あなたはペテロか?


モバさん

モバさん、こんにちは。
私に向けたレスではないですけど、、、。

>キリストの為なら喜んで死ねますか?
>キリストの為なら万歳しながら笑顔で死ねますか?
>出来ないでしょうね。今のあなたの状態では、死ぬ間際になったら命乞い
>をするんじゃないですか。

わたしは自分にはできないと思います。
たぶん命乞いをするでしょう。 それもなりふり構わず。
わたしは十二使徒のペテロの話が好きです。
それは自分に似ているから、、。
たぶんわたしも自分の弱さゆえ、鶏が3度泣いた後外に出て激しく泣くことでしょう。

なんか話がそれてごめんなさい。

Name : いと Mail : Time : (99年1月5日<火>20時39分)


聖人ペテロ

いとさんwrote:
>わたしは十二使徒のペテロの話が好きです。
>それは自分に似ているから、、。
>たぶんわたしも自分の弱さゆえ、鶏が3度泣いた後外に出て激しく泣くことでしょう。

泣き終わってから、どうしますか? ペテロがその後どうなったかご存知でしょう? あなたは自分がそのようなペテロに似ているとおっしゃるのですか?
謙遜さを表わしてさぞかし気持ちのよい発言なんでしょうけど、私には極めて軽々しく感じられます。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~exmormon/claims/profile.htm

Name : 「聖徒の未知」オーナー HANK@森 Mail : mori-hdk@shonan.ne.jp Time : (99年1月5日<火>22時09分)


ペトロとユダ

梶原一騎は好きですか?

オーナーならびに いとさん

ペトロの話題でコメントしようとしたら、オーナーが書かれてますね。
わたしも少しだけ・・・
>わたしは十二使徒のペテロの話が好きです。
>それは自分に似ているから、、。
>たぶんわたしも自分の弱さゆえ、鶏が3度泣いた後外に出て激しく泣くことでしょう。
ペトロの号泣のゆえんは「自分の弱さ」等ではありません。
ペトロの後悔に関してはちょっともう少し深い認識が必要ではと思います。「ペトロの否認」は即ち「神の子イエスへの裏切り反逆」であり「立派な背教」なのです。イスカリオテのユダ(南斗六聖拳のユダではない)だけが裏切ったのではなく、ペトロも他の弟子達も同じなんです。
ただ、ペトロ達は死ななかった。あるいは死ねなかった。ペトロはこの「裏切り」によって完璧な救いようのない罪人となっておめおめと生き延びてしまったのです。
だから、イエスが復活して彼らの前に立たれた時、「イエスの復活という事実」それだけが彼の救いとなったのです。
やっと真の伝道者として生まれ変わることが出来た、というか残りの生涯はもうその道しかなかったのです。
その前の文でモバさんが
>キリストの為なら喜んで死ねますか?
>キリストの為なら万歳しながら笑顔で死ねますか?
>出来ないでしょうね。今のあなたの状態では、死ぬ間際になったら命乞い
>をするんじゃないですか。
と言ってますね・・・
この死に様は将にその後のペトロのことです。

オーナーのおっしゃるよう
>泣き終わってから、どうしますか? ペテロがその後どうなったかご存知でしょう?
>あなたは自分がそのようなペテロに似ているとおっしゃるのですか?
>謙遜さを表わしてさぞかし気持ちのよい発言なんでしょうけど、私には極めて軽々
>しく感じられます。
確かに軽いです。
ペトロの生き方は人がしようと思って出来るものではないのです。
それこそ召しであるから出来たのです。「赦された罪人」であるから自然とそうなったのです。
モルモンのお歴々をあのイエスの死の場面であてはめると所詮は「あの男ではなく。バラバを!」と叫んだ民衆だと思うのは私だけでしょうか?

http://www3.osk.3web.ne.jp/~hidekio/

Name : るう Mail : hidekio@osk3.3web.ne.jp Time : (99年1月6日<水>00時21分)


re:聖人ペテロ

>泣き終わってから、どうしますか? ペテロがその後どうなったかご存知でしょう?

逆さはりつけでしょうか。

>あなたは自分がそのようなペテロに似ているとおっしゃるのですか?

