テルマ・ギアーが語る「マウンテン・メドウの大虐殺」
淑徳大学 教授 高橋 弘

管理者から
本記事は勇気と真実の会の会報4号〜6号に連載されたものを筆者である高橋先生のご厚意によって一括掲載したものである。
本稿はまた、2006年1月に先生より加筆をいただいた。

 

 テルマ・ギアーテルマ・グラニー・ギアー(19161999)はアメリカ南部、南西部では、モルモン教徒として育てられた自分の半生を飾らずに語るおばあちゃんとしてちょっと有名な方で、エド・デッカーの映画『ゴッド・メーカー』にも出演している。テルマの曽祖父は、あの悪名高い「マウンテン・メドウの大虐殺」に関わり、教団からスケープ・ゴートにされ処刑された失意の人ジョン・D・リーである。テルマは幼いときから祖母やその妹(二人はリーの本当の娘)から様々な話を聞かされて大きくなった。しかし、次第にモルモン教の奇怪な教理や慣行、血なまぐさい歴史に深く失望し、モルモンの信仰を失う。紆余曲折の後、真のキリストに出会うという経験を経、それ以降、モルモン教徒として育てられた自分の半生を、またモルモン教の人間が神になる等の秘密の教理・慣行を、そして曽祖父リーの生涯を追及し、それを率直に人々に語り継いでおり、その率直な語り口や、飾らない人柄ゆえに人々から愛されてきたおばあちゃんであった。

 テルマの曽祖父は、前述したように、「マウンテン・メドウの大虐殺」に直接関わり、後に教団からスケープ・ゴートにされ処刑されたジョン・D・リーである。すでに「マウンテン・メドウの大虐殺」は、ウェッブ・サイト「モルモン教は信じるに足るか?」の中の「モルモンの隠れ教義」に、また「新興宗教を考察するページ」にもごく簡単に書かれているが、詳細はまだ日本語になっていない。そこに紹介されている内容は私が研究してきたことと若干の相違がある。

 事件のあらまし

 事件は1857年9月、ユタ南部で起こった。アーカンソー州からカリフォルニアに向かう移民の一行約40家族(ファンチャーというリーダーによって導かれていたので、この一行はファンチャー隊と呼ばれていた、その人数は140人ほど)が、旅の途中でモルモン教徒とインディアンに襲われ、幼い子どもを除く全員が虐殺され、そのすべての財産を奪われるという事件である。開拓民を襲い、その金品財貨を略奪するという山賊まがいの行為が宗教の名によって行われたのである。モルモン教会は今日に至るまでその関与を否定し、それは一部モルモン教徒の逸脱的行動としている。そのため、この事件にかかわった人物としてジョン・D・リーは、1870年にその責任を取らされ教団から破門され、1877年に銃殺刑になっている。リー自身は教団トップの指示によって実行したことを主張、自らは教団のスケープ・ゴートであると語っている。この事件についてはアメリカ議会報告書をはじめ様々な本や記録が出版されているので、その本格的な研究がなされれば膨大な研究書になるであろう。

 最近の法医学による殺された方々の遺骨の調査によれば、開拓者の死因は銃弾によるものと鈍器による強打であり、その結果、インディアンは開拓者の死に間接的にしか関わっていないことが解明されている(これで教団の主張がまた一つウソであることが明らかになった。 Christopher Smith, Forensic Study Aids Tribes View of Mountain Meadows Massacre, The Salt Lake TribuneJan 21, 2001)。この事件の経緯は、いずれ私自身の研究を活字にしてお目にかけたいと思っている。

