「聖餐の水」の真実?


だれか答えて!

モルモン教会の聖餐会では何でぶどう酒じゃなくて水なんですか?

もちろん知恵の言葉って言うのがあってアルコールをやらないからですね。たしかモルモン経で、聖餐式の方法が書いてある所では‘ぶどう液’になってたと思うけど。

聖書では最後の晩餐のところでイエス様はぶどう酒をいただいていたと思う。ぶどう液って解釈するのは真実を歪めてませんか。

ミサの時のぶどう酒はとってもおいしいですよ。
どこの教派に行っても水で代用しているところはないでしょう
細かいキリスト教諸派については良く知りませんけど・・・

ミサでもぶどう酒省略ってとこは多いけど
かわりに水ってわびしくありませんか。



Name : まりあ てれさ Mail : koa@tke.att.ne.jp Time : (99年2月20日<土>00時03分)


re 誰か答えて!

 答えやすいものだけ、選んでレスするうさじーです。(~_~;)
>モルモン教会の聖餐会では何でぶどう酒じゃなくて水なんですか?
 同じ質問を、指導者にぶつけたことがあります。明確な返答は得ら
れませんでした。これが教会の解釈になるかと思います。

 私個人では、以下のように解釈しています。
まず、儀式は象徴的に行われると言うところがあります。象徴ですから
水でも良いというのが、私が質問したときの答えだったと思います。

 次に、聖餐会の準備をするのは主に青少年です。彼らに、葡萄酒と
いえど、アルコールを扱わせることは、国の法律に違反します。
建前では、末日聖徒は国の法律に従うことになっていますので、これを
破る行為はさけるべきでしょう。まことに人間的解決です。(~_~;)

 そして、聖餐を取ることは、ある意味で義務的なものがあり(一週
 間の罪を贖う事は、ぜひ行うよう勧められている。)この聖餐は、
老若男女みな等しくとります。この中には、当然、未成年もいる訳で
彼らが、アルコールを飲む事を(例え少量でも)義とはしない律法が
有ります。国の法律もこれを禁じています。(^_^;)

 その他、聖餐を受けようと集ってくる人は、大抵が車で来ます。
これらの人に、少量でもアルコールを出すと言うことは、立派に
国の法律に反する行為です。初期の教会では、葡萄酒を使ったと
聞いたことがありますが、アメリカの禁酒法時代や、現在の様々
な法的制限から、世の実状に合うように教義(儀式)を変更した
ものと私は考えています。(^_^;)
 聖書にある事項を様々な、人間的理由で、良いように解釈している
と思われる事実であります。(~_~;)
     うさじー

Name : usajii Mail : usajii@ba.mbn.or.jp Time : (99年2月20日<土>00時51分)


「聖餐の水」の真実?

まりあ てれさ さん wrote:
>モルモン教会の聖餐会では何でぶどう酒じゃなくて水なんですか?

これは1830年8月、ジョセフ・スミスが葡萄酒を手に入れようと出かけた際、天の使いよりに与えられたとされる啓示に基づいています。「教義と聖約」27:2です。

「見よ、わたしはあなたがたに言う。聖餐を受けるとき、あなたがたがわたしの栄光にひたする目を向けて、あなたがたのために葬られたわたしの体と、あなたがたの罪の赦しのために流されたわたしの血を父に記念して、それを受けるならば、あなたがたは何を食べ、何を飲んでも差し支えがない。それゆえ、わたしはあなたがたに戒めを与える。あなたがたは敵からぶどう酒も、強い飲み物も勝手はならない。それゆで、あなたがたは、地上に築き上げられるわたしの父のこの王国において、あなたがたの中で新たに造ったもののほかは、何も飲んではならない。」

「知恵の言葉」の啓示が下されたとされるのは1833年ですので、「知恵の言葉」とは関係がありません。

ジョセフ・フィールディング・スミス大管長はこの聖句について、以下のように解説しています。

「この天使はジョセフ・スミスに、聖餐に何を用いるべきかは問題ではない、また敵から葡萄酒または強い酒を買ってはならないと告げた。その理由は明らかである。予言者には多くの敵がいたからである。しかし、それには、単に敵から身を守るということ以上の意味がある。なぜなら、これらの物に不純物を混ぜようとする邪悪で腹黒い人々に対する警告でもあったからである。そして、ジョセフ・スミスは、聖徒が作った物でない限り葡萄酒を聖餐に用いてはならない、また用いる場合でも、作られて間もない新しい物にしなければならないとも戒められた。当時の初期の教会には、聖餐には水しか用いないという習慣はなかったが、このとき以来、葡萄酒に代わって水が用いられるようになった。」(インスティチュートのテキストより)

反モルモンの私は以下のように推測します。

「ジョセフ・スミスは何らかの事情があって、葡萄酒を入手することができなかった。しかし予言者ともあろう者が、葡萄酒一つ手に入れることができなかったと会員に言うわけにはいかない。聖餐式という神聖な儀式に使う葡萄酒なのだから、どんなことがあろうと、神は預言者を助けて入手させると会員は期待しているのである。そこでジョセフが思いついたのは、今までやってきたように、新たな啓示を発案し、会員の説得材料とすることである。ジョセフはワインが大好きであり、今後聖餐式の度に葡萄酒を飲むことができないというのは辛いことだったが、預言者としての権威を失墜させるよりは、はるかにましである。設立直後の教会であり、まだ財政基盤もできていない。経費も切り詰めていかなければならないのだ。・・・」

