエス・キリストは神の御子である」ということとは、同列に論じるべきことではないのである。

誰かが本当に死から蘇ったのかどうか、あるいはシナイ山で神が予言者に何を語ったかということは、一体どんな歴史的事実によって知ることができるのだろうか?私は歴史研究の手法を、処女が神の御子を生んだということを確かめる作業と同一視することはできない。そして、南北戦争の原因の説明に慣れている歴史家が、どうして奇跡や、死からの復活や、信仰が広く扱うさまざまな事柄について語ることができるのであろうか?奇跡の物語を研究する歴史家達は、信仰を言い換えたり、信仰に無関心であったり、あるいは単に愚かであったりする存在でしかない。彼らの研究には、「批判的歴史研究」という仮面をつけた神学以上の何物をも見出すことはできない。もし私がキリスト教徒であったなら、すでに王座につき王冠をかぶっているイエスに対して、なぜこの世的な価値基準に貶めて科学の冠をかぶせなければならないのか、問いただすであろう。ユダヤ教の教師としての私の見解では、これらの書籍はただ単に、また途方もなく見当はずれだということしか言いようがない。」

 長々と引用したことをお許しいただきたいが、みなさんにも、ユダヤ教教師であり大学教授である彼が歴史的人物としてのイエスについて語っていることはモルモン書の歴史的真実性の問題にも同様に適切であり、説得力があるという私の結論(コメント:これは教会にとって驚くべき方向転換である。彼が言っていることは、私の理解によれば、モルモン書が古代アメリカの実際の歴史かどうかということを論じることには意味がないということである)に同意していただきたいと思う。

 まとめて言うと、学問的専門家は、ある特定の学問分野の専門家だということである。定義によれば、専門家は人間の経験する極めて限られた分野について、すべてあるいはほとんどすべてのことを知っている人物のことなのである。そのような人が、専門分野外のこと、とりわけ神の目的や永遠の計画について何かをわれわれに語ることができると考えるのは、どう考えても幼稚である(コメント:ならば宗教の専門家がモルモン書の歴史的真実性を語ることもできないはずである)

 優れた学者は自分の分野がどこまでかを弁えており、彼らの導く結論は、注意深く自分の専門分野に限られている。このことに関連して、私はある老弁護士の観察についての話を思い出す。緑の草原で草を食む牛がいる牧場を抜けて旅をしていたところ、その弁護士の知り合いがこう言った。「まだら模様の牛をごらんになって下さい。」用心深い弁護士は、注意深く観察し、それを認めて言った。「そう、牛は確かにまだら模様だな、少なくともこちら側は。」私は、モルモン書の批判者たちが、その歴史的真実性にどうしても疑問がある方々も含めて、その「学問的」結論について、老弁護士の半分でも用心深くあればと願っている。

 このメッセージで私は、モルモン書の歴史的真実性に関する半ダースばかりの問題についての考えを申し上げた。

 1.この問題については、われわれの信仰や神学を含む他の多くの事柄のように、学問と同時に信仰と啓示に依ることが重要である。

 2.私は、この世的な証拠は、モルモン書の真実性を肯定的にも否定的にも証明することができないことを確信している。

 3.モルモン書の歴史的真実性を否定する人々は、それを証明するという困難な責任を負っている。また、どうしてモルモン書を一方で賞賛しながら、作り話であると断じることができるのか、おかしな説明をしなければならない。

 4.われわれは聖書により、イエスは使徒達に、ご自身の正体と使命についての重要な事柄を教えられ、使徒達が啓示の証(「神のこと」)を信頼したことを「祝福」され、この世の価値基準(「人のこと」)により行動したことを叱責された。(マタイ16:23)

 5.学問と同様に信仰と啓示を信頼し、モルモン書の歴史的真実性を信じる学者は、これら神のものを見下す者たちのあざけりを堪え忍ばなければならない。

 6.私はまたすべての学者が宗教的信念の価値と神学的真理に関する超自然的現象の正統性を見下しているわけではないということを説明した。ある者はモルモン書に歴史批判的研究手法を持ちこもうとしている者達の「知的島国根性」を批判している。

 私は多様性ということについての考えを述べて話を終えようと思う。多様性は、現代において最も好まれて鳴り響いている言葉の一つである。正しく使えば、調和、愛、そして個人の成長を促すすばらしい概念である。しかし似たような概念であえる寛容という言葉のように、使い方によっては、その擁護者と周囲の人々をに害や破壊をもたらすことがある。

 われわれは悪に対してどれほどの寛容を示すべきなのだろうか?説教壇で話される偽りの言葉に対しても寛容でいるべきなのだろうか?偽りの教義についてはどうだろうか?われわれの個人的価値観や、あるいは親しい友人たちにも多様性を認めるべきなのだろうか?