そんなことは言ってません。

>謙遜さを表わしてさぞかし気持ちのよい発言なんでしょうけど、私には極めて軽々し
>く感じられます。

その言葉受け止めます。
でもそんなふうに見られてちょっとがっかりです。
この話はこれでやめましょう。

Name : いと Mail : Time : (99年1月6日<水>13時12分)


化け化け

(この部分、省略)

to;るう さん

 末日聖徒イエス・キリスト教会では、ペテロは裏切り者ではな
いことになっています。彼は主から「剣を収めるように」言われ
ており、一緒に捕まってはいけないこと、一緒に死んではいけな
いことを、暗に命じられています。そのためにとった行動が、主
が言われたとおりであり、自分が決してその通りにはしないと
言ったことを行ったのを悔いた、ということになっています。つ
まり、命じられたことを行ったが、そのために主を否定したこと
を悔いた、ということです。私はこの解釈の方が好きです(^_^;)
 もし、彼が背教したのなら、自身の立場で考えてみて下さい。
背教した直後に、同じ組織の長として働けますか?組織の長とし
て、他の信仰仲間に命令を下す立場に立てますか?私なら、いく
ら後悔したからといっても、直後にそういう立場には立てないで
す。一からやり直したいと思うでしょう。

Name : じった Time : (99年1月6日<水>15時49分)


モルモンは違ってる

じったさんの曰く
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 末日聖徒イエス・キリスト教会では、ペテロは裏切り者ではないことになっています。彼は主から「剣を収めるように」言われ (略)私はこの解釈の方が好きです
-------------------------------------
「剣を収めるとの言葉」から「捕まるな」「死ぬな」が出てくる教義が不思議ですね。大体、自分の考えを貫徹できなかたから泣いたって・・・普通は、ああやはり主の言われたとおりだったって驚きレベルの話ですよ。
まあ、もしモルモン説のとおりでも「主を公衆の面前で否定する事」は『背教』ではないのですか?モルモンではセールス先でお茶を勧められて成績欲しさのあまりに飲んだってレベルの話なんでしょうか?それとも親戚と初詣に行って賽銭なげて祈願しても「私の他を神としてはなららい」って戒めには抵触しないってレベルの話ですか?
解釈の好き嫌いはここでは良いじゃないですか!だってモルモンは真実の教会で予言者が霊感を持って福音を解釈伝えることが出来るんですから、おっしゃてることが『真理』と承って良いのですね。
-------------------------------------
 もし、彼が背教したのなら、自身の立場で考えてみて下さい。(略)
-------------------------------------
組織の長ってなに?モルモンは教会がイエス存命中に自身で作ったなんて教えてますが、そんなことは聖書にはひとことも書かれてはいないのです。丹念に聖書を読めば弟子達が本当に手が焼けてどうしようもないって事がわかるはずです。そうした連中がコペルニクスの転換的に変わるのは「主の死と背教と復活と赦し」しかなかったのです。だから、聖書的にはまた『キリスト教的』には復活が出発なんです。それと、組織の長として命令云々ですが、そおりゃあ出来ないでしょう。出来ないから本当の「謙遜」なんじゃないのですか?第一打ちひしがれたペトロの「これからは俺が背負って立つんだ」なんて気負いはないでしょう。常識で考えて。

モルモンはこうした組織主義的協会中心なな考えをします。ご注意下さい→ギャラリーの皆様
-------------------------------------
私なら、いくら後悔したからといっても、(略)
-------------------------------------
ですからそんな立場なんてなかったのです。ペトロは悔いてその勢いで生涯を福音の伝道者として生きた。それだけのことなのです。そのそれだけが偉大なのですが!
-------------------------------------

(この部分、省略)


http://www3.osk.3web.ne.jp/~hidekio/

Name : るう Mail : hidekio@osk3.3web.ne.jp Time : (99年1月6日<水>23時22分)


何でもかんでも教義にしないで1

to:るうさん

>「剣を収めるとの言葉」から「捕まるな」「死ぬな」が出てくる教
>義が不思議ですね。大体、自分の考えを貫徹できなかたから泣い
>たって・・・普通は、ああやはり主の言われたとおりだったって驚
>きレベルの話ですよ。(以下略)

 イエスを否定したから背教ですか。しかし、彼はイエスをキリスト
ではないと、イエスを否定したのですか。私が読む限り、彼はイエス
を知らない、関係ないと言ったのであり、イエスを否定しているわけ
ではないと思います。
 それと、いくら大管長の言葉でも、非公式な場で話された言葉は教
義ではありません。教会員に対する言葉の公式な場とは、年に2回の
総大会です。また、聖書の解釈に関する教義、教義としての聖書の解
釈は、私が知っている限りありませんし、「ない」と聞いています。
教義に解釈がついてくるのであって、他の教会も同じなんじゃないで
すか?
 また、一会員の言葉を教義ととられるのは、それは困りますね。る
うさんはどこかの教会の会員ですか?るうさんの言葉を、その教会の
教義と解釈してしまっていいのでしょうか。教義のところは「教義」
と書きます。勘違いしていることがあるかもしれないけど。それ以外
は私的見解です。


