科学と宗教


雑談「なぜ?」

ごめんなさい、今回は匿名にさせて頂きます。

なぜ人は信仰を持つのでしょうか?
科学文明中心の、この時代に、どうして、非科学的な「神の存在」
「イエスは神の子である」なんて事を信じるのでしょうか?
科学的論理によって、多くの宗教の根本が否定されています。
神が人間を作ったのか、人間が神を作ったのか?
科学的に考えれば、後者の可能性がかなり強いと思われます。
「科学は、証明出来るものについて考え、宗教は証明できないものに
ついて考える」
宗教を信じる人は科学を信じないのでしょうか?
宇宙飛行士でも、神を信じる人は居るし、アインシュタインも、
神の存在を肯定していたようです。
オウムの信者も、これだけの社会的非難を集めながら信仰を
持続し、新しい改宗者も増えているようです。
カルト、マインドコントロール、その様な言葉だけで
説明がつくのでしょうか?
トルコでは、イスラム教が増えています、一度イスラム教の
政治を追放した国で、その都市部で信者が増えているそうです。
大学に、イスラム教徒の習慣を持ち込ませないと言う、国の
方針が、イスラム教徒が大学に進学できないと言う、かつてとは
逆の差別構造が生まれてきています。
宗教を、国民すべてに押し付けると言うことは間違っていると
思いますが、特定の信仰を持つ者を排除することも間違っていると
思います。
他人から見て、とても信じられないこと、受け入れ難い教えや習慣、
そのような者が有ったとしても、それを信じる人の信仰の自由と、
自分の信じることを、他人に語り、教え、勧める自由は、人間が
持って生まれた、基本的人権の一部です。
たとえ、その事が、「反社会的考え」であっても、法律に背く
「反社会的行動」をとらなければ、罰せられることは有りません。
思想信条の自由、言論の自由、表現の自由、は保証されるべき物だと
思います。
国家は、それに対して、正しく物事を判断する力を持てるように
国民に教育をする義務が有ります。
特別な場合を除いて、人はすべて自分の意志に従って考え行動する
権利を持っています。
このような意味において、宗教を信仰し、集会を持ち、布教活動を
行う自由を与えられています。もちろん、その宗教の教えに反対する
自由も保障されています。
あるひとにとって、「そんな事が有ろうはずはない」と断言できる
事であっても、別のあるひとにとっては「紛れも無い真実」なのです。

もし、神が存在しないとすれば、どうして世界中の多くの人間が
宗教を信じているのでしょうか?
科学的には、明らかに否定されることを、
なぜ人は信じるのでしょうか?
「Aを信じるかBを信じるか」「真実か虚実か」とは
どう違うのでしょうか?
歴史的事実とは何でしょうか?
イエスが神の子であると言い出したのは、イエスの死後どれぐらい
たってからのことでしょうか?すべてのキリスト教徒が、イエスは
神の子だと信じているのでしょうか?

なぜ?あなたは、自分の考えが正しいと断言できるのでしょうか?

Name : 匿名 Time : (99年1月13日<水>13時22分)


匿名さんにお答えして

匿名さん、熱のこもった書き込み、ありがとうございました。

 私がモルモン教会に対する批判を行なう理由は、それが「唯一真の教会」であると主張していることが人を傷付ける最大の原因となっていると感じており、さらに、歴史的事実に照らし合わせてそれが「唯一真の教会」ではないことが明らかだと考えているからです。当HPの主張は「公式の宣言」や「信仰箇条」に記されている通りであり、それらが実行されるのであれば、モルモン教の宗教としての存在までを否定するものではなく、それでも信仰を続けるという方々の自由は尊重すべきと思っております。

 モルモン教会では、「唯一真の教会」という教義を主張しているが故に、幸福のあり方に多様性を認めず、教会に集うことが幸福でないと感じている教会員を集い続けさせたり、辞めたら地獄に堕ちるのではないかという強迫観念を与えたり、といったさまざまな不都合が起きています。つまり、人によっては、幸福をもたらすよりも、不必要な罪悪感や恐怖心を植え付ける教義となっているのです。しかも、その教義が神からのものでないとしたら、これほど理不尽なことがあるでしょうか?

