奇跡はどこから?


奇跡はどこから

to:やっくん

 奇跡って、信仰だけでおこせるの?LDSの教義では、人の信仰に神の意志が必要なはずだけど?
どこだったかな?教義と誓約に、信仰を持って祈り、それが正しい限りかなう、と書いてあったよう
に思う。
 カモメの奇跡の他に、ノーブー湿地帯での癒しの奇跡というのもあるが(これは『幸せの探求』に
も書いてあったと思う)。大神権者だけが奇跡を行うのではなく、信仰ある人が奇跡を発現できるの
だから、大きな奇跡は無くても、小さな奇跡はたくさんありますよ。さらに、「不信仰な時代はしる
しを求める」とも書いてある。モーセは不信仰なイスラエルの民を40年も導かなければならなかっ
たから、不信仰なものに信仰を起こさせるためにしるしが必要だった。信仰あるものの間では、信仰
を起こすためのしるしは必要なく、信仰によるしるしが現れるだけ、ではないでしょうか。小さなし
るしは、癒しの儀式や、あなたや私と違って教会に行くことに幸せを感じ、変わっていく人がいるの
で、そういうところに現れているのではないでしょうか。

Name : じった Time : (99年1月26日<火>16時27分)


ちょっと見方が違うって事です

じったへ

おっしゃるように、信仰プラス神の意志がなければ、
奇跡は起きないというこが教会でよく聞く話です。
しかし教義かどうかわからない(なんせ教義はコロコロ
変更されるものだから(^-^;)

で、問題なのは、
たとえば、一夫多妻のように、
神が実行するようにめいじた(はず)であり
なおかつ、教会員もやりたがっていたような事に
では、何故神は奇跡の力をもって
その教義を擁護するように、合衆国に働きかけられなかったのか?
という事ですね。

神の意志じゃなかったのか?
だったら、何故神様は最初から
実行不可能な戒めをあたえたのか?
神は実行可能な戒めしかあたえないって
ニーファイは証しているのにですよ(^-^;)

もしもイスラエルの民が約束の地につかなかった
ように、教会員側の信仰が足りなかったと
するなら、今も一夫多妻を行っていないわけ
なのですから、今もって教会員側に信仰がない
ということになりますよね。

じったはそのどちらだとおっしゃるのですか?

でもって、教会に奇跡があると感じるかどうかは
主観の問題って事になっちゃいますよね(^-^;)
となると、教会が神様の教会かどうかも
主観の問題って事になり、
主観の問題っていうのは真理ではないですよね。
教会がもしも信仰は主観の問題だというようになるならば
それはここの公式の宣言を受け入れたって事になるのでは
ないでしょうか?つまり唯一真ぢゃないと認めた事になる
のですから。
http://www.kis-net.ne.jp/user/yakkun

Name : やっくん Mail : yakkun@kis-net.ne.jp Time : (99年1月26日<火>16時51分)


奇跡に先駆ける信仰

 これって、書籍の名称だったような(^_^;)


to:やっくん

>じったはそのどちらだとおっしゃるのですか?

 教会員の信仰が足りない。事実、什分の一の律法は未だにあり、奉献の律法にあがっていないのですから。
ただ、神殿においては一夫多妻も奉献の律法も施行されているのです。つまり、妻と死別した夫は、亡妻との
永遠の結婚を破棄することなく新しい妻を永遠の妻として迎えることができます。しかし、夫と死別した妻
は、この世限りの婚姻しかできません。また、奉献の律法も、神殿の中において引き受けます。ということ
は、一夫多妻は実行可能な戒めで今も継続されており、奉献の律法も、実行可能な信仰を持った人たちの間で
実行されている、とも言えます。前に「行いに駆り立てる信仰」といったとおり、また、信仰がなければ戒め
は与えられないといったとおり、“自称”それらを実行可能な信仰を持った人たちによって、実行されている
のではないでしょうか。


>でもって、教会に奇跡があると感じるかどうかは
>主観の問題って事になっちゃいますよね(^-^;)

 意味がよくわかりません。やっくんお得意のはぐらかし(と私が思っている)のように感じるんですけ
ど(^_^;)
 で、奇跡があるかどうかを客観的に判断できるか、ということであるなら、それは無理でしょう。たとえ
ば、やっくんがまだ聖書“は”受け入れていると仮定して話を進めますが、イエスがこの世に来られ、奇跡
を行ったとき、パリサイ人は「あれはベルゼブブ(バールでしたか?)によってやっているのだ」といいま
したよね。それと同じことではないでしょうか。イエスは確かに奇跡を行いましたが、奇跡が真理であって
も、その奇跡を受け入れたくない人は「奇跡ではない」と言い張るでしょう。真理であっても、“その人に
とっては”、真理ではないでしょう。
 MLで、「テーブルの向こうにある塩を取ってもらうのも魔術だ」といったら、あなた反対したでしょ?
同じことじゃない?