あくまでも推測ですよ(^_^;)。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~exmormon

Name : イタリアの赤ワインが好きなHANK@森 Mail : mori-hdk@shonan.ne.jp Time : (99年2月20日<土>02時21分)


re 誰か答えて!(やはり参考になる。)

 森さん、ありがとうございました。インスティチュートの説明では
納得いかなかったのですが(なんにでも疑問を持つ、わがままなうさ
 じーです。ほんとに疑り深いと思っています。(~_~;))

 象徴の意味が何となく分かってきました。たぶん、ごまかしなどが
入ったとは思っていましたが、掲示を発案という推測が面白いですね。
他の戒めなども、突然与えられたりするのに、その背景は、とても人
間的だったりする説明があるので、その当たりが教会員としては、納得
いかないところだったのです。勝手にその時代の背景を考えたりして、
無理に納得してきたところがあります。(~_~;)

 あ、でも、私も、もしかすると自分と同じ考えを持つ人を捜していた
だけなのだろうか??(~_~;) うさじー


Name : usajii Mail : usajii@ba.mbn.or.jp Time : (99年2月20日<土>05時21分)


聖餐について

モルモンがどのような経緯でぶどう酒を水に代えたかって事はおいといて、ぶどう酒であれ水であれ、儀式の向こうにはイエスと人との関係があるわけです。その関係をより密にするためであるば聖餐などの儀式は意味があるわけで、また、密にできる事であれば何を使ったって何をしたっていいわけです。ただ、恐いのは儀式がその趣旨を超えて神様と人との関係に「不可分」であるような錯覚を与え優位に立つことです。こうした儀式なしでは悔い改めは効力がないとか救いはないといった言い分ですね。
あるいは、こうした儀式には唯一無二の権能が必要でありその権能なしに行われたものには意味がないという主張ですね。
モルモンの問題はここにあると思います。
すっかり儀式やそれを執行する権威のあるものその権威を賦与する教会の方が重要になっているのです。それは設立の時点からモルモン教がジョセフが宗教ビジネスであったことから考えると当然なのですが・・・

それはそうと、てれささん!

わたしの昔の記憶なんですが、カソリックでは聖餐は自分が進み出て受けますよね。ということは、別に受けたくない人はじっとしてても良いんでしょうか?
また、受礼前の方も聖餐を受けれるんでしょうか?
いえ!ただ知りたいからお聞きしてるだけで他意はありません。
モルモンて聖餐のトレーを持って回ってきて、受けたくなくても人に回すのがなんか格好悪いみたいな雰囲気もありましたよね。もちろんバプテスマ前の方は受けても意味がないそうですが・・・「主の贖いが万人に及ぶ」という考えなら、パプテスマ前でも受けたって良いんじゃないかとも思うのですが・・・

聖餐のネタはいろいろわたしも持ってるんで続けます!

http://www3.osk.3web.ne.jp/~hidekio/

Name : るう Mail : hidekio@osk3.3web.ne.jp Time : (99年2月20日<土>22時08分)


聖餐?聖体拝領?

るうさん

>わたしの昔の記憶なんですが、カソリックでは聖餐は自分が進み出て受けますよね。ということは、別に受けたくない人はじっとしてても良いんでしょうか?
また、受礼前の方も聖餐を受けれるんでしょうか?

別にこの場を借りてカトリックの宣伝をするつもりは無いのになんだかカトリックのことばっかり書いてる気がする・・・

カトリックで洗礼を受けていない人はパン(ご聖体という)をいただくことはできません。
ちなみに、プロテスタントの人もいただけません。
聖餐に対する理解が異なるためです。

ミサの中で神父様が聖体を聖別する場面があります。
最後の晩餐のとき、イエス様が語られた言葉を口にしながら、
‘‘皆、これを受けて食べなさい、これはあなたがたのために渡される私の体である・・・これを私の記念として行いなさい・・・。’’と。

こうして聖別されたパンはもはやただのパンではない、パンの形、性質にに留まりながらパンの姿のうちにキリストが臨在しておられる、と信じられてます。

先の言葉の中にキリストがご自身を捧げていらっしゃる、パンの中にご自分の愛を込められたことを信じるためです。

これは人の認知を超える神秘なのでわかりにくいですね・・・

そのキリストの体である聖体をいただくことはキリストの精神との一致を表しています。キリストどんな時にもいっしょにいてくださるってことです。

今日、私は一日修道院にいました。
一日シスターたちとお祈りしましたが、その中で顕示されたご聖体の前で祈る(でかめのご聖体をガラスケースに入れてその前で祈ること)ことをしました。初めての経験でしたが良い体験でした。
自分の悩みをそこで表すとき不思議と、キリストがともに居られることを感じました。

プロテスタントでは聖餐は単なる象徴なので極端な話余ったパンは捨てても良いってことになります。

ミサに出ながら聖体をいただかないのはご馳走に招かれて、食事をいただかないようなもんです。余り好ましくないですよ。

でも聖体拝領の時は会衆との一致を感じるものです。
聖体を受けたくないって言う人はあまり聞かないですね・・・

Name : まりあ てれさ Mail : koa@tke.att.ne.jp Time : (99年2月21日<日>23時21分)


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