>組織の長ってなに?モルモンは教会がイエス存命中に自身で作った
>なんて教えてますが、そんなことは聖書にはひとことも書かれては
>いないのです。

 え?なにそれ?教会がイエス存命中に組織されたって私はそんなこ
と聞いたことないですよ!イエスの昇天後、弟子たちの手によって組
織されていったわけでしょ。もっとも、モルモン書にはアメリカ大陸
では組織したと書かれていますけどね。いや、「教会」に類似した組
織は今で言うところのユダヤ教にもあるわけだから、イエスが組織し
たわけではないですね。
 で、組織ですが、彼が12人の使徒たちの頂点でまとめていたとい
うことも、ないわけですか?12人の(使徒という言葉はイエスご自
身は使われなかったと思いますが)弟子たちは、したがってきた大勢
の中から、イエスご自身が特別に選び出されたと思っていましたが、
違いましたか?あれ?ペテロですよね?私、別の誰かと勘違いしてい
る?ケパと言われたシモン・ペテロですよね?

Name : じった Time : (99年1月7日<木>16時00分)


何でもかんでも教義にしないで2

>聖書をお読みなさい。イエスの生涯が「負けの人生」であったこと
>が分かるでしょう。しかし、その負けが「勝利になる」それがキリ
>スト教なのです。

 解釈の違いでしょう。私は「負けの人生」とは感じません。という
のも、全て計画通りに運んでいったわけでしょ。弱者の味方として、
彼は勝利したのではないでしょうか。彼の説教には誰もついてこな
かったのでしょうか。離れていったものもいましたが、大勢の罪人が
ついてきたのではなかったでしょうか。そして、イエスは自分が来た
のは罪人を招くためだと仰ったと思います。目的が達成された以上、
彼は勝ったのではないでしょうか。もし、十字架上での死を「負け」
と言われているのでしたら、私はやっぱりそれも「勝ち」だと感じて
います。というのも、彼は誰かに命を奪われたのではなく、自分から
父なる神に差し出したのですから。だからこそ、「本当に彼は神の子
だった」とつぶやくものがいたのではないでしょうか。命を奪われた
のでしたら、確かに負けでしょう。しかし、彼は誰にも奪われず、自
分から差し出したのです。再び受ける力があるから差し出した、確か
聖書にそう書かれていたと思いましたが、はじめから計画通りに行わ
れた以上、まわりの人は踊らされたのであり、踊らせたイエス、及び
父なる神の勝利だと思います。またそれまでも、時が来るまで誰も捕
まえることはできず、時が来てはじめて、イエス自ら捕まったので
す。ユダの裏切りがあったとしても、イエスはそれ以前に彼を捕まえ
ようとしている群衆の中から姿を消しているのです。ここでも逃げる
ことはできたでしょう。つまり、自分から捕まったのです。したがっ
て、捕まったから負けではなく、捕まえさせてあげたのだから勝ちで
す。
 ま、解釈については永遠に平行線だと思いますけど。

Name : じった Time : (99年1月7日<木>15時59分)


