教会を批判する会員に対する教会の態度


1996年1月21日にテンプルスクウェアのタバナクルで開かれた、ソルトレークバレー地区のインスティテュートの合同ファイヤサイドでのゴードン・B・ヒンクレー大管長の説教が、「真理を守り」というタイトルで「聖徒の道」1996年9月号に「大管長会メッセージ」として掲載されている。教会に対して批判的な態度をとる者について、教会がどのような立場をとっているかを示す具体例として興味深いと言える。以下に説教の一部を引用し、コメントさせていただく。(説教の全容については、お手元の「聖徒の道」をご覧いただきたい)

さて、これまで末日聖徒としての成長を妨げる事柄について話してきましたが、もう一つ話したいことがあります。それは、教会に対する批判的な態度についてです。皆さんは聡明で、有能で、教養のある若い男女です。皆さんはあらゆる疑問についてよく分析をして考えるように、また充分に調べて様々な角度から検討を加えるように教えられてきました。それはよいことです。でも、そうするときに、教会や教会の指導者の欠点を探そうとするのはやめましょう。研究をするときには、バランスを保ってください

<コメント>一部の反モルモンのプロパガンダには、確かにバランスを欠いたものや、指導者の人間としてのささいな欠点を誇張したものがみられることは事実である。しかし、最もバランスを欠いた態度をとっているのは教会自身であり、この説教自体がその一例である。(もっとも、この説教の性格から言って、それを求めるのは酷というものだろう。)教会は常に、教会が神の真の教会であるという大前提に立って、すべての批判を論破しようという態度をとっており、「バランスを保って」「様々な角度から検討を加える」という態度は全く見られない

少数ですが、教会のことを、またわたしのことを心の底から嫌っている人がいます。そうするのはその人たちの勝手です。でも、わたしは彼らに対して何の憎しみも抱いていません。ただ、悲しく思うだけです。結果がどうなるか分かっているからです。

<コメント>教会は批判者に「何の憎しみも抱いて」いないかも知れないが、そのような人々を破門してきたことは事実である。破門をするのは教会の勝手だが、教会のそのような態度について、私は悲しく思う。なぜなら、私は教会が間違っていることが「分かっている」からである。

(背教的な書物の著者と関わった経験について)彼が生きている間、その著書は大勢の人に読まれ、読者たちは彼の背教的な考えをほかの人々に広めました。また、たくさんの人が読んで、特定の中央幹部への彼の非難を受け入れました。彼の背教的な考えや中央幹部への批判はどちらも誤りでしたが、彼の本を真実のものとして受け入れた人々が実際に存在したのです。

<コメント>どの著書について言っているのかが特定されていないので読者は判断しようがないのだが、「彼の背教的な考えや中央幹部への批判はどちらも誤りでした」と一方的に決めつけてしまうのは極めてアンフェアだろう。例えば「未知なる世界」で指摘した事項を「誤り」と決めつけることが、どうしてできるのだろうか?教会が真実であることを否定するものはすべて「誤り」である、なぜなら教会は真実だからである、という論理以外では説明不可能である。

やがて彼は教会から破門されましたが、それは彼の怒りを増しただけでした。自らの誤ちを認めるどころか、ますます怒りを募らせていきました。ところが、突然彼のことが話題に上らなくなりました。だれも彼に興味を示さなくなったのです。彼がこの世を去ってもう長い年月がたちました。もうだれも彼のことを覚えていません。

<コメント>背教者による教会批判については、時間の経過につれて教会員が興味を示さなくなるのは当然である。なぜなら、興味を示し、深く考えた者は、教会を去ってしまうからだ。かくして教会には、予言者の言葉を盲信する者だけが残るのである。十分な根拠のある教会批判は、何十年も経った現在でも、真実を追求する気持ちのある私のような教会員の心をとらえており、毎年数多くの者が教会を去るか、信仰を失っている。

今のわたしたちの中にも、このような人が多少います。過去にもいましたし、これからもいるでしょう。彼らは教会の落ち度を見つけるために、人生を無駄に過ごしています。教会の歴史を掘り起こし、否定的な断片をすべて集めます。また中央幹部の言葉を調べて、欠点を探そうとします。もしかしたら、今晩わたしが語ることについても、懐疑心をもって耳を傾けているかもしれません。そのようにして時間を無駄にしていることを残念に思います。わたしは彼らのことを考えるとき、彼らがそうした態度を改め、考えを変えて教会に戻るように、そしてその才能を王国の建設のために使うように説得できたらと思います。

<コメント>バランスを保って」研究すべきと言っておきながら、「否定的な断片」や「欠点を探」すことは「時間」の「無駄」だと言っているのだとすれば、合理的な議論はもはや不可能である。私に言わせれば、多大な犠牲を払って真実でない教会に奉仕することこそ、たいへんな「時間」の「無駄」であり、ベストを尽くして教会の真実性を確かめようとすることは有意義だと考えている。ただ、大管長が基本的には善良な人物であることは、私も確信しているし、後半部分の呼びかけも、彼の真摯な気持ちから出たものであることを疑ってはいない。物の考え方が偏っているだけのことなのだろう。


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