教会歴史研究家に対する迫害


ブリガム・ヤング大学のルイス・C・ミグレイ教授は、西部史協会(Western History Association)に提出した論文で教会歴史研究家による著作「New Mormon History」を公に批判している。

モルモン史研究者の興味を特にひいたのは、ルイス・C・ミグレイが「モルモン歴史研究家批判−信仰と歴史の問題」と題する論文を提出したセッションである。ミグレイ氏はブリガム・ヤング大学の行政学部教授であり、「New Mormon History」の研究手法を攻撃する長大な論文を執筆している。・・・彼は最近のモルモン史研究者による著作のほとんどを「モルモンによる新たな弁解(New Mormon Apology)」と称し、「最近のモルモン史の少なくともいくつかの記述の背景となっているのは重要な事柄について性急かつ不要な解釈である。・・・彼は特に何人かのモルモン歴史研究家が伝統的なモルモンの信仰基盤を揺るがしていると非難した。・・・彼は何人かのモルモン歴史研究家が「中立」の立場、すなわちジョセフ・スミスが予言者であるか詐欺師であるかということの中間的な立場をとっていることを指摘した。ミグレイに言わせると、もしジョセフが予言者だという立場をとらないのであれば、それはすなわちその反対の立場をとることである。中立の立場というものがあり得ないというだけでなく、信仰を明確に意思表示しないか「客観的」な立場をとることは、すなわち不信者の側に立つことなのである。("Sunstone Review", Vol.1, No.3)

教会歴史研究家に対する攻撃は、さらに1981年8月22日に使徒ボイド・K・パッカーによりもたらされた。彼は「歴史研究にあたって霊の事柄をないがしろにしている」と発言して教会歴史研究家を批判した("Seventh East Press", Oct. 6, 1981)。パッカー長老はさらに「ブリガム・ヤング大学紀要(Brigham Young University Studies)」の1981年夏号でその立場を明確にし、教会歴史研究家に警告している。