何でもかんでも教義にしないで3

 確かに、LDSは自己拡大の教義といえましょう。主が「弱いとこ
ろを強くしてあげよう」と仰っているのですから。すなわち、「弱い
ところにこそ、私の力は現れる(十分である、でしたか?)」ので
す。しかし、よく誤解されているようですが、100%人間の力で強
くなるわけではないのです。もしかしたら1%にも満たないかもしれ
ない人の精一杯と、イエスの贖いで強くなるのです。ここは、教会員
でさえ誤解しているところだと思います。そうですね、聖書に「求め
よ、さらば与えられん」とありますよね。求めていることを精一杯表
現しなさい、ということです。世の中には「お金が欲しい」と言いな
がら、働かず遊んでいる人もいます。そういう人は、本当にお金を欲
しいと思っているのだろうか、と私は不思議に思います。言動を一致
させる、そして同じやるからには一生懸命にやる、LDSの教義はそ
ういうことだと思います。でも、人間だから足りないことはある。た
とえば、年末だったかな?「はじめてのおつかいスペシャル」って番
組があったのをご存じですか。4歳くらいの子供がはじめて近所にお
使いに行くのを隠し撮りするのですが、4歳の女の子が、大きなゴミ
バケツを購入してきます。でも、大きすぎて持てなんですね。しばら
くは押していこうとするんですが、やっぱり動かない。そこで店に
戻って「運びやすくして下さい」とお願いしました。そうすると店の
人はキャスター?車輪をつけてくれたんですが、女の子が持っている
お金はそのキャスターを買うのに足りなかった。そこで店の人は、
「じゃぁ、これはおじさんのおごりだな」といって、引っ張って持っ
ていけるようにまでしてくれました。LDSの教える神と人の関係
は、女の子を我々人間、店の人を神と見立てたものだと思います。女
の子は自分の手に負えない荷物について、できることは精一杯やっ
て、助けを求めたのです。そうして、無事とは言えないけど、家まで
ゴミバケツを持って帰れたのです。それは、決して女の子だけの力で
はなく、店のおじさんの助けがあったからです。同じように、救い主
がいらないなんてことはありません。「イエス・キリスト以外に救い
に至る名も道もない」、これが教義ですから。もちろん、教義を勘違
いしているような人はたくさんいます。また、十字架を掲げていない
のも、十字架上の死に意味を見いださないからではなく、その後の復
活こそ、彼のみがなしえる最大の贖いと解釈しているからです。つま
り、贖いは十字架上の死で完成したのではなく、復活によって完成し
た、ということです。

Name : じった Time : (99年1月7日<木>15時59分)


わが信仰義認論@

いとさんの曰く

私の言い回しは難しいですか?
ペトロがイエスを否定してないって?「知らない」と三度言った事が否定ではない?
それと、あなたの見解はモルモンの教義です。それは、私自身が知っていた事だしそう教えていましたからね。それと、大管長(現在の予言者)の非公式な話ってどうやって皆さんに入ってくるのですか?個人的なお話をわざわざ「リアホナ」なんかが掲載しているわけではないでしょうし、もし後日「あれは個人的な見解だった」ということがあればそれはほとんどが教義の改変ですね。キンボール師は黒人に神権を与えた啓示に関して、「あれは個人的な見解だった」って述べていた事が好例です。(参照:素顔のモルモン教264頁)

それと、イエスが十字架の前に教会を作ったのも「教義」です。わたしはてっきりあなたがイエスの山上の変貌の個所を引いて、そこで神権の鍵を受け、イエスがバルヨナ・シモンを「教会の岩」としてペトロと名づけた事を引いて「教会はイエス自身が設立された」って反論すると思ってましたが・・・
それと従って来た中からペトロを選抜したのではありません。ガリラヤ湖で網を打ってるところをイエスが声をかけて召されたんです。ペトロは弟子達の中心であったことは事実です。でも、それはモルモン的な教会の代表者主催者を意味しません。教会も緩やかな共同体で集会と訳す方が適切です。
アメリカ大陸の十二弟子に「テモテ」というギリシャ語名の弟子がいますね。この弟子が私はとても気に入ってます。モルモン書『証』になる人物です!

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Name : るう Mail : hidekio@osk3.3web.ne.jp Time : (99年1月7日<木>22時34分)


わが信仰義認論A

解釈の違いではありません。
「神理解の違いです」それは宗教の違いであり、もしあなたがそうおっしゃるのなら「モルモンはキリスト教ではない」ということを認めたってことです。
弱者の見方として勝ったと言われてますね。それから述べられている事は、あなたのおっしゃる通りなのですよ。
しかし、モルモンの教義のトンデモはこうです。
つまり、イエスは母が人であるマリアと父が神であるエロヒムとの間に生まれた子である。(それは性交渉を指していると思われます。)だから、おっしゃるように人の特性として死ね、神の特性として復活できた。(基督イエスやブルース・マッコンキーの著作を参照)
そして、抵抗できたがしないで堂々とその気高い使命を受け入れ成し遂げたと。
でも、この教義だとイエスのゲッセマネの苦しみとか、十字架上の言葉が理解できないのですよね。つまりこうした解釈にご無理をなさっているのは、イエスの罪人を赦すための贖いは「良い行いをした神の教会の忠実な会員(=即ちモルモン)」に「条件付き」で与えられるものだとの教義があるからなんですよね。これは、イエスの死と復活の真理からは離れている異端の教義です。ペトロの回心の物語はこの死と復活による万人への赦しから理解しないといけません。
「解釈については永遠に平行線だと思いますけど」
とは思いませんネ。だってモルモンが正しいんですから私は死の後歯噛みをして自分の間違いを悔いるわけですからネ。永遠はありえないでしょう?