 「科学は、証明出来るものについて考え、宗教は証明できないものについて考える」というご意見には、全面的に賛成です。モルモン教会が純粋に、証明できないものについてのみ信仰を宣べ伝えているのであれば、批判するつもりはありません。しかしモルモン教会は、「唯一真の教会」という教義を、「最初の示現」やモルモン書の「金版」の発見といった、「歴史的事実」があるからその教義は正統なのだということを証明しようとしています。「最初の示現」も「金版」も、「歴史的事実(あるいは考古学的事実)」という「科学で証明できる」ものであり、さまざま情報を検討した結果、それらは「事実ではない」というのが私の結論です。

 私は、モルモン教会が、例えば、「モルモン書はジョセフ・スミスが神からの霊感を受けて書いた書物であり、彼が『金版』を発見して翻訳したという物語は、文字通りの『歴史的事実』という意味ではなく、『信仰』により受け入れるべきものである」とでもするのなら、受け入れます。

 モルモン教会は、過去の「歴史的事実」を、教会員の信仰を鼓舞するという目的で隠匿しようとしています。また、それらの「歴史的事実」が教会員の知るところとなると、「みたまの証」なるものを持ち出して来ます。科学で証明できないものを宗教(信仰)により考えるというのは受け入れることができますが、科学で証明できるものを宗教(信仰)により否定しようというのは、ガリレオの時代の宗教裁判と同じ過ちを犯していることになり、私には受け入れ難いことです。

 おっしゃるように「他人から見て、とても信じられないこと、受け入れ難い教えや習慣、そのような者が有ったとしても、それを信じる人の信仰の自由」は尊重されるべきですが、それを信じるかどうかを判断するにあたって、特に日本人の場合、あまりにも情報が不足していたということは、やっくんが主張している通りです。しかも教会は、意図的に情報操作を行なっているのです。

 繰り返しますが、私の主張は当HPの「公式の宣言」「信仰箇条」に簡潔に表現されております。最終結論は異なるにしても、当方の意図をお汲み取りいただければ、幸いです。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~exmormon/claims/profile.htm

Name : 「聖徒の未知」オーナー HANK@森 Mail : mori-hdk@shonan.ne.jp Time : (99年1月13日<水>15時28分)


認められる宗教認められない宗教その1

私は宗教は文明ではなく文化だと考え解釈します。

文明とは、普遍的なものであり、文化とは普遍的ではないが、人のアイディンティを形成するものだと理解します。

いずれも司馬遼太郎氏の説明によります。

この解釈で見ると、非常にものごとが分りやすくなります。

たとえば、車。これは文明の産物であり、国境や地域性を超えて普及します。
しかし、年越しソバ。これは文化の産物であり、国境や地域性によって普及しないものです。
日本ではイスラム教が普及しませんが、これはイスラム教がイスラム教圏の文化と深く根ざしており、なおかつ、日本はイスラム文化の摂取にさほど熱心でない事に起因していると考えられます。
反対にキリスト教の普及はキリスト教圏文化の普及とともに、その感受性をも含めてうけいれやす土壌となり、ひろがっていると感じます。
一般にヨーロッパでは東洋的文化普及が日本におけるヨーロッパ文化普及程ではありませんから、仏教や神道が普及する素地がなく、あまり多くの信者の獲得には至っていないと考えられます。

と、このように理解すると、するすると色々な謎だと思われることが解けてきます。

宗教は、文化の究極の形であり、つまるところ各個人のアイディンティの形成素材になりえると思いますが、決して文明はありません。
つまり、一つの宗教によって全人類を語れる程、今の宗教は文明的にはなっていないということです。

さて、何故人は宗教が必要なのでしょうか?
それは、文化に深く根ざした宗教とは、人の心のひだに優しいからでしょう。
普遍的なもの、すなわち文明とか科学というものは、真理であり、真理とは、誰にも共通する原則なわけです。
1+1=2という原則は、万民が受け入れなければならない純然たる事実なわけです。
しかし、これだけでは人は「面白い」とは感じません(^-^;)。

人の心は科学的ではなくできているからです。
しかもそれは、それぞれ他に同じものがないという「個体差」によってできているわけです。
つまり、宇宙共通の言語が数学であるならば、日本人を日本人とならしめている言葉は日本語だというようなものです。日本語は日本文化の上に成立していますが、これは普遍的な言語ではないわけです。そして現状では数学を言語として採用できるほど、我々の心はクールにできていません。
http://www.kis-net.ne.jp/user/yakkun

Name : やっくん Mail : yakkun@kis-net.ne.jp Time : (99年1月13日<水>17時18分)


