B・H・ロバーツ長老によるモルモン書研究


モルモン書の正統性を追究していく上での基本書となるものとして、B・H・ロバーツ(Brigham Henry Roberts)著の「Studies of the Book of Mormon(モルモン書の研究)」が第一に挙げられる。同著はBook of Mormon Difficulties: A Study(モルモン書の諸問題に関する研究)」A Book of Mormon Study(モルモン書研究)」A Parallel」(類似性)という3つの論文と、それらに関する「書簡集」及びスターリング・M・マクマリン(ユタ大学教授)による「ロバーツ長老の生涯の概要」から成っており、著者の死後、ブリガム・D・マドセン(ユタ大学名誉教授)が編集したものである。ロバーツ長老の残した原稿を子孫がユタ大学へ寄贈し、1985年に第一版がイリノイ大学出版局から(版権はユタ大学研究財団)、1992年にSignature Books社から第二版が発行されている。私が入手したのは第二版である。「Book of Mormon Difficulties: A Study」は1922年に、「A Book of Mormon Study」は1927年に、それぞれ教会の最高幹部に提示されている。「A Parallel」は、モルモン書のネタ本とみられる「View of the Hebrews(ヘブライ人の夢)」とモルモン書の内容の比較を試みたもので、遅くとも1927年以前に書かれたものである。

ロバーツ長老は1857年イギリスに生まれ、子供の頃にユタ州へ移民してきた。彼は特に、モルモン書の正統性を合理的に擁護する論陣を張ってきたことで有名である。1888年には中央幹部(七十人第一定員会会員)に召され、1922年から1927年にかけてはニューヨークに本部のある東部諸州伝道部の伝道部長を務めている。1898年に民主党から出馬して合衆国下院議員に当選したが、多妻結婚により議席を取り消されている。1933年に没するまで中央幹部であった。

彼が上記の著作を開始したきっかけは、ユタ州サリナの青年ウィリアム・E・ライターから1921年8月22日付けでジェームス・E・タルメージ長老(使徒)宛に送られてきた質問状である。ライター青年は、ワシントンDCのカウチ氏(Mr. Couch:正体は不明)からモルモン書に関する質問を受けたため、回答を求めて質問したのであり、タルメージ長老は回答書の作成をロバーツ長老に依頼した。その質問とは以下の5つ(要旨)である。

  1. 紀元400年頃に絶滅したニーファイ人の言語は、既に高度に発達していたヘブライ語のはずであるが、なぜその後の短い期間でインディアンの言語は互いに大きく異なった諸言語に分かれてしまったのか。
  2. モルモン書はリーハイの一行が新大陸に到着した際、スペイン人が上陸した時には存在していなかった「」を発見したというのはどういうことか。
  3. 紀元前600年のユダヤ人には鋼鉄の知識がなかったはずなのに、ニーファイがエルサレムを離れた後に鋼鉄の弓を作ったというのはどういうことか。
  4. モルモン書には「三日月刀(Scimeter」という語が出てくるが、その単語はイスラム教以前の世界には存在しなかったはずであるが、どういうことか。
  5. アメリカ大陸では「」は知られていなかったはずであるが、ニーファイ人が「絹」を生産し使用していたというのはどういうことか。

ロバーツ長老はこれらの質問に対する回答を準備する際、当初考えていたよりは事態が深刻であると気づいた。(彼の言葉は「I found the difficulties more serious than I had thought.」である。)そこで、中央幹部の「文殊の知恵(collective wisdom)」と「啓示」による解決を期待し、彼らに集まってもらいたいとヒーバー・J・グラント大管長へ手紙を出し、了承された。

1922年の1月4日から5日にかけて行われた中央幹部とのミーティングでロバーツ長老より提示されたのが、「Book of Mormon Difficulties: A Study」である。タルメージ長老は、日記でその時のことに触れ、「モルモン書にリーハイの一行がこの大陸に到着した時に馬を発見したと書いてあるのなら、当時、馬は存在していたのである」と書いている。