Name : じった Time : (99年1月26日<火>17時24分)


奇跡に先駆ける信仰っていうのも都合がいいお話

何故ならば奇跡がなければ信仰が足りないっていって事を済ませられるから(^-^;)

じったへ>>

>MLで、「テーブルの向こうにある塩を取ってもらうのも魔術だ」といったら、あなた反対したでしょ?

いや、そんな記憶はないが(^-^;)?
きたねぇ…っていったかもしれないけど。
あるいは一般認知としてそれは魔術だとはいわないといったと思ったけど。
事実うちでは召還魔法を以後よく使うようになっているしぃ(^-^;)

>教会員の信仰が足りない。

ではね、その信仰が足りるとか足りないとは何ではかるのでしょうか?

いやいやそもそも信仰とは何なのですか?
まだ見ない本当の事を待ち望む事ですか?
とすると、信仰が足りるとか足りないっていうのは待ち望む度合いって事ですか?

それとも信仰とは行いですか?
私を愛するならば、わたしの戒めを守るはずだ。
とあるのだから、信仰とは戒めに対する忠実さでしょうか?
しかし、私の聞いた話では、ハワイあたりでは緑茶は健康茶だという
事で、ガンガン会員が飲んでいるそうですし、
コーヒーはホットでないアイスなら知恵の言葉にはむかっていないという
解釈をしてガンガン?のんでおられる神殿職員もおられるそうです。
彼等は信仰が足りない存在なのですか?

あるいはチョコレートにはカフェインが入っているから取らない
としたり、
神の命令だからと夜中にホームティーチングに来て騒いだりすること。
これは信仰が強い人ということでしょうか?

信仰とは理解でしょうか?
しかし、幼子のような信仰という言葉から見るに、ものごとを理解する
力がなくても信仰はあるらしい。
じゃぁ、信仰とはなんでしょうか?何が足りないから、奇跡はおこらないと
いうのでしょうか?

>しかし、夫と死別した妻
>は、この世限りの婚姻しかできません。

このあたりも怪しいものです。
現実にあたしはそうでないという見解も聞いています。
教会の教義のようなものは、常にころころかわりますし。
理解も変わります。
当然、各人の行動様式にも変わりが出てきます。

結果信仰をはかるなんて、ますますわからなくなります。

信仰がなければ戒めが与えられない?
古代イスラエルの民は信仰はなかったようですがしっかり
奇跡をもって守るべき戒めがあたえられたようですけど?

でもって、奇跡に先駆ける信仰?
その信仰の対象は何でもいいわけですか?
ああ、あなたの場合は何でもいい派でしたっけ(^-^;)

http://www.kis-net.ne.jp/user/yakkun

Name : やっくん Mail : yakkun@kis-net.ne.jp Time : (99年1月26日<火>22時06分)


奇跡は認知か?それもあるが、それだけでもないでしょ

>で、奇跡があるかどうかを客観的に判断できるか、ということであるなら、それは無理でしょう。たとえ
>ば、やっくんがまだ聖書“は”受け入れていると仮定して話を進めますが、イエスがこの世に来られ、奇跡
>を行ったとき、パリサイ人は「あれはベルゼブブ(バールでしたか?)によってやっているのだ」といいま
>したよね。それと同じことではないでしょうか。

違います。
パリサイ人たちは奇跡を認めているのです。
問題はその根源を神とは認めなかっただけにすぎません。
パロが魔術師たちにモーセと争わせたのも
パロはモーセにそのような奇跡の力があると感じたからです。
つまり本当の奇跡はその根源が何かはわからなくても
文句なく誰の前にもおこるわけです。
だから奇跡とよべるのです。
海がエジプト人たちを飲み込むような事がおこったとしたら、
どうしてそれを奇跡と呼べない人がいるでしょうか?(問題はそれを神の力と見るか、悪魔の力とみるか、
はたまた、自然の脅威と見るかにすぎません)