私のみたところ、教会員の多くが教会とその教義、組織、指導者を、過去から現在にわたって、自分の専門分野のやり方で判断しようと多くの時間を費やして学問的な研究を行い始めているようである。・・・しかし私の考えでは、それはやり方が反対なのである。・・・セミナリー(青少年向けの宗教教育講座)の教師、インスティチュート(大学生向けの宗教教育講座)の教師、ブリガム・ヤング大学職員であるみなさんは、今年度教会歴史を教えることになるだろう。みなさんの生徒たちにとって、この御業の神聖さに対する信仰と証を強めるかけがえのない機会となるのである。みなさんが教える目的は、彼らが教会の始まりから現在に至るまで、あらゆる時にわたって教会を導いた主の御手を見出すこととすべきなのである。・・・御霊を無視して教会の正確なあるいは客観的な歴史などというものはあり得ない。・・・教会歴史は大変興味深く、信仰を築く上でこの上もなく強力に霊感を与えてくれるものである。しかしもし不適切に記述され、あるいは教えられると、信仰を破壊することにもなりかねない。・・・教会歴史の記述者や教師は、その内容がふさわしいか、あるいは信仰を鼓舞するかどうかに関わらず、すべてを語りたいという誘惑にかられるものである。しかし真実であっても有益ではないというものもあるのだ。歴史家は何か新しい発見、特に歴史上の人物の弱点や失敗を発表することに誇りを持っているようである。もしすべての事柄を伝えなければならないという極端な信念を持っているとするならば、それは自分自身の判断基準のみに従っていることになる。・・・しばらく前に、ある歴史家が大学生対象に過去の教会大管長について講義をしたことがある。その目的は、大管長も人間であり、人の過ちは犯すものだということを示したかったようである。彼は大管長のいわゆる事実というものを、特に時代背景を無視して、あまり好ましくない形で話したのである。・・・たとえ事実であったとしても、性急に、またはタイミングをわきまえずに教えることは、学習に伴うべき喜びをもたらさず、むしろ悲しみや心痛をもたらしてしまう。(注:従軍慰安婦問題が思い起こされる)・・・聖典はわれわれに、肉を与える前にミルクを与えよ、と教えている。(注:「肉」の教義と「ミルク」の教義を区別するのはカルトの常套手段である)主は、ある事柄については選択して教えるべきであり、ある事柄についてはふさわしい者にだけ教えよと明言しておられる。何を教えるべきかだけでなく、いつ教えるべきかということは極めて重要である。教えることにより信仰を築くのであって、信仰を破壊するのではないということに注意していただきたい。ウィリアム・E・ベレット長老は自分が歴史家の著作物にあるいわゆる事実というものに接する前に教会の過去の指導者達が神の予言者であるという強い証を心に築いていたことについての感謝の念を表している。(注:私自身については逆であったらよかったのにと後悔している)・・・先述の歴史家が大管長の名声について行ったことは、価値のないことである。彼は予言者が人間であるということを説得しようと努めたようである。そのことはわれわれも既に承知している。すべての予言者・使徒は人間なのである。彼らが人間であるということと同様に、予言者なのであるということをわれわれに確信させたなら、もっと価値があっただろう。彼は予言者に対する思いから何かを取り去り、信仰を破壊したのである。・・・過去の指導者の弱点や失敗を指摘することを喜ぶ歴史家や学者は信仰を破壊する。信仰の破壊者、特に教会内部の、会員の信仰を増すために雇われている立場の者は、霊的な滅びへの道へと自らを導いているのである。彼らは仕えるべき主人を間違えており、悔い改めなければ永遠にわたって信者の群れに入ることはできない。・・・客観的で公平で学問的であろうという努力にあたっては、敵についても同様に時間を費やすということは賢いことではない。・・・教会では、われわれは中立ではないのである。われわれは片方の味方なのである。戦争が行われており、われわれは戦争の当事者なのである。それは善と悪の戦争であり、われわれは善を守る戦争当事者なのである。したがって、われわれはイエス・キリストの福音に示されている全てを守る側に立つべきであり、そのようにする誓約を交わしているのである。・・・私は神の教会、地上の神の王国に守られ祝福されるという誓約の下にありながらそれを守らない人々に対する主の忍耐にも限界があるということを、真剣にお伝えしたい。・・・聖典にも教会出版物も、われわれが敵との戦いの最中であることを確信させている。教会も教会員も、敵とのこの戦いに譲歩するいわれはないのである。