 事件の背景

 この事件の背景を知るには、高橋の「ユタ準州開拓史」の一読をお勧めしたい。背景にある史実の要点をまとめると以下のようになる。

 1847年、モルモン教徒によるユタ開拓が開始された。1850年、ユタは準州として承認され、翌51年、ブリガム・ヤングは準州の総督(知事)に任命された。同時に連邦から非モルモン教徒の国務長官や最高裁判所長官などがユタに派遣され、連邦政府とヤングをはじめとするモルモン教団との摩擦が再燃する。その結果、連邦役人は生命の危機を感じ、数ヶ月の後、ユタを去った。52年、モルモン教団は「多妻婚」の教理・慣行を公表し、教団の新聞に掲載。1854〜55年、ユタのモルモン教徒は飢饉による深刻な食糧不足に陥る。その結果、信徒のモラルが著しく低下し、財産や土地をめぐる争いや、聖日の無視、性的逸脱や盗みが横行した。教団は、いわゆる「モルモン・リフォーメーション」と呼ばれる、教団リーダー主導による極めて暴力的な信徒粛清を実行し、暴力によって信徒の服従を強要した。教団の指導に服さない者を「敵」とみなし、おおっぴらに粛清を敢行した。かの悪名高い「血の贖罪」というヤングの教えはこのときの産物である。これは、ユタにおける狂気の時代と言ってもいい(高橋「モルモン教と暴力」を参照せよ)。

 1857年、ときの大統領ブキャナンは、ヤングを解任し、ユタに新しい総督(知事)アルバート・ジョンストンの派遣を決定。ジョンストン将軍は2500名の連邦軍とともにユタに向かっていた。ヤングはこれをユタに対する明らかな侵略と決めつけた。「マウンテン・メドウの大虐殺」は、まさにこうした状況下で起こった悲劇だったのである。

 要点を繰り返せば、@ユタの飢饉と食料不足(あらゆる物資に不足していた)A信徒のモラルの低下と教団による信徒の粛清・暴力的支配。そして、こうした内部粛清による萎縮した信徒の不満のはけ口として、連邦政府を「敵」とみなしそこに信徒の関心を転化するという策略を考えたのではないか B「多妻婚」や連邦軍派遣という連邦との新たな摩擦・葛藤 Cヤング個人の過剰な危機意識(ヤングは疑い深い男であった)。ヤングは新しく任命されたジョンストン将軍と2500名の連邦軍がヤングの逮捕・処刑のための派遣ではないのか、と疑っていた。

  「マウンテン・メドウの大虐殺」(テルマ・ギアーの研究)

 「マウンテン・メドウの大虐殺」はモルモン教会が全面的に関わった残酷極まりない事件であるが、いつものように、教団はその関わりを否定し続けている。そのため、証拠に基づく丁寧な論証が不可欠である。が、今回はリーの末裔であるテルマの研究をみていくことで満足しなければならない。また「マウンテン・メドウの大虐殺」は宗教が関わった史上もっとも残虐な事件であり、この残虐事件に匹敵するのは「人民寺院」のガイアナにおける虐殺事件くらいのものだということを指摘しておきたい。以下、テルマ・ギアーが曽祖父ジョン・D・リーの汚名を晴らすために精魂を傾けて取り組んだ研究内容を極力そのまま伝えたいと思う(末尾で紹介したウィル・バグリーの新しい研究を是非読んでいただきたい)。

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 南ユタのセダー・シティにあるモルモン本部からジョン・D・リーに再び命令が下された。リーの上司、長老アイザック・ハイトはステーキ部長であり、モルモンのアイアン・カウンティ隊(モルモン自警団)の中佐であった。そのハイトからリーに対し、アーカンソーやミズーリーからカリフォルニアへ向かう幌馬車の一行を襲撃し略奪の指揮を執るようにという命令が下ったのである。

「1857年9月7日、ステーキ部長ハイトの命をうけ、ハーモニーの家 を出てセダー・シティへ赴く。彼は私と、ある仕事について秘密裏に話がしたいと言った。われわれは毛布を準備し、古い鉄鉱場に出掛け、そこで一夜を明かした。そこでなら安全に、しかも秘密裏に何でも語ることができたからである。」(ジョン・D・リーの手記より)

  その日、もしもインディアンがこの移動中の幌馬車の一行を襲うということなら、本部は認めてくれるだろうという合意に達した。また、彼らがインディアンをけしかけてこの一行を襲わせ、家畜や物品を略奪する、ということで意見が一致した。リーの手記は続く