話をもどしますが、
もともと、もしも末日聖徒が回復された神の教会だというのなら、
どうして、神は末日聖徒のために戦わないのか?というのがあたしの疑問です。
それについてはどのようにお考えなのでしょうか?
末日聖徒の信仰が足りないから?
古代イスラエルの民は信仰が足りなかったみたいですよ。
見えなくなるところころ神をおこらせるような事をしました。
それでも神は奇跡を起こしました。
これはひとえにモーセ一人の信仰によるのですか?
だったら、末日聖徒にも、モーセのような人が一人いれば充分でしょ。
モーセの行ったような奇跡が実際おこらないところをみると
モーセ程の信仰者は一人もいないのだとわかります。
しかしあたしは信仰と奇跡は別ものぢゃないかと思っていますがね。
ま、何を信仰と呼ぶかもわからないので、断言は出来ませんが(^-^;)

ところで、なんだかんだいっても、
イエスはちゃんと悪意のある人の前で奇跡を行っています。
それこそが本物の証明ってやつでしょう。

誰が信じようが信じまいが、奇跡が必要な時には奇跡はおこるわけです。
神の栄光をあらわす時とかね。
(だいたいヨナが大魚に飲み込まれて陸にあがったのは、だれの信仰に
よるっていうのですか?)
http://www.kis-net.ne.jp/user/yakkun

Name : やっくん Mail : yakkun@kis-net.ne.jp Time : (99年1月26日<火>22時08分)


信仰と奇跡の複雑な関係

to:やっくん

 信仰ですが、私は信仰も魔術も同じものだと思っています。要は、まわりの受け止め方と、自分の認識次第
ではないでしょうか。ずれる前に戻して、私は信仰も魔術と同じく「意志の伴う行動」であり、「行動の伴う意
志」であると思っています。だから、信じているだけでも、行っているだけでも、信仰としては不十分だと思いま
す。先日、TVドラマの「私の愛したゴースト」(このタイトルって、007とGhostのぱくりだね)のなかで、
「人間、思った通りになれたら苦労しないわ」と言う台詞がありましたが、私は思ったとおりの人間に近づくこと
ができると思っています。それは意志の力、つまりそのことが実現すると信じることと、それを実現するために必
要なことを知り、行うことによってです。(あ〜、この辺についてはみっちゃんに叩かれておる。今まとめている
ところだから深く追求しないように(^_^;))
 で、ちょっと変わるが、「精神力」、つまり信じる力ということにおいて、時代が経つにしたがって弱くなって
きているように思います。よく使われる言葉では、精神文化が乏しくなってきていると思います。どの民族にも神
話というものがあります。その中には、今考えれば荒唐無稽な存在が多数います。たとえばバジリスク。全てを石
にしてしまう存在は、どうやって生まれたのでしょう。牛頭人身のミノタウロス、蛇と鶏が交わって生まれたコカ
トリス、河童、座敷わらし、e.t.c.これらは本当に存在していたのでしょうか。私は、存在していたが、人がその
存在を信じなくなったため消滅した、つまり物理的に存在した動物ではなく、精神的に存在した動物ではないかと
思います。
 で、上をふまえて、神も同じく精神的に存在する存在ではないでしょうか。「過去の記録」としての証拠が覆さ
れているのはモルモン書だけでなく、聖書も同じです。アダムは土から造られたのではなく、偶然の産物というの
が今の科学なのですから。科学が発展するにしたがって、それまで神の存在を強くするのに一役買っていた事実と
しての「神話」が、事実ではないおとぎ話になってきた。それと共に神の存在を信じない人が増えてきた。そこで
精神的存在である神からすると、人が神を信じなくなったら、神として存在できなくなるのです。さぁ大変、えら
いこっちゃ。不死のはずの神が死んでしまう。神が自分の力を維持するために「ほれ人間ども、もっと神を信じな
さい」というのが、今日の宗教ではないでしょうか。
 そうすると、神が聖徒達のために戦えない、昔のように大きな奇跡が起こらないのも、わかる気がします。古き
良き時代に比べ、種族としての人間の信仰心が乏しいのですから、神としての力が弱まっているのです。このこと
は、聖書の話と照らし合わせてみることもできます。ダゴンを信じていた民は、ダゴンが利益を与えてくれるから
信じていました。ところが、イスラエルの民が来て、ダゴンを信じる民は少なくなりました。あまつさえ、イスラ
エルの神こそ本当の神、あるいはダゴンを越える神と信じるものも出てきました。その結果ダゴンの力は弱まり、
哀れ、神の箱の前に膝を折ることになりましたとさ。
 ということで、「信仰」は自分がなにをしたいかを知り、それができることを信じ、何をするべきかを知り、そ
れを実際に行い、完遂すること、ということになりますかね。だとすると、やっぱり信仰は奇跡に先駆けますね。
ただし、人類全体の精神力、信じる力が低下しているから、昔ほどの大きな奇跡は生み出せないのでしょう。

Name : じった Time : (99年1月28日<木>19時12分)


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