ロバーツ長老は、そのミーティングでの出来事等を、死の直前になって、伝道部長時代に彼の下で働いた帰還宣教師、ウェズレイ・P・ロイドに話している。要旨はこうである。ロバーツ長老のプレゼンテーションを受けた使徒たちは、合理的な反論をする代わりに、一人一人立ち上がってモルモン書が真実のものであるという証をした。ジョージ・A・スミス長老にいたっては、モルモン書への自分の信仰は、提示された5つも質問を受けても揺るぐことはない、と涙を流して証をした。しかし、明らかに動揺していた使徒も数名いたようである。満足のいく説明を受けることがなかったロバーツ長老は、使徒たちを非難することはなかったが、神からの絶えざる啓示が与えられると主張する教会が危機にあり、今こそ啓示が必要なのだと述べた。彼は数日後の手紙で、失望の意をグラント大管長に表明している。ロバーツ長老はさらに、モルモン書には「5つの質問」以外にも留意すべき問題がある、と発言したが、リチャード・R・ライマン長老(使徒)は、それは教会の評判を高める役に立つかと尋ね、いいえ、と答えると、ではなぜ討議する必要があるのか、と述べた。歴史の真実を熱心に追究しようとするロバーツ長老にとって、これは我慢の限界を超えていた。このミーティングの結果、ロバーツ長老やタルメージ長老らをメンバーとした委員会を組織してさらに検討するということになった。しかし委員会のメンバーはどうしたらよいか、名案は浮かばなかった。ロバーツ長老は、何とかライター青年への回答書を用意してはみたが、「深く考えない人を満足させることはできても、深く考える人にとっては極めて不適切なものであるit was an answer that would satisfy people that didn't think, but a very inadequate answer to a thinking man)」としている。委員会としては、とりあえず、この回答書を全員一致で承認した。回答書の要旨は以下のとおりであった。

<言語について>

言語に関する質問は、言語が変化していくのにどれだけの期間を要するかという問題である。口語は文語よりも早く変化していくものである。モルモン書に登場するミュレクの民の言葉が200から250年の間に変化して、ニーファイ人とは互いに通じなくなったことはその好例である。(注:賢明なる読者はモルモン書の民を引き合いに出して回答するのは妥当ではないことにお気づきだろう。)言語が変化するのに要する期間についての一致した見解はない。部族の交流や移民の流入などにより言語に変化が生じ、ある民族を10年ぶりに再訪問した宣教師は言語が全く変わってしまっていたということもあるという説や、文明レベルの低い民族の言語の変化は速く、数百年で全く異なったものとなる可能性もあるという説もある。しかし後者の説を唱えている者は、文明の発達した民族の言語では、俗語以外が大きく変わることはないともしている。アメリカ・インディアンの野蛮な状態から考えて、彼らの言語が急速に変化したということは考えられる。また、ニーファイ人が絶滅してからコロンブスの新大陸発見までの間に世界中のさまざまな地域から移民が流入し、言語に変化が生じたということも充分考えられる。さらに、モルモン書の時代であっても、モルモン書の民以外の民が存在していなかったということは言えず、彼らの言語が現在のアメリカ・インディアンの言語のルーツとなっていることも考えられる。(注:モルモン書の民がアメリカ大陸のごく限られた地域の民であった、というのは、教会側がよく用いる反論である。この反論は詳細に検討していくと、かなり辻褄が合わないということがわかる。別途論じたい。)

<馬・鋼鉄について>

ロバーツ長老の著書「New Witness for God」で触れられているので、それを参照されたい。(注:ロバーツ長老は後に自身でその著書の誤りを認めている。)

<三日月刀について>

三日月刀という語は、ジョセフ・スミスが訳語を決める際に、ニーファイ人の用いていた特定の種類の剣についてあてはめられたと考えられる。イスラム世界に知られる三日月刀とは異なるもののはずである。