 もし寛容と多様性がその高尚な目的を達成しようとするのならば、それらは熟考と祈りと賢い選択をもって使われるべきであり、決して単純かつ絶対的に使われるべきではない。もし公に多様性を賞賛する者が、「何についての多様性」かを明確に説明するならば、それはよいであろう。

 このテーマについて、私はプロボのパトリシア・B・グレイが1993年10月20日付の「デセレト・ニュース」の編集長に寄せた手紙の言葉について賞賛の辞を送りたい。その手紙は、最近のいくつかのマスコミで使われているような、多様性という言葉が、「啓示された真理よりも近代の政治的な考え」を反映しているという見解から始まっている。続けてこう書いてある。

「確かに、信者の忠誠心と信仰以外のほとんどすべてのことについて、『神は多様性を』尊重しておられる。末日聖徒イエス・キリスト教会は信仰の多様性を拒否するものとして存在している。

聖典をざっと調べてみても、教会内での多様性を支持する聖句はみあたらない。むしろ「あなたちが一つとならなければ、あなたたちは私のものではない」という言葉を含め、4回以上は、一致するようにという呼びかけが記されている。

罪人への愛と同情があるからと言って、教会は、故意の反抗が繰り返されることは見逃さない。(参照聖句は69もある)...あからさまな反抗は、中傷(15の参照聖句)や争い(34の参照聖句)などと同様に、罪であることは明白である。

もちろん、われわれのほとんどは時々、反抗的な思いや疑いや誘惑や自分が指導者よりも優れているという考えを持ったりする。しかしながら、われわれのほとんどは、それらについて公に語ったり、議論を引き起こしたり、他人の信仰に異議を唱えたり、記者会見を開いたりすることなく解決している(コメント:どうやら私は例外のようだ)

私は教会を代表して語っているのではなく、恐らくは、サンストーン・シンポジウムの頭脳トレーニングよりは、総大会での霊的な力に感動する何千もの知的で自立した人々を代表しているのである。」

 兄弟姉妹、われわれは全員、学問と信仰と啓示を信頼していますが、みなさんが行なっている事柄について、どれほど感謝の思いを抱いているでしょうか。神がこの財団の創立者と支援者と職員の方々を祝福し給わんことを。みなさんのなさっている仕事は重要であり、よく知られていることですが、高く評価されています。

私はわれわれが仕えるイエス・キリストを証し、この教会は彼の教会であると申し上げます。みなさんの上に主の祝福があるように、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


全体を通じてのコメント:

モルモン書の歴史的真実性を論じていく上で、非常に不誠実な態度であると言わざるを得ない。たとえ私が擁護論の立場をとっていたとしても、極めて不満足であり、失望していたことであろう。モルモン書が真実の歴史であるのなら、それを立証することは、信仰や啓示とは無関係なはずである。ベストを尽くして学問的に真偽が立証できず、最後の手段として信仰と啓示に頼るというのなら、まだわかる。はじめから信仰と啓示が介入しては、客観的(それはすなわち学問的)に歴史的真実性を追究することはもはや不可能である。

もしオークス長老のこの説教が教会の公式見解だとするならば、大きな方向転換である。今までモルモン書は文字通りにアメリカ大陸の古代の民の歴史であるとしていながら、今度は歴史的真実として学問的に論じる意味すらないと言い出しているのである。しかしこれは、考古学的証拠の逆風を受けている教会にとって、もっとも現実的な反論であるとも言える。モルモン書はもはや、その歴史的真実性の研究に耐えられなくなってきている。教会員を教会に引き留めておくには、歴史的真実性に学問的興味を向けさせることをやめさせ、客観的に否定することのできない信仰や啓示を強調することがもっとも有効な作戦だからである。


「モルモン書」へ戻る

wpe2.jpg (1592 バイト)