 「ハイトは、クリンゲンスミスの他数人を、そこのインディアンたちを唆し、西に向かっている一行を襲撃させるために遣わした、と語った。セダー・シティからハーモニーの家に帰宅途中、セダーの二人の酋長、モケタスとビッグ・ビルに率いられたインディアンの一行に出会った。インディアンたちの顔には戦いのときの化粧が塗られ、武器を手にしていた。私が近づくと酋長は立ち止まり、ハイト、ヒグビー、クリンゲンスミスと話し合いをしたと語った。そして、幌馬車隊の一行を追いかけ、彼らを殺害し、その財産を奪え、と命令されたと語った。インディアンたちは、私に一緒に来て指揮を執るよう欲したが、しかし、私はハイトの命令で別のインディアンのところへ行って、援護の手はずを整えねばならないので、今夜は同行できないと告げた。そこで、我々が別のインディアンとそちらに行くまで、先に行ってキャンプをはり、待っていてくれるように、明日は必ず合流し指揮を執るから、と約束した」(ジョン・D・リーの手記より)

  そうこうする間、モルモンの指導者たちはインディアンとか、モルモン教徒たちに、襲撃をけしかけることで多忙であった。 

 ジョン・D・リーの妻レイチェルの日記(1857年8月16日付)には、次の記述がある。使徒ジョージ・A・スミスの一行がその日ハーモニーにやってきて、翌日スミスと一緒に来たモルモン兵が戦闘態勢でパレードを行い、ハーモニーのモルモン自警団の高官にたいし、「自警団をいかに訓練すべきかを教えた。パロワンのマーティノーがその指揮を執っていた。夕刻7時に全員が集まり、そこで使徒ジョージ・A・スミスが演説をぶち、アメリカ合衆国がモルモン教徒にたいして抱いている精神―敵意と甚だしい悪意―について語った。そして集まった者が全員、父なる神の名によって喜んだ」。

 使徒ジョージ・A・スミスはハーモニーの自警団にたいし新しい高官を任命したり戦闘の志気を高めたりしたが、使徒スミスはジェイコッブ・ハンブリン宛の重要な書簡をも携えていた。ジェイコッブ・ハンブリンはジョン・D・リーの数多い義兄弟の一人である。

 この書簡は1857年8月4日付けのブリガム・ヤングの書簡であり、ジェイコッブ・ハンブリンにモルモン教会のサンタ・クララ・インディアン・ミッションの責任者になるようにという任命書であった。ハンブリンは書簡の内容に忠誠であるべく宣誓をさせられた。

 「直ちにヤングの任命を受け入れ、その任に就くこと。ハンブリンがかねてから(ブリガム・ヤングに)進言していたように、インディアンとは宥和政策を継続し、適切な関係をとることによりインディアンの友愛と信用を獲得すること、なぜならインディアンはモルモン教徒を助けなければアメリカ合衆国はモルモン教徒とインディアンをともに滅亡させるということを知らなければならないからだ・・・ こうした目的のために兄弟たち(インディアンのこと)の心と一体になるよう努めねばならない、そして友愛と一致の聖なる絆で結ばれ、すべてのインディアンがハンブリンの指揮下に入るように努めよ」

 この書簡には他にも多くのニュースが含まれていた。そこには

 「ユタ準州に州政府高官にかんする、すべての要職に連邦政府の役人が任命されたこと、これらの高官たちは2,500名の連邦政府常備軍を引き連れていること。彼らは7月15日にリーヴェンワース砦を出立したこと・・・
 また新しく入った報告では、私(ブリガム・ヤング)を、裁判によって、または裁判なしに、絞首刑にすべきかどうかという疑義を抱いていること。他にもモルモン教徒30人余りが疑惑の対象であること」