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Name : るう Mail : hidekio@osk3.3web.ne.jp Time : (99年1月7日<木>22時35分)


わが信仰義認論B

足りないところを埋めるってのも便利な言いようですね。ここらは熱心なモルモンの方と良く話したもんです。
どこまですれば後は神様が埋めてくれるの?ってことが分からないんですよね。これが!
たとえば紙に横一文字に線を引いて左端にイエスでも神でもエホバ(正しくはヤハゥエ)逆の右端にはカインでもイスカリオテのユダでも書いてください。そして今の自分位置をその線上に書いてみて、あと何年でどれくらい左に寄れるかを考えてみるといいんじゃないですか?
不完全から永遠それは荷物を持ってもらうなんてお助けのレベルじゃなんいです。圧倒的なギャップであるのです。ですからキリストの十字架の贖いは必要であったわけでそれは「絶対的な救済」なのです。それ抜きには不完全と言う「罪の状態」からは抜け出せないのです。
キリスト教の言う「救い」「救済」とはそう言う意味です。モルモンは集客のためかイエスを信じていると言ってますが、そんな絶対的な救済者としてはイエスを位置付けていないでしょ?戒めを守ってそれプラス善行を行う。それに100%の努力をすればあとは神様が下駄をはかしてくれる。それは仏教とかでも既に言ってる事です。罪の救済者って教えは不要なのです。
それと100%の努力って可能?そうしたしないと救われないって行為主義が被害者を生んでるのです。

http://www3.osk.3web.ne.jp/~hidekio/

Name : るう Mail : hidekio@osk3.3web.ne.jp Time : (99年1月7日<木>22時35分)


re:わが信仰義認論

 いとちゃんじゃなく、じった宛だと思いますので...

>解釈の違いではありません。
>「神理解の違いです」それは宗教の違いであり、

 神の理解の違いというのは、今のいわゆるキリスト教と呼ばれてい
る教会の設立者も、ジョセフ以外の末日聖徒も神を見たことはなく
(もっとも、ここの情報によるとそれも疑わしいらしいけど)、聖書
の中からと祈りによってしか神を理解しようとすることはできないわ
けで、その姿勢はキリスト教会もLDSも同じではないでしょうか。
神を理解するための手引きとなる聖書に書かれていることについて、
どう解釈するかで理解は違ってくるでしょう。ですから、神の理解の
違いと言われればそうでしょうし、宗教の違いといわれればそうなの
でしょう。ただ、イエスを唯一の救い主としている点において、キリ
スト教と同じ…共通点があると思います。
 ずーーっと昔にはグノーシス派や、イエスは女性であったとする異
端もありましたが、それらも何の根拠もなしに生まれなかったと思い
ます。何らかの根拠の違いから、解釈に違いが生じたと思います。そ
の根拠が、LDSの場合はジョセフの見神であり、プロテスタントの
諸派はそれぞれの思いとか行き違いとかではないでしょうか。
 カルトなモルモンと一緒にするなと言われそうですが、過去のキリ
スト教徒の行い、すなわち十字軍や魔女狩りなどはカルトそのもので
はないでしょうか。聖書には、アポロン神殿かな?それを壊そうと大
勢の人がつめかけたことが書いてありますが、これもカルト宗教その
ものではないでしょうか。1500年からの歴史を持つカトリックに
対して若いモルモンが、過去のカトリックと同じように、若い間に血
気盛んなのは、歴史が繰り返されているだけのように思います。ま
た、キリスト教会のインディアンやアイル人種への伝道は、今のモル
モンの伝道方法と似たり寄ったりではないでしょうか。キリスト教会
が迫害を堪え忍んでローマ国教となるまで400年ほどかかっている
んでしたか。ということは、後250年ほどしたら、モルモンに対す
る評価も変わっているかもしれませんね。もっとも、この150年ほ
どでもずいぶん変わっていますが。


>だってモルモンが正しいんですから

 へぇ!モルモンが正しいんですか!私はキリストであるイエスは正
しいと思うけど、モルモンが正しいとは思っていないので、反モルモ
ンを自称する方から、皮肉にしろ、そういう言葉を聞けるとは、驚き
です。でも、聖霊を否定してるわけではないるうさんが歯がみしてい
ることはないと思いますよ。むしろ、魔術師志願者である私の方で
しょう。

 そういえば、数学者で紙に“く”の字を書き、そしてくっついたと
ころが外に出るようにして円を描き、「この円の中において、2つの
直線は平行である」と言った人がいるそうです。“生きている間”と
いう円の中、「解釈については平行線」でしょうね。

Name : じった Time : (99年1月8日<金>15時44分)


re:わが信仰義認論B

>どこまですれば後は神様が埋めてくれるの?ってことが分からない
>んですよね。これが!

