毎日新聞(大阪版)8月21日の記事(2)

明治34年8月21日の毎日新聞(大阪版)の記事は一面以外でも「モルモン宗」の紹介を行っています。英文資料でさえ入手困難な時代にしれは大変詳しい内容です。
金版のサイズや翻訳の様子、見証者の事など唸らせられます。ジョセフ・スミスを「横着者」と評しているのは現代語のニュアンスからしてもなかなか上手いと思えます。

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 ●モルモン宗
モルモン宗の名は疾(と)くに日本人間に伝はりたれども多くは唯その一夫多妻をを実行するものたるを知るのみにて果して如何なるものがモルモン宗の本体なるやに至つてはこれを知るもの極めて稀なり。よつて茲(ここ)に少しくその由来を記さんにモルモン宗は矢張り
耶蘇教の一派
にしてその開祖の名をジョーセフ、スミスといふ。スミスの親は始め北米合衆国ヴアモント州ウインソン郡シヤロンといへる所に住したる貧農にて千八百五年十二月二十三日、同村においてスミスを産めり。その後一度ニューヨーク州ウェイン郡パルミラに移住し千八百九年即ちスミス四歳の時に再び同州のマンチェスター村に移り住めり。スミスの両親は性質あまり宜しからざる方にて、且(かつ)教育もなき者どもなりしかば、スミスも成長するに従ひ漸く農業を覚ゆるのみ。無教育にて別に取り所もなき少年なりしが十五歳の頃より屡々(しばしば)神託の下るよしを言出し、中にも千八百二十三年九月二十一日の夜には神使(しんし)モロニ三度スミスの枕辺も現れ、マンチエスターを距(さ)る数哩(マイル)のところに耶蘇教聖書の付録ともいふべき西大陸の聖書が土中に秘蔵せられ居るよしを告げたりとの事にて、何となく人の注意を呼起せしが、それより四年の後、同人は形の如く斎戒(さいかい)して神使の教へたるところに行き一個の石函を掘出しその内より薄き黄金を以って紙とし三個の黄金環(おうごんかん)をもつて綴りたる書冊、厚さ六吋(インチ)長さ八吋幅七吋なるものを得たるに、その文字改良埃及(エジプト)文字にて何人もこれを読む能はず。唯スミスは霊の神使よりウリム、サムミムと称する不可思議の眼鏡を与へられその眼鏡を透してその書を読めば意味自(おのづか)ら判然すと言振(いひふら)せり。然どもスミスは無学にして文章を書くこと能はざれば、ヲリバー、カウダリーといへる男をしてスミスが幕の後より朗読するところを筆記せしめ一冊の書物を作り、マーチン、ハルリスといふ小金ある農夫を語らひてこれを出版せり。比(この)書物こそ即ちモルモン宗の経文と尊ばるる「バイブル、ヲブ、モルモンス」にして、其(その)巻頭には右のカウダリー、ハルリス及びダヴイッドホイットマーの三人がスミスと同じく神使の許を得て黄金の原本を一見したる旨を記したれば、近隣の愚民の中には漸くスミスの言を信ずるもの出来(いできた)れり。

経文の内容
モルモンの経典は彼(か)のベーベル塔下に集まりし人種が言語の錯乱により四方の分散したる内の一隊が亜米利加に渡来せし顛末より、耶蘇紀元前五年までの経歴を記しその種族中堕落のため神罰を.受け皮膚暗黒色の人種を生じたる事、この暗黒人種遂に白人を滅ぼし尽くす事、白人中その難を逃れたるモルモン其子(そのこ)モロニなるもの比(この)顛末を記して後世に伝ふるといふ事、数百十年を経たるのち一の予言者出で来、比(この)経典を掘出すべき事等を記しあり。スミスは即ちこれによりて開宗(かいしゅう)の大聖人を自任せるものなるが其実(そのじつ)モルモンの経典なるものは
一篇の小説
にして著者はソロモン、スポールヂングといへる文才ある耶蘇の宣教師なり。スポールヂング、この小説を著はしたれども出版せずして死去し、その原稿シドニー、リッグドンといへる人の手に渡り居りしを同人よりスミスに与はたるものなりとの事にて、彼の黄金の原本を見たりと宣言せる三人も後来(こうらい)モルモン宗を止むるに当り、実は申合(もうしあは)せたる詐(いつはり)なりしよしを世人に告白せりといふ。さればモルモン宗の起こりは全くスミスの横着者が一篇の小説を種に愚民を瞞着(まんちゃく)し、天晴れ聖人に成り済まさんとするの野心に出でしものに違(ちがひ)なく、或(あるひ)は右のリッグドンなどが黒幕となりスミスを操りたるものなるやは判然ならざれども、兎に角にその初は荒唐無稽なる浮説(ふせつ)をもつて愚人の心を迷はしたるものにて、我国にて言へば一寸(ちょっと)天草騒動の類なり。即ちスミスは恰(あたかも)も天草四郎時貞の役を勉めたるものなるが、ヤングといへる森宗意軒(もりそういけん)の出るに及び売僧(まいす)の羽翼(うよく)漸く成り米国中を飛廻(とびまは)りて大騒動を惹(ひき)起すに至れり。 【つづく】

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