   目前に迫った戦いにインディアンを動員し彼らに一肌脱いでもらうという責務遂行に熱心だったジェイコッブ・ハンブリンは、ブリガム・ヤングに相談するためその地域のインディアンの酋長たちを連れソルトレーク・シティに赴く。『ジャーナルに見るモルモン教会史』には、1857年9月1日付で、「ジェイコッブ・ハンブリンは大管長ヤングと会うために12人のインディアン酋長とともにサンタ・クララ・ミッションからソルトレーク・シティに到着・・・・・・大管長ヤングはインディアンたちと一時間の会談をする」という記述がある。記録によればブリガム・ヤングは、「われわれモルモン教徒を援助しなければ、合衆国はわれわれモルモン教徒とインディアンの両方を殺害するであろう」とインディアンを説得したという。その7日後、インディアンの酋長たちと400名の勇敢なインディアンたちは、わが曽祖父ジョン・D・リーほか53名のモルモン教会のリーダーたちに加わり、マウンテン・メドウズにおいて移動の途上にある移民(開拓民)の一行を襲撃した。

 熾烈な戦闘が始まった。しかし移民たちは幌馬車で円陣を組み勇敢に反撃してきたので、モルモン教徒とインディアンたちは驚いたのだった。移民たちは家族と自分たちを守るため必死の抵抗を試みたが、それがまるまる5日5晩に及ぶ苦しく恐ろしい戦いになった。短時間で簡単に決着すると思っていた襲撃だったが長引く消耗戦に疲れ果て、いったん退却し、教会の「戦争会議」を開いて協議を行い、この戦闘をいかに短時間で終結させるかが議論された。かれら移民たちを堅い守りからおびき出し、予め計画していた略奪を決行するため、モルモンの指導者たちは一計を案じた。それは移民たちに、もしも武器を渡し彼らの身をわれわれに任せるならセダー・シティまで安全に警護しよう、という誘いであった。恐怖におののき戦闘に疲れきっていた移民たちとその家族は、提案してきたモルモン教徒が白人であり、きっと友好的でインディアンから自分たちを護ってくれる味方に違いないと信じ、その提案を呑んだ(襲撃したのはインディアンたちとインディアンに変装したモルモン教徒だったから、移民(開拓民)たちはインディアンに襲われたと勘違いをしていたのである)。

 こうして移民たちは塹壕から出て、それぞれの男性開拓民の横に一人のモルモン教徒が張り付き、キャニオン(渓谷)を一列になって歩いた。それから、「Boys, do your duty」という予め決められていた暗号の言葉が出されたとき、モルモン教徒たちは銃をもたない無防備な移民に一斉に襲いかかり、冷血にも移民たちを虐殺した。またモルモン教の長老たちはそれまでの銃撃戦で負傷し幌馬車の中で手当てをうけていた移民たちをも襲い全員虐殺した。また恐怖でおののき逃げ惑う女や子どもたちに対してはインディアンに殺害させ、その頭皮を剥がさせた。モルモン教徒が「罪のない魂の血」を流した責任をとらずに済むためであった(また、この事件がインディアンによるものであるようにカムフラージュするためであった)。

 このとき合わせて127名の男、女、子どもが、常軌を逸したモルモン教の長老たち―すなわち彼ら全員がその地域の指導的長老や監督であった―の手によって、またモルモン教徒によって獲物の家畜を奪うことを唆されたインディアンの手によって、無慈悲にも殺害されたのである。「マウンテン・メドウズの虐殺」として知られている、宗教指導者によって実行された卑劣きわまりない皆殺しの虐殺事件が、アメリカの歴史始まって以来前例のないもっとも血なまぐさく、もっとも冷酷な事件として記憶されている。これに匹敵するのは近年になって起きたガイアナにおける「人民寺院」の集団虐殺事件くらいなものだろう。

 この惨たらしい虐殺事件の直後、モルモン教徒たちはインディアンたちの食事ために、移民たちの家畜を殺し調理してインディアンに振る舞った。そうしてインディアンを食事に引き止めている間、他のモルモン教徒たちは移民たちのキャンプ地で所持品を略奪していたのである。彼らは騒々しく歓喜の奇声を発しながらポットやなべ、皿や衣服を漁っており、また他の者らは渓谷に冷たく血だらけで横たわる開拓民から、衣服、靴、金銭、時計、ナイフ、その他の貴金属を剥ぎ取っていた。そしてモルモン教徒を助けた勇敢なインディアンたちには豪勢な食事と略奪品の一部が提供された。