<絹について>

絹の起源は非常に古く、紀元前2640年の中国にまでさかのぼり、ジェレド人にも知られていても不思議ではない。(注:しかしこの立場をとると、バベルの塔の歴史的真実性を否定しなければならないだろう。モルモン教会は旧約聖書の記述は文字通りに歴史的真実だという立場をとっている。)ヘブル人にも当然知られていたことは、聖書の記述からも明らかである。アメリカ・インディアンの間で絹が発見されていないが、繊維というものの性質上、長期間の保存に耐えなくとも不思議ではない。また、絹織物の文化がニーファイ人の絶滅により失われたとも考えられる。アメリカ・インディアンの織物技術が優れていることはわかっており、絹織物を生産する技術は充分持っていたはずである。

中央幹部とのミーティングから数ヶ月後、ロバーツ長老は東部諸州伝道部の伝道部長としてニューヨークに赴任する。彼は、どこでも好きな伝道部の伝道部長となるか、教会所有の新聞「デゼレト・ニュース」の編集長となるか、どちらかを選ぶように言われた。教会からのこの申し出は、彼の研究と無関係ではないであろう。彼は即座に東部諸州伝道部を選んだ。彼は、モルモン書の研究に関する一連の出来事から、ユタ州の環境に嫌気がさし、また、教会発祥の地であるニューヨークでさらに教会の起源についての調査を行いたいという思いがあったのである。実際、彼は教会の起源についてさまざまな調査を行い、その成果が「A Parallel」や「A Book of Mormon Study」となるのである。

伝道部長としてのロバーツ長老は、モルモン書を徹底的に擁護し、疑惑を抱いていたとは思えないほど立派に責任を果たして任期を終えている

A Book of Mormon Study」は1927年、グラント大管長宛に提出されたものと考えられているが、今一つはっきりしていない。というのは、大管長がそれにどのように対応したのかという記録が見つからないのである。その中で彼は、「View of the Hebrews」がモルモン書の下敷きとなっているという論を展開しており、一方、内容的な誤りや、19世紀当時の時代背景や宗教観が如実に反映されているなど、ジョセフ・スミスの創作であることを認めている。

ロバーツ長老の生涯の最後の6年間は、公には教会の擁護者としての立場を取り続けている。1929年4月の説教では、モルモン書による改宗には失敗しても、「教義と聖約」(注:教会の聖典の一つ)を用いて改宗に成功した、という話をしている。1932年には、ジョセフ・スミスが真の予言者であるということを表明する熱烈な説教をしている。また、1933年4月には、モルモン書がこの世で最も貴重な書物である、と証している。

ロバーツ長老は、理性的な議論によりモルモン書を擁護しようとし、結果的には失敗したと言えるだろう。教会に対して彼と同じようなアプローチをとって信仰を失った著名な教会員は他にも存在する。(注:別途ご紹介したい。)このことはむしろ、教会にとっては好都合となっていると思われる。人の知恵や学問に頼り信仰や証に頼らない者はサタンの罠に落ちるという論理を展開できるし、そのことにより、教会員が学問的・客観的な研究に取り組まないよう牽制することもできるからである。

なぜロバーツ長老が教会を去らなかったのかということについては、今となっては彼の本心を知るよしもない。ロバーツ長老は、モルモン書がジョセフ・スミスの創作だったとしても、ジョセフが真の予言者であることに変わりないという考えを持っていたのかも知れない。彼がアブラハム書に関する事実を知っていたら、状況は変わったかも知れない。また、今までの彼の立場や体面、教会を去ることによりもたらされる親族への影響等などへの配慮もあったのかも知れない。いずれにしろ、推測の域を出ない。ただ、私のように、実際に教会を脱会するという経験を持てばわかるが、背教者には周囲から有形無形の圧力がかけられ、非常に不愉快な思いをするものである。比較的教会がリベラルになっていると思われる現在でさえそうなのだから、ロバーツ長老の時代に教会を去るということは、大変なことであっただろうことは、想像に難くない。こんな思いをするなら、ロバーツ長老のように、隠れ背教者でいればよかったとさえ思ったものだ。その意味で、彼は彼なりに賢明な選択をしたのだろう。


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