作者からみなさまへ


おかげさまで、1997年1月の初版「聖徒の未知ホームページ」を開設以来、満2年を経過いたしました(1999年1月1日現在)。以下は当時掲載していた自己紹介を一部「改変(^^;)」したものです。初心に返って改めて眺めてみますと、結構よく書けているものです。掲載を復活して、みなさまへのメッセージとさせていただきます。

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私は若い頃に教会に加入し、長年にわたって教会のために奉仕をしてきました。監督というかなり重要な責任を受けていたこともあります。教会の中で、いろいろな人との関わりがあったわけですが、次第に、この教会の仕組みは必ずしも会員を幸福に導かないという思いを募らせていくこととなりました。教会を知らなければ幸福だったはずなのに、教会に関わったおかげで悩みや苦しみを味わい、結果的には教会を去っていく教会員の姿をたくさん見ることとなったからです。しかしその段階では、この教会は神の真の教会であると信じ切っていたので、それも神のみこころであるのなら仕方がない、教会で幸福になれない人は、その人の考え方に問題があるからであって、教会が悪いのではない、と思っていました。また、教会の教えは完全であっても、教会員が不完全なため、そのような不幸なことが起こるのだ、と考えていました。

しかし、深く考えていくと、なぜこれほどまでに教会を去ってしまう人が多い(日本の教会員のうち、80%は全く教会に集っていないと思われる)のか、神はそれほどまでに厳しい御方なのか、イエス・キリストはこのような教会の状態を喜んでおられるのだろうか、という素直な疑問を抱くようになりました。教会員は、真の福音を知っている民として、世界で最も幸福な民であるはずなのに、実態は、教会の責任、安息日の遵守、伝道活動への参画、神殿参入、知恵の言葉の遵守、什分の一(献金)、良い親になること、社会の模範になること、日々聖典を学ぶこと、等々の有形無形のプレッシャーを受け、それらを完全に出来ていないことに対する罪悪感を抱きつつ生活しているのです。私自身について言えば、長年教会に集ってきたこともあって、それらのプレッシャーをうまくかわして前向きに生きる術を身につけていたのですが、教会の集会で、私たちはもっとこうすべきですああすべきです、といったことが繰り返し語られることに対して、もういいかげんにしてくれ、という思いを抱いてもいました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)というキリストの言葉との矛盾を感じました。それどころか、教会は会員に、重荷の上に重荷を載せ続けているのです。しかしその時点でも、この教会が神の教会であることを信じており、単に教会の運営の仕方がまずいのだ、すなわち人の過ちなのだ、と考えることにしていました。心の中にかすかな疑問を抱きつつも・・・。

インターネットの反モルモンのページの存在は知っていました。いくつか覗いては見たものの、それらはモルモンがいかに聖書の言葉を曲解しているかということを指摘しているもので、私は興味がわきませんでした。聖書の言葉はさまざまに解釈することができ、どの解釈が正しいかということは、合理的に論証することなど不可能だということがわかっていたからです。しかし、暇つぶしにそれらのページを覗いていたある日、「Recovery from Mormonism」というページに出会いました。そこにはさまざまな理由で教会を離れた人々の手記が数多く掲載されていました。それらはまさに、私がかすかに抱いていた疑問は、私だけのものではないということを教えてくれるものでした。そして、先に述べたような教会員の苦しみは、教会員個人の信仰の弱さから来るというよりも、教会の教義自体に構造的な問題点があるのだ、ということに気がついたのです。そして、そのような構造的な問題点を持つ教義が、慈愛に満ちたイエス・キリストの真の福音とは言えないのではないか、という思いを持つに至りました。

さらに反モルモンのページを詳しく調べていくと、私が長年信じ、受け入れて来た教会の起源に関する出来事(最初の示現とモルモン書の翻訳)が、偽りのものである可能性を示す様々な情報が記されていました。それらのほとんどは、長年教会に集っていたにも関わらず、私の目に触れることがなかったものでした。そして、驚いたことに、きわめて説得力のあるものでした。最初の示現やモルモン書ばかりではありません。アブラハムの書の起源も、神殿の儀式の起源(フリーメイソンの儀式の借用)も、多妻結婚の実態も、黒人への神権の問題も、教会が真実でないと考える十分な証拠と理解するしかありませんでした。教会で教えている「みたま」による証も、歴史的・客観的事実を前にしては一人よがりで虚しいものであり、むしろ「みたま」による証なるものは、単なる思い込みと主観、そして自分勝手な感情の高ぶりに過ぎないということも悟りました。

もちろん、教会側がどう反論しているかということも熱心に探しました。しかし、満足のいく説明は得られませんでした。たとえ反モルモンが攻撃する項目一つ一つについて、教会側が何とか弁解することができても、弁解しなければならない疑惑があまりにも多いとなると、教会が偽りであると考えなければどうしても理解できないではありませんか。(実際には、どうしても教会が弁解し切れない項目もいくつか残っている。)教会が真実でないことを示すさまざまな事実を発見したこともさることながら、それらの情報を今までまったく知らされていなかったということが、たいへん大きな衝撃でした。何としたことか、私は騙されていたのだ、という苦い思いと憤りで、いたたまれない思いにかられました。しかし一方で、教会の抱える構造的な問題を説明し得る唯一の解答(すなわちこの教会は人がつくった教会であるということ)を手にしたということでは、納得をすることができました。

しかし新たな問題が起きました。教会への信仰を失ったことによる「穴」を何かで埋めなければならないという問題です。人生の目的は何なのかがわからなければ、この先の人生を歩んでいく自信がありませんでした。まず他の教会へ集うことを考えました。しかし、いろいろ調べてみても、モルモン教会で信仰を育んだ私にとっては、他の教会はあまりにも違和感がありました。そこで私は原点に戻ること、すなわち新約聖書のイエスの言葉を自分なりに研究していくことにしました。そして、誰かから与えてもらうのではなく、皮肉にもジョセフ・スミスがしたように、神に直接祈ることにより、答えを得ようとしました。その結果、私は、イエスが言われたことを自分なりに解釈して、生活の糧とすることが私の幸福につながるということ、そして、人生の目的という人類共通の疑問への答えは、安直に得られるものでもないという結論に至りました。考えてみれば、私が教会に惹かれたのは、人生の目的を、「救いの計画」という教義により、明確な答えを提示してくれたからでした。私は安直な解答に飛びついてしまったのです。多くの若い人々がオウム真理教に入信したのも、そのためではないでしょうか?

私はおかげさまで、新しい人生を歩み始めることができるようになりました。回り道をしましたが、教会での経験のおかげで、人生やイエス・キリストの教えについて、深く考えることができたのだ、と前向きに考えるようにしています。教会は、私にとってサンタクロースのようなもので、私は良い子にしていれば、サンタクロースからきっとプレゼントがもらえると信じていました。しかし今や私は成長し、欲しい物は自分で働いて手に入れなくてはならないのだ、ということに気がついたのです。私は「聖徒の未知ホームページ」をきっかけに、みなさまが本来の自分を取り戻し、自分で働いてプレゼントを手にしようと決意されればと願っております。


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