認められる宗教認められない宗教その2

文化はこのクールではない人間の心をうるおす一つの要素です。
もしもまったく数学的な人間というものが存在したとしたら、それは新しい人類といえるでしょうが、同時にもしも複数存在したとしたら、その複数は皆同じ行動を取ることでしょう。なぜならば普遍的な行動しか彼等はとらないからです。個性はありません。

現実には、そんな人物は存在しえず、どのような科学者であろうとも個性があり、個性があるかぎり、文化を求め、宗教、すなわち心のひだをうるおすものを人は求める事になるわけです。
従って、人が人であるかぎり宗教あるいは文化は必要であり、存在しつづけるといえます。この否定は、人の個性の否定となるからです。

科学が発達したといわれる今にいたっても、多くの人が宗教に走るのは、当然の事です。科学は普遍的なものを追い求め、個性はそれでは乾いてしまうからです。
しかしもしも科学が個性を追い求めてしまったらそれは科学ではなくなってしまいます。
従って、科学否定は馬鹿げたものです。科学と宗教、すなわち文化は対立するものではなく、双方人には必要なものにすぎないわけで、単に普遍と個性というそれぞれの追求の手段でしかないからです。

さて、ひとは普遍に片寄れば個を見失い、個性に片寄れば、争いがおこるようになっています。つまるところ、それが古えからの宗教戦争の原因に他なりません。

宗教戦争とは、他者の個性を認めず、己の個性を押し付けるという事に他なりません。
そこには妥協がないわけです。
個というものを絶対とする価値観、つまり個を普遍的だと考えてしまうことが、この過ちを冒してしまうわけです。

面白いのは、イスラムと日本の違いです。
イスラムは中近東で花開いた思考であり考えです。
何故多くの人がこれを求めたのでしょうか?
そこがシルクロードなどの交通の要所であり、つまるところ、普遍的な世界だからだとあたしは思います。普遍的な世界、様々な文化が交差する所。それ故に強力な個性が求められ、すなわち強力な個性をもった神が普及したのではないかと思います。
一方、日本はほとんど閉息された世界でした。他者、他文化が急速に交差するような事はなかったわけです。その結果、逆に強力な個性は求められず、それが寛容な宗教心を養ったのではないかと感じます。
現代は、普遍的な時代です。このような時代ではどうしても個を見失いがちになり、それ故に人の心は乾き、個である宗教にすがろうとするのではないかと考えられます。
とくに、普遍的な事を常に求められ測られつづけた若者にこの現象は顕著なのではないかと思われます。

その分析はよしとして、ではその次ぎの問題になります。
つまり、人に文化、個性が必要であるならば、他者の個性に干渉すべきではないという事です。
これはこれとして正しいでしょう。
しかしながら、相手が普遍的であるかのような「偽り」を説くとしたら話はまったく別問題となります。
http://www.kis-net.ne.jp/user/yakkun

Name : やっくん Mail : yakkun@kis-net.ne.jp Time : (99年1月13日<水>17時18分)


認められる宗教認められない宗教その3

末日聖徒の問題点は実に一つです。すなわち「唯一真」です。
これは普遍的な意味をもちます。
一個性、一文化にすぎない宗教に普遍的な意味を持たせることは極めて危険です。
それでも、人類の歴史と歩んだ宗教においては、その主張と危険さについては熟知したものがあり、それが、一つの文化でありながら渋みのある魅力と普遍的に近い成長を持つにいたりました。
しかし、末日聖徒はそうではありません。
しいてあげるなら、それは人工宗教であり、深みも渋みも何もない軽い存在でしかないわけです。その身でありながら、自らが普遍的な存在であるとして、多くの人々にその実体を偽るやり方は、まさに人類の普遍的な敵だと考えてよいのではないでしょうか?

しいていうならば、これは人類文化に対する犯罪です。
私は、この存在を許す事ができません。
それこそロッキー山脈の山奥にでも潜んで勝手にやってくれているならば、問題はなかったわけです。その地域の文化として、また個性として認識出来た事でしょう。
しかし、彼等はその領土を超えて進出し、その個性を絶対なものとして日本文化へ侵略をはじめ、それを破壊し、自らの文化をまき散らし日本人のアイディンティを喪失しなしめたわけです。
誰が何を信じるのもまったくの自由ですが、人に信じることを強要し、他の情報をあたえず、判断を誤たせ、偽りをもって支配したその手口は許せないものがあります。
そもそも末日聖徒が述べている教えなど、世の処世術に毛が生えた程度のごときものにすぎないです。にも関わらずこれを絶対唯一だといい、伝道といって侵略して来た。
戦争を仕掛けてきたのは彼等なわけです。

自らは戦争を仕掛け、こちらに攻撃しておいて、こちらが反撃したら、宗教の自由だ。認めるべきものだなどという主張は、まさに身勝手。わがままに他なりません。
このような危険な宗教は断固として排除し、日本の外にたたき出す以外何とすべきでしょうか?