 そうですか。確かに、無理している人が多いですね。例に挙げた女
の子で言えば、押してダメだから引いてみる人、箱から出して運ぼう
とする人、さらに手を考える人...いますね。無理している/無理
だと思った時点で、精一杯やっているんじゃないですか。また、不完
全から完全はレベルの問題ではなく、希望です。私にとってはね。す
なわち、「人はダメな存在なんだ。ただの塵なんだ。神の慈悲がなけ
れば生きている価値もないんだ」(と、私は理解しているし、こう
いった類のことをよく聞いた)伝統的キリスト教の教えより、「神の
慈悲により、人には無限の可能性がある。あまつさえ、神となる可能
性まである」という方が、希望が持てるんですよ、私は。個人的な好
き嫌いのレベルになってますが、私にとっては“教会は”そんなもん
です。もっとも、今は信仰もそんなもんになってきてますけど。


>それは仏教とかでも既に言ってる事です。罪の救済者って教えは不
>要なのです。

 ふむ。浄土宗は絶対他力であり、ただ、「南無阿弥陀仏」と弥陀の
慈悲にすがれば極楽に往生できると、法事の時に聞くんですけどね。
キリストを信じるだけで救われるという、キリスト教と何ら変わりは
ないと思います。これによると、弥陀は罪の救済者だと思います。ま
た、釈迦の入滅後数億年で、須弥山で修行中の弥勒菩薩が、修行を完
成し如来位を得、釈迦が救いきれなかった一斉衆生を救いに来るとい
う宗派もありますから、これも弥勒が救済者ですよね。すなわち、モ
ルモンの教えだけが仏教ですでに言われていることではなく、キリス
ト教の説くところもすでに言われていることです。
 また、宗教なんて、所詮人間が考えたものですから、似たり寄った
りになるもんじゃないですか。黄金律だって、孔子(?)が先に説いて
いるのですから。


>それと100%の努力って可能?そうしたしないと救われないって行為
>主義が被害者を生んでるのです。

 私が理解している限り、人はイエスの贖罪によって贖われているの
ですから、救われているわけです。ただ、より上位の段階に達するた
めには、努力を惜しんではいけない、ということと、私は理解してい
ます。
 100%の努力?可能じゃないですか?要は、どこで100%と線を引くか
でしょ。その物事に対して100%の力を注ぐ必要はない、と思いま
す。なぜなら他にもしなければならないことがいっぱいありますから
ね。しかし、1つの物事に対して100%の力を注ぐことを求めてい
る人が多いのも事実です。これを教会の構造的問題と呼ぶのはもっと
もだと思いますが、教えそのものが間違っているというのは、ちょっ
と違うと思います。教え方が間違っているとは思いますし、理解が間
違っているというのも正しいと思います。
 また、“被害者”といわれると、私の遠い親戚にカトリックに入信
した人がいますが、彼の祖父の葬式の時、仏壇には手を合わせられな
いし線香もあげられないといっていましたから、彼の祖父もある意
味、カトリックによる被害者ですね。可愛がった孫に、線香の一本も
あげてもらえないんだもの。

Name : じった Time : (99年1月8日<金>16時29分)


わが信仰義認論@

>私の言い回しは難しいですか?

 ここに関しては、難しいです。


>ペトロがイエスを否定してないって?「知らない」と三度言った事
>が否定ではない?

 だから、「イエスはキリストでない」と言いましたか?「知らない」
とは、「イエスという人物を知っていない」ということですが、確かに
「イエスがキリストかどうか知らない」という意味でとらえれば否定し
ているでしょうが、「イエスという人物とは面識がない」というのは、
自分自身の知識に対する否定であり、イエスに対する否定ではないと思
います。イエスのキリストという属性を否定したものでない以上、「背
教」と言われるほどのものではないと思います。


>非公式な話ってどうやって皆さんに入ってくるのですか?