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は、敵に自分のすべての知性を使わせるとしたら、それは愚かな将軍である、と指摘している。われわれの持つ史料を引用し、歪曲し、われわれを攻撃するために使う人々に譲歩する必要はないのである。例えば優良企業が別の会社に買収されそうになった時のことを考えてみるとよい。その買収の目的が全資産を吸い上げて解散させることであったと考えてみるとよい。その企業は自分達を守るために弁護士を雇うだろう。そのような場合、雇った弁護士が、その企業を守る契約をしているにも関わらず、中立の立場をとることが考えられるだろうか。弁護士が、自分が守るべき企業の資料を入手して、敵の企業に渡してしまったとしたらどうだろうか。彼の法律事務所はその不誠実な行動の責任を追及され、危機に陥ることだろう。倫理や誠実、道徳ということについて、みなさんはどうお考えだろうか。(注:ずいぶんとこの世的なたとえである)みなさんは私が意味しているところを理解されていることだろう。教会に雇われているみなさんには、信仰を破壊するのではなく、信仰を築く特別な責任がある。(注:真理を追究することより教会に対する忠誠を求めているのである)もしみなさんがその責任を果たさなければ、そして信仰の破壊者である敵に譲歩するようなことがあれば、みなさんは自分が誓約した大義に対する反逆者となるのである。(注:その前に誓約した大義とやらが真実であるかを問うべきだろう)・・・史料を盗み出し、それを売買する連中からは、利益も真理ももたらされることはないということを確信してよい。立ち入りを制限された記録保管庫に忍び込んでコピーをとり、盗み出し、また発表されていない事実を探り出そうとする輩は、今日われわれの中にもいる。このようにして、金や利益のために史料を出版したり、自分の利己心を満足させようとするのである。・・・信仰を破壊しようという意図を持った組織に、私は所属するつもりはないし、出版のために献金するつもりもない。この世の中にはすべてのこの世の真実というものを探し出そうとする学者が大勢いる。それと比較して、霊的な真理を伝え、教会を守ろうと日夜努力しているわれわれのような存在は少ない。われわれは中立の立場に安住することはできないのである。ウィッツォー長老は、何年も前に、教会の若人の能力向上のためにディベートを主催したMIA(相互発達協会:教会の若人の組織)の愚かな教師について語ったことがある。彼は「ジョセフ・スミスは神の予言者であったか」というテーマを選び、不幸なことに否定側が勝ってしまったのである。肯定側に立った若人は否定側より賢くなく、議論の準備も不十分だったのである。ディベートが終わってからも、ジョセフ・スミスが予言者であるという事実は何人かの参加者を信仰の破壊から守ることはできなかった。それ以降、彼らはジョセフ・スミスが予言者でなかったかのような、そして彼が設立した教会と彼が回復した福音が真実でないかのような生活を送るようになってしまったのだ。・・・最後の警告として申し上げたいのは、既に出版され、別の情報源から入手できるのだから、それらを用いて書いたり話したり教えたりすることは差し支えないという考え方についてである。そこには誤りがある。・・・それらの情報が流布されていることについて、みなさんはまだ注意が不足している。まだそのような高度な歴史的事実に接するには未熟な者たちが目にする可能性があり、芽生えたばかりの段階の証は潰れてしまうかも知れないのだ。数年前、エズラ・タフト・ベンソン長老はみなさんにこう話している。「何人かの教師、特に大学教育の教師は、よく知られている背教者の著作物を、彼らの見解を知り、情報収集するために購入しているとを聞いている。・・・みなさんは、彼らの著作物や定期刊行物を購読することは、彼らの運動を助けているのだということをよく認識すべきである。彼らの著作物が、セミナリーやインスティチュートや個人の書棚に見られることのないようにしていただきたい。われわれはみなさんが生徒達に対して、教会から道をはずさせようという者の見解ではなく、主と大管長会を代表して接していただいていると信頼している。」私もみなさんへのこの健全な勧告を支持している。忘れないでいただきたい。厳しい教会批判をする背教者に出会ったら、彼らが光を失っているだけでなく、闇に支配されていることを見るだろう。決して病原菌を撒き散らしてはならない!("Brigham Young University Studies", Summer 1981)