よろしいですか、少なくとも一般のキリスト教徒における伝道普及のやり方は末日聖徒ほど人を急激な判断に追い込むものではありません。
わたしは末日聖徒の宣教師程たくさんの伝統的仏教や神道、あるいは日本文化の宣教師など見たことがありません。それは親から子にだいだい受け継がれたものだからです。
それを断ち切り破壊する末日聖徒のやり方そのものが問題あるわけです。

つまり、末日聖徒がやっていること主張していることに、こちらは反論しているだけにすぎないわけです。

自らが真実だ、普遍だと主張すれば、それに対する突っ込みがあって当然です。
どこが真実で、何が普遍なんだと。
それをつっこまれたら、宗教の自由だなどという言い分はそれこそ悪ふざけか、戯れ言にすぎません。それが嫌ならそもそもそんな主張をひっこめるべきであり、すべきではありませんでした。

私は自分の考えが絶対に正しいなどと主張していません。
落ち度があれば指摘してくださればいいわけで、それを受け入れる度量はあります。
むしろ末日聖徒の方こそが自分の考えは絶対に正しいと主張し、落ち度を落ち度としてみとめず、苦しくなればどっちを信じるのも自由なはずだなどと言い出す始末です。

末日聖徒はどうして末日聖徒が唯一で絶対に正しい神の教会だと断言するのでしょうか?あたしもそれを是非教えていただきたいものです。
http://www.kis-net.ne.jp/user/yakkun

Name : やっくん Mail : yakkun@kis-net.ne.jp Time : (99年1月13日<水>17時16分)


雑談「なぜ?」への雑感

匿名さん
信仰をモルモンもオウムもキリスト教もイスラムも全部一緒に論じるのはこの場合適切ではありません。宗教を比較するというスタンスを取らずに全部を信仰という言葉でひとくくりにしてはなりません。日本の宗教的環境は「多宗教」であってこうした匿名さんのような主張が生まれるのではないかと思うのですが、それぞれの宗教で「信仰」という定義も変わっています。
たとえばモルモンやエホバの証人は戒律を守るなどの信仰を自己の研鑚によって高める事が出来ると教えていますが、いわゆる正統派のキリスト教は信仰は神様からの恵みであってそれによってのみ救われるとしています。
信仰と言ってもその実態は全然違うのです。ここで問題とすべきはその信仰の内容本質です。そして、モルモンの信仰が全体主義的で画一な幸福感を押し付けられるなどなどの「とんでも」が問題になっているのです。
信仰は先に述べたように恵みとして与えられるものですから、別に法で保障されなくても自由に信仰されるのです。(隠れキリシタンなどが好例)どうしてあなたが法を引いて信仰を語るのかが分かりません。ひょっとして反モルモン活動は違憲行為であるとお考えなのでしょうか?
「もし、神が存在しないとすれば、どうして世界中の多くの人間が宗教を信じているのでしょうか?」とのお言葉ですが、宗教を信じてはいけません!人の作った組織を信仰してどうするのですか。それは偶像崇拝です。神を信じるわけでつまりはその瞬間からその存在の如何は問題外になるのです。

「すべてのキリスト教徒が、イエスは神の子だと信じているのでしょうか?」
というか、そう告白するからクリスチャンなのです。そう言わない人はクリスチャンではありませんね。また、キリストの贖いを
正しく理解していないと本当のクリスチャンとは言えません。

「なぜ?あなたは、自分の考えが正しいと断言できるのでしょうか?」
わたしにこの問いがかけられていたとすればこう答えます。
「きっぱり断言していたのは奴の方ですよ。それがあんた大嘘つきって分かってしまったんでね。ちょっと皆にお知らせそらせしてるだけですよ」

さて、匿名さんの3つ目の書き込みですが、私の場合のモルモンがおかしいって論拠の根本とほとんどが末日聖典と聖書ですね。

では、宿題頑張って!

http://www3.osk.3web.ne.jp/~hidekio/

Name : るう Mail : hidekio@osk3.3web.ne.jp Time : (99年1月13日<水>22時43分)


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