 噂とか、たまたま出席したユニットで話を聞けたとか、そういうとこ
ろで入ってきますよ。また、地区大会なども、教会全体としては非公式
だと思います。


>(参照:素顔のモルモン教264頁)

 これはどこで手に入れられますか。書店で手にはいるなら、ISBN番号
を教えて下さい。


>それと、イエスが十字架の前に教会を作ったのも「教義」です。わた
>しはてっきりあなたがイエスの山上の変貌の個所を引いて、そこで神
>権の鍵を受け、イエスがバルヨナ・シモンを「教会の岩」としてペト
>ロと名づけた事を引いて「教会はイエス自身が設立された」って反論
>すると思ってましたが・・・

 ん〜?私はペテロと「この岩の上に」の“岩”は別で、「この岩の
上」の“岩”は「福音」である、と聞いていましたが?つまり、福音の
上に教会を建てると言ったのであり、ペテロの上に立てると言ったので
はない、そう聞いています。インスティテュートで聞いたことですか
ら、これが正式な解釈だと思うのですが…。また、ここで神権の鍵を受
けますが、彼らはまだ聖霊の訪れを受けておらず、ジョセフが教会設立
までにたどった過程と照らし合わせても、ここではまだ条件がそろって
いないと思います。


>それと従って来た中からペトロを選抜したのではありません。ガリラ
>ヤ湖で網を打ってるところをイエスが声をかけて召されたんです。

 そうなんですが、その時に12人に召し出されたのでしたか?確か、
「12人を選んで送り出した」と書いてあったと思うのですが。聖書も
モルモン書も読まなくなって久しいから、あまり覚えていないなぁ。

Name : じった Time : (99年1月8日<金>17時05分)


わが義認論C

モルモンの普遍化の議論には食傷です。
カルトは他のキリスト教も通ってきた道だというのは単なる普遍化してその歴史の汚点を森に木を隠す式の論法です。しかし、モルモンのカルト性については「過去のカトリックと同じように、若い間に血気盛んなのは、歴史が繰り返されているだけのように思います。また、キリスト教会のインディアンやアイル人種への伝道は、今のモルモンの伝道方法と似たり寄ったりではないでしょうか。」と不充分な理解に終わっています。あるいは教団自身と同じように隠蔽してるのでしょうか?
モルモンはネイティブ・アメリカン伝道に際し、結婚していてもかまわないので彼らと通婚し子供を作りその子らの肌を白くするようにと勧めてたのです。これがどれだけ欺瞞に満ちた不道徳な宗教的行為かはいうまでもないでしょう!また、モルモンが非常に暴力的な教団で、開拓の時代に多くの信徒が言われない理由でダナイト団などに粛清された事も既に高橋の著作や論文で明らかになっています。
モルモンは信徒には教団が被害者であると歴史をうまく捏造していますがそう隠しおおせるものではないのです。もうひとつ大切な事はこの捏造し隠しとおそうとする卑しい精神であり、そこには「悔い改め」などは微塵もみられないのです。モルモンが変わって来たというのはそれは森孝一氏が「宗教から読む『アメリカ』」で述べられているようにアメリカ社会に同化を計り一定レベルで成功を収めたという「現世との妥協」であるのにすぎないのです。
 さて、「へぇ!モルモンが正しいんですか!私はキリストであるイエスは正しいと思うけど、モルモンが正しいとは思っていない」とのご意見ですが、ではモルモンは間違っているがモルモンの教える行為主義とかキリスト感は受け入れるわけでしょうか?モルモンにはそんなあいまいなものが許されてるんでしょうか?だって、モルモンが唯一真実ってゆうのはそれ自体がモルモンの教義でしょ?だからジョセフの見神もあるわけです。


http://www3.osk.3web.ne.jp/~hidekio/

Name : るう Mail : hidekio@osk3.3web.ne.jp Time : (99年1月8日<金>22時16分)


わが義認論D

私が言いたいことはモルモンの教えにはキリストの贖罪が不要であって、あえてキリストを導入したのは単なる「耳障りを良くする」ための便法であるとの事です。阿弥陀信仰とか弥勒信仰を(弥勒は須弥山ではなくトソツ天です)キリスト教と関連付ける話はここではいいでしょう。なお、西方浄土信仰はキリスト教の影響であるとの説もあり、発祥の時期からもみてキリスト教が先行してますね。
問題はあなたの信仰のことではなく、モルモンの教義がはっきりと戒めと儀式で救われるって言ってる事です。それが世間一般の宗教と変わらない。だから、阿弥陀信仰の方がモルモン教よりはキリスト教に近いでしょうね。
「人はイエスの贖罪によって贖われているのですから、救われているわけです。ただ、より上位の段階に達するためには、努力を惜しんではいけない、」と言う事がキリストの贖いに条件をつけてるんですよね。上の段階に進むには戒めと儀式ってのがあるわけでしょ。そこには到底人には成しきれないそれこそ「黄金律」なんてのがあるわけです。それに、思っただけでも「姦淫」といったキツイ罪の宣言もある。100%の努力が可能って言う自信は立派ですが・・・普通、常識ではこれは厳しいって思いが心を占めるんではないですか?それを構造的な問題と言ってるわけです。カトリックのお話ありがとうございます。たいへん残念な事です。この経験を普遍化することなくモルモンでこうした悲しい出来事が今後は起こらないように、努力をなさってください。
http://www3.osk.3web.ne.jp/~hidekio/

Name : るう Mail : hidekio@osk3.3web.ne.jp Time : (99年1月8日<金>22時17分)


e:わが義認論C-1

>あるいは教団自身と同じように隠蔽してるのでしょうか?