パッカー長老のこの言葉は、モルモンの学者D・マイケル・クインにとっては宣戦布告であった。クイン博士は感情的な言葉でパッカー長老、ミグレイ教授、ベンソン長老といった大管長に次ぐ地位の教会指導者に反論した。

モルモン教会の使徒、エズラ・タフト・ベンソン長老とボイド・K・パッカー長老は、偶像崇拝に近い形で教会歴史を見ている、とブリガム・ヤング大学歴史学助教授D・マイケル・クイン氏は同大学の学生歴史協会での講演で主張した。「モルモン教会歴史研究者であることについて」と題する講演で、エール大学の歴史学博士号を取得しているクイン氏は、ベンソン長老、パッカー長老、ブリガム・ヤング大学ルイス・ミグレイ政治学教授によるモルモン教会歴史研究者に対する批判に応えた。あくまでも自分自身に関してとことわった上でクイン氏は・・・自分が15歳になるまでには旧約聖書以外の標準聖典をすべて読破したと説明し・・・また自分がモルモン教会の歴史研究に携わるようになった経緯と、祈りの気持ちをもって歴史研究と著作を続けていることを述べた。パッカー長老が、かつて出版されたからと言って再版するとは限らないと警告したことについて、クイン氏は、かつて教会幹部が信仰を鼓舞し、「子供と新会員のために適切」だと判断して出版を承認した書物を再版した個人を教会幹部が批判することは「奇妙な状況」と評している。クイン氏は、モルモン教会歴史研究者がパッカー長老の言うところの「ふさわしくなく、宗教教育上芳しくなく、衝撃的」な事柄を避けて通ることは、正直さと専門家としての誠実さに欠ける行為であり、「教会の大義への背信」だと語り、さらに教会とその歴史研究者は正当な批判に正々堂々と対処すべきだと述べた。クイン氏はまた、ベンソン長老による、教会歴史と啓示が与えられた背景の「状況説明」に対する勧告についても論じ、宗教的でない史実についてそのような背景を無視することは、「良くても不適切、悪ければ不正直」であると述べた。クイン氏はベンソン長老の、状況的背景をもってジョセフ・スミスへの啓示を否定することが不適切だという意見には同意している。にも関わらず、クイン氏は「啓示は予言者が神に尋ねる特定の質問に対して与えられ、その質問は予言者の経験する諸状況から出される」のだから、状況の影響は重要だとも論じている。教会の正確な歴史はそこに働く御霊の力を考慮して述べられなければならないというパッカー長老の考えについて、クイン氏は、有能な歴史家は教会員であるなしに関わらず、指導者の予言を抜きにしてはモルモン教会の歴史を論じることはできないのだから、パッカー長老が「存在しない敵」をつくり上げていると語った。・・・パッカー長老の、歴史研究者が「あらゆる時にわたって教会を導いた主の御手を見出す」べきだという発言についてクイン氏は、そのようなアプローチは「予言者の公式な言動はすべて神の意志である」とみなすことであるという考えを示し、「教皇が無誤謬だとするローマ・カトリック教会のモルモン版」だと述べた。クイン氏によると、そのような無誤謬の教義は、自由意志の原則を否定するものであり、予言者は予言者として行動している時のみ予言者であるというジョセフ・スミスの言葉に反するものである。予言者達の重要な発言にみられる誤りや不足な点を無視することは、クイン氏の考えでは、彼らの示現や予言や証を無視するのと同じくらい誤りである。クイン氏はさらに続けて、予言者の人間的側面を十分描かないことが神聖な歴史だということにはならない、なぜなら聖典に記されている歴史は「御霊の側面と神の指導者の業績」だけでなく、彼らの弱さをも描いているからである、と言っている。その例として、クイン氏は「酔っ払ったノアに対する扱い、ロトの近親相姦、モーセの傲慢さ、ヨナの優柔不断さ、ペテロとパウロの不仲、アルマの青年時代の非行、そして「教義と聖約」にみられる主のジョセフ・スミスに対する叱責」を挙げている。神聖な歴史が神の指導者を「人々が自分と同じような人間として理解できながらも、その予言者としての職に敬意を表することができる」存在として描いている一方で、ベンソン長老やパッカー長老はモルモンの指導者を「欠点がなく天使のような人格」に描いた歴史を望んでいる、とクイン氏は強調した。そのような「教会指導者が現人神であるかのような」歴史は「偶像崇拝に近い」と言うのである。パッカー長老の、モルモン歴史研究者が「高度な(信仰を要する)情報を提示する前に基本を提示すべきこと」を無視しているという非難に対してクイン氏は、パッカー長老が実際に行っていることは「歴史的事実を徐々に公開していくのではなく、その可能性をも排除する」ことだと主張している。「ミルクだけでは子供を殺さないまでも、成長を阻害する」とクイン氏はみている。クイン氏はまた、パッカー長老が反モルモンに利用されるような情報をすべて否定する教会歴史とすべきだと主張しているとを非難している。「この判断基準を用いるならば、旧約聖書のほとんど、ヨハネによる福音書、そしてパウロの手紙の多くは聖書に収録されていてはいけないことになる」とクイン氏は述べている。クイン氏は信仰の破壊者とのレッテルを貼られたことについて目に涙を浮かべて失望の意を表し、神聖な歴史にならった手法と考え方で研究を続けると語った。("The Seventh East Press", November 18, 1981)

マイケル・D・クイン博士は後日、教会を破門になっている。

 

参考文献:"Mormonism - Shadow or Reality?" by Jerald and Sandra Tanner


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