毎日新聞(大阪版)8月24日の記事

毎日新聞大阪版のモルモン教紹介記事の最終です。
英国伝道の実体、多妻結婚開始の経緯、モルモン戦争とジョセフ・スミスの『殉教』の真実など述べられています。天理教などへの偏見は問題があるでしょうが、「我が国の新興宗教に比べて少しも高尚なものはない」と喝破しているのは極めて的確です。

記事画像

英国への伝教 千八百三十六年には数人の宗徒を英国に派しマンチェスター、リバプール、バーミングハム、リーヅ、グラスゴー等の労働社会に向つて説法し多数の信徒を得たるも其翌三十八年にはスミスの設立せるカートランドの銀行全く失敗しスミスもリツグドンもミゾーリ州カドウエル郡に向つ逃亡するの止むを得ざるに至れり。
内外多難 この時に至りスミスは依然として放逸無慚(ほういつむざん)の行を改めず、宗内の人心漸く離れて苦情の絶間なくミゾーリ一般の人気は次第にモルモンを嫌悪するの傾きを生じ危機に迫ること度々なりしがヤング等の工夫にて一の秘密結社を造り如何なることに遭遇するも終始スミスの身を保護せんと誓約し僅に人心を繋ぎたるが内訌外迫いよいよ甚だしく殆ど内乱の状(じょう)を呈したれば州知事は止むなく民兵を招集して教徒を鎮撫するの手段を取れり。然るにスミスは毫(ごう)もこれを憚らざるのみならず、却て教徒に兵器を持たしめて官兵に抵抗せり。
スミスの入牢 然れども少数の信徒、争(いか)でか優勢なる民兵に敵せん。スミス軍破れリッグドンと共に捕へられ叛逆、殺人等の罪名をもつて入牢の身となりしかば信徒等千五百人ミゾーリを去りて隣りのイクノイス州に入り此処において更に土地を拓き村落を成し市街の経営を始めたり。スミスこれを聞き潜かに獄を脱して同地に赴き当時同州の開拓尚草昧(そうまい)に属せしに乗じ巧みに州知事を籠絡して開墾の特許を得、モルモン部落だけは一切の権力をスミスの手に掌ることとし、部落政庁頭領、新市街の市長等の職務を兼ね行ひて、再び威勢を振ふこととなれり。然るにその多年放逸の応報は此時遂に廻り来たり図らずも憐れむべき最期を遂ぐるに至れり。
一夫多妻の始まり 是より先き、スミスは或一婦人に迫り手己と同居せしめしが、本妻の怒甚だしく信徒中にも大にその行を非(な)らすものありしかば、又例の如く神託を受けたりと称し、千八百四十三年七月十二日公然多妻主義の神意に協ふ旨をとなう唱ふるに至れり。是(ここ)においてか信徒中の不平一時に爆裂し轟々として議論するものの多き中にもスミスの旧友をもつて目せられしドクトル、フオスターなる人、その発行する新聞紙上をもつて大にスミスの非行を攻撃せしかば、流石(さすが)鉄面皮のスミスもこれに堪へず、窃(ひそか)に信徒中の乱暴者を使嗾(しそう)しフオスターの新聞社に乱入せしめ、印刷機を破壊したる上に同人を強ひてモルモン部落外に放逐せしめたり。是においてフオスターも大に憤り州庁訴え出でスミスの捕縛を求めたり。州庁よりは直(ただち)に其手続に及びたるにスミスこれに応ぜず因って又民兵を収集してスミスの部落に向はしめたるにスミスは大胆にも却てその部下の壮丁(そうてい)を集め再び官兵に抵抗せんと試みたり。然れども州知事は只管(ひたすら)無事を希(こいね)がひスミスに説きて兵を撤せしめ、尋常に法廷に出でて裁判官の審問を受けしむるやう尽力したるにスミスも戦争になりては到底協(かな)はじと思ひけん。遂に其理解に服しハイラムといへる使徒と共に捕はれて牢獄に入りたり。是れ千八百四十四年六月二十二日のことなりしが其夜何者とも知れず多数の暴徒獄舎に乱入しスミスおよびハイラムを銃殺し何処ともなく退散せり。
モルモン宗の起原は概略右の如きものにて我国の天理教蓮門教に比し毫も高尚なるところなし。然るに彼のブリガムヤングなるもの非凡の忍耐と才略をもつてスミスの死後その教(おしえ)を広め幾度か居所を逐(お)はれ遂にユタ州のソートレーキ地方に移りて一部落を建て今日の盛況を呈するの基を開けりとの顛末を詳叙(しょうじょ)するは余りにくだくだしき嫌(きらい)あれば暫くここに擱筆(かくひつ)しモルモン宗日本布教の模様によりて更に記すところあるべし。  (完)

戻る