モルモン教会の教義が抱える

構造的問題点


モルモン教会の起源に関する歴史的事実は、決して教会が主張しているようなものではないが、一つの宗教として、人々を幸福にすることに確かに貢献するというのであれば、存在価値があると言えよう。しかし残念ながら、モルモン教会の教義は、必ずしもそこに集う会員を幸福にするわけではない。むしろ、その教えに忠実であろうとすればするほど、自分を不幸にし、周りの人々を不幸にしてしまう危険性がある。
モルモン教会は、神の認めるこの世で唯一真の教会である・・・。教会の起源等に関わる教会の主張を真に受ければ、当然このように信じることになる。しかし、このことが実は、教会の最大の問題点なのである。

<多様性を認めない幸福観>

モルモン教会では、ほかのあらゆる組織と同様にさまざまな問題が起きているが、人間関係のトラブルは多い。指導者の言葉が会員の心を傷つけ、教会に来なくなってしまう、ということがよくある。私の知っている事例では、ある教会員が仕事で忙しく、教会での奉仕があまりできないことについて、指導者が、仕事を変わるように言ったことをきっかけに教会がいやになり、しばらくして集うのをやめてしまった。彼にとってその仕事は人生の極めて重要な部分を占めていたのである。また、什分の一(教会に納める献金)を完全に納めていないことを指導者から指摘され、教会に集わなくなってしまった会員もいる。指導者からすれば、それらのことは、教会員としての義務であると共に、彼らを救いに導くために必要な指導でもあったのである。教会員からすれば、教会が自分に求めることに応えることができないのだから、後ろめたい思いを持ちながら教会には行きたくない。指導者の接し方の良し悪しはあるだろうが、どちらが悪いということが言えるのだろうか。指導者には指導者としての責任があり、教会員には自由意志があるのだ。しかしモルモン教会では、これでは済まない。なぜなら、教会で奉仕したり、献金を納めたりしなければ、救い(昇栄)を得ることができないと真面目に信じているからである。
かくして指導者は、自分の囲いの羊(教会員)を失いつつあることを深刻に考え出す。自分の接し方が悪かったのではないか、と悩み、時には「心ある」会員から、彼が教会に来ないのはあなたのせいだ、などと言われる。そして指導者の集会でこの問題が検討され、誰かがその教会員宅を訪問することとなる。ついでに彼が献金を納めていないことが半ば公になり、ますます罰が悪くなってしまう。訪問される教会員はと言えば、その度に後ろめたい気持ちを思い起こしてしまう。だからと言って、教会を全く辞めてしまうこともできない。彼も、教会が神の真の教会であると信じる気持ちがあるから、もし辞めてしまったら大罪を犯すこととなるのではないか、と恐れているからである。彼が教会に集うようになればめでたし、めでたし、というところだが、しばらくしてそうならなければ、訪問もされなくなり、「不活発会員」リストに入ることとなる。指導者は時折そのリストを眺めてはため息をつき、不活発教会員は、胸に痛みを感じながら生活を続けていくこととなるのである。私に言わせれば、それは不必要な罪悪感だ。むしろ幸福な人生を送るためには有害だろう。もちろん、指導者の努力により、その教会員が教会に集うようになって解決することもあるが、今度は別の教会員に同じような問題が起こる。

このような問題は、何が何でも教会員として忠実な生活をすること、あるいはさせることこそが真の幸福なのだ、という考え方が染み付いているから起きる。人にはそれぞれの幸福のあり方があるはずだ。モルモン教会で幸福を見出せる人もいれば、見出せない人もいる。見出せない人に対しては、「残念だけど、この教会はあなたには合わないみたいだね。この教会に集うことだけが幸福になる方法じゃないんだから、気にすることないよ」とでも言うべきだろう。しかし画一的な幸福観以外を絶対に認めないのがモルモン教会なのだ。そして、その考え方の根本は、最高の幸福を得る方法はこの教会にしかないという「神の唯一真の教会」教義にある。彼らは教会を去る者にこう言う。「あなたのこれからの幸福を心から祈っています」と。しかし本心は、「あなたはこのままでは絶対に真の幸福を手に入れることはできない、かわいそうに(あるいは、来世でほえづらかくなよ)」と思っているのだ。

<最も大切なもの>

教会員の究極な目標は、「永遠の生命」を得ること(=昇栄)、すなわち神の教えに忠実な生活をし、自ら神のようになり、天において家族と共に永遠に暮らすことである。したがってモルモン教会の目標も、一人でも多くの人々にこの祝福を受けさせることである。ではどうすれば「永遠の生命」を受けることができるのだろうか。
モルモン教会の教義によれば、神殿で儀式を受けることが「永遠の生命」を受ける最低限の条件である。神殿で儀式を受けるためには、指導者からの面接を受け、自らがふさわしいということを認めてもらい、神殿推薦状なる書面を交付されなければならない。面接で尋ねられる質問は定型的に定められており、イエス・キリストの福音に対する証(確信)があるかどうか、福音に沿った生活をしているか、智恵の言葉(酒、タバコ、コーヒー、茶などを摂取しないこと)や純潔の律法(法律で認められた配偶者以外と性交渉を持たないこと)といった戒めを守っているか、といったことである。私も監督として奉仕していた時は、何人もの教会員と面接を行なったものである。面接では、イエス・キリストの福音に対する証云々が問題になることはほとんどない。本人の心の中のことであり、判断基準もあいまいで、どうとでも答えることができるからである。問題は、戒め(智恵の言葉のような、外形的な戒め)を守っているかどうかである。これは、かなり明確な基準である。したがって、面接の重点はここに置かれることとなり、指導者としては、教会員に神殿での儀式を受けさせるために、いかに戒めを守らせるか、ということになる。教会員も、一生懸命に戒めを守ることに躍起になる。その結果、イエス・キリストの贖いへの感謝や、隣人を愛するといった、クリスチャンとして最も大切なことへ心が向かなくなってしまうのだ。
教会の集会では、外形的な戒めよりも、隣人を愛するといったことの方が重要だ、と指導者は教えている。神殿で儀式を受けるためには、外形的な戒めを守ることが最も重要だ、などとは教えていない。しかし、仕組みがそうなっていないのだから、口先でいくら言ったところで空しいだけである。この仕組みでは、教会員が、愛よりも戒めを重視してしまうような考え方を抱くようになっても、責めることはできないはずだ。しかし教会側は、そのような考え方は誤りだ、としている。教会員に責任があるのではなく、誤りの考え方を抱くようにミスリードしている構造的問題があるのだ。

アナホリ参考過去ログ:教会と戒め教会の構造的問題教会員は幸福か?辞めるに辞められない


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