 いえ、不十分な理解です。ただ、引用文書の正確性は信用できるも
のなのでしょうか。


>ではモルモンは間違っているがモルモンの教える行為主義とかキリ
>スト感は受け入れるわけでしょうか?モルモンにはそんなあいまい
>なものが許されてるんでしょうか?

 ええ、そうです。教会は間違っていると思いますが、その教えは受
け入れます。曖昧ですか。でも、主もパリサイ人の言うことは聞いて
も真似はするなと仰いましたよね。また、曖昧だから、“今は”お休
み会員になっているんだと思います。
 ただ、私にとって、行為主義もキリスト観も、これは私個人の好み
の問題なんです。私の家は浄土宗です。私の理解する浄土宗では、弥
陀の本願にすがり、「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に救われる
のです。でも、私はそれが受け入れられない。いずれそうなるのであ
れば、なぜ最初からそうなっていないのか。仏教では六道輪廻を繰り
返し、魂の浄化をもって輪廻から解脱することになっていますが(な
ら、浄土に行ったらどうなるんだ?)、繰り返し死ななければならな
い。私はこの“死”というものに、正確に言うなら死に伴う記憶の喪
失に恐怖します。そして、正確には信じられないのではなく、“信じ
たくない”のです。キリスト教についても同じです。どうしてアダム
が違背したからといって、それに関係していなかったものまで死なな
ければならないのか。不完全に造っておき、「おまえ達は私がいない
と救われないのだ。さあ、私の下に来るがよい。そうすれば救ってあ
げよう」なんて、自己満足の局地じゃない!確かに、造られた恩はあ
るでしょうが、罪を犯すように造っておいて、「その罪を贖ってあげ
よう」、つまり自分の創造の結果を、被創造物の行為による悪とする
なんて、私には高慢チキなナルシストに思えます。それよりも「不完
全なものとして造り、成長する機会を与えよう。条件を満たしたもの
については、さらなる高みへと導こう」という方が、私にとっては
“信じたい”と思えるものです。「全然キリストを理解していない」
と言われそうですね。でも、高慢チキなナルシストという感想は、
LDSに改宗する以前から持っていたものなので、そこのところは
ご理解下さい。

Name : じった Time : (99年1月9日<土>18時37分)


re:わが義認論C-2

 したがって、今の私にとって教会が過去どうであったかはどうでも
よく、“今”なにを教えているか、という方に興味があります。そし
て、森オーナーが「ダリン・H・オークス長老による説教」でコメン
トしているように、『「つくり話」であっても真理』と私が思えるも
の『を語っているという点でその価値を賞賛』します。
 また、行為主義については、私は「行為“主義”」ではなく、「行
為“主体”」と感じます。逆に尋ねたいのですが、るうさんは教会に
行かないのでしょうか。カトリック教徒もプロテスタント諸派の信者
も、毎週のように集会に行くのではないでしょうか。その“行為”
は、なぜ行っているのでしょうか。あるところで「行動に駆り立てる
信仰」という言葉を聞きました。信仰が“教会に行く”という行動に
駆り立てているのではないでしょうか。あるところで、「私たちが必
死の思いで毎週教会へ行っているなんて、彼らには理解できないので
しょうね」と仰った方がいらっしゃいます。なぜ、必死になって教会
に行くのか、その必死の思いこそ、信仰ではないでしょうか。確か
に、信仰よりも行為を声高に叫ぶのには問題がありますが(これを教
会の構造的問題と仰るのでしたら、それは賛成します)、行いのない
信仰が死んだものであるなら、信仰による行いは、信仰の当然の産物
ではないでしょうか。「信仰による行い」を求めること、すなわち、
行動に駆り立てるまでの信仰を求めることは、確かに信仰は個人のも
のでありよそから強要されるものではありませんが、そんなに執拗に
なるほど間違ったものなのでしょうか。

#須弥山は都卒天の下にあるんですね。ありがとうございました。

Name : じった Time : (99年1月9日<土>18時37分)


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