 翌日、戦闘による山のような略奪品―すなわち、多数の牛、幌馬車と馬、家財道具、宝石や貴金属、そして揺れ動く馬車のベッドの中に一つの固まりになって、目前で親を殺されあまりの恐怖と悲しみで泣きじゃくる17人の移民たちの幼い子どもたち(この子どもたちが助かったのは、まだ幼少なので決して虐殺者を訴えることはないだろうという理由による)―をセダー・シティに運ぶ、血しぶきが付着し疲れきったモルモンの長老たちの姿は、おぞましく陰鬱な光景だったに相異ない。これらの子どもたちは、彼らの両親を殺害した、しかし良心の呵責にさいなまれたモルモンの長老たちの家庭に引き取られていった。

 また、この虐殺のかかわったことによる罪の意識にさいなまれたせいなのか、セダー・シティのモルモン教会には虐殺された移民から略奪された品々が奉献されたという。高名で、初期のモルモン教の歴史に詳しい歴史家ジュアニタ・ブルックスは、この虐殺事件がセダー・シティの人々にいかに深く影響を及ぼしたかについて述べている。

 「什一献金を収める事務所のまえに置かれた幌馬車や、多くの家庭に引き取られた孤児たちの姿が、セダー・シティの総てのモルモン教徒たちにマウンテン・メドウズにおける悲劇をつねに思い起こさせた・・・
 いまや什一献金を収める事務所の棚には、サイズ毎に紐でくくられた多くの靴と、様々なキルトや毛布、種々の調理道具や皿や、衣服が置かれていた。そして、かつて血だらけだったシャツやドレスの話―何度も繰り返し水洗いと石鹸洗いされ、アイロンがかけられたシャツやドレスの話が、また、その仕事を命じられ、気持ちが悪くなって卒倒しそうになったけれど、気丈にも口をかたく結び、ただ黙々とその仕事をこなした女性たちの話が、ヒソヒソと小声で交わされるのだった・・・」(Juanita BrooksJohn Doyle Lee, p.225)  

 

 今まで述べてきたことは、特に断り書きがないものは、すべてテルマ・ギアーの書いたものを翻訳・紹介したものである。テルマの述べていることは、その後モルモン教会の「スケープ・ゴート」として処刑されたジョン・D・リーの妻たちやその子どもたちによって語り継がれてきたこと、すなわちリー一族に伝わってきた口伝えの伝承であるが、そこには、最新の研究によって明らかにされた成果からすれば誤った記憶であることが多々ある。

 それはたとえば、リー一族に伝えられている「マウンテン・メドウの虐殺」の物語では、移民の男たちを襲って殺害したのはモルモン教徒であったが、婦女子を殺害したのはインディアンだった、という言い伝えである。最近の発掘と頭蓋骨等の検死結果は(註1)、婦女子も銃弾によって殺害されており、婦女子を冷酷に殺害したのもモルモン教徒だったこと、この「マウンテン・メドウの虐殺」にインディアンは間接的にしか関与していなかった、ということを明らかにしている。

 ところで、テルマのように、ジョン・D・リーの直系の子孫であるにもかかわらず、では、なぜ誤ったことを聞かされてきたのかということが疑問になるであろう。それには多くのページを割いて説明する必要があるが、一言でいうなら、リーが忠実なモルモン教徒として振る舞い続けたところに直接の理由がある。当時のユタでは信徒なら誰でもそうであったが、リーはヤングに忠誠を誓い、ヤングに不利な情報を家族であっても話すことはなかったであろう。すなわちリーに関する情報の混乱は、リーの運命の二重性に原因がある。すなわち、それは「マウンテン・メドウの虐殺」事件以降も永くリーはブリガム・ヤングに寵愛された忠実なモルモン教徒だったということと、にもかかわらず、リーはその後ブリガム・ヤングの状況判断によって、連邦政府からの糾弾をかわすため「スケープ・ゴート」(註2)として教団から破門され、断罪され処刑されるという運命を経験したからである。モルモン教会を愛し、その教会に最大限の忠誠を尽くしてきた模範的信徒が、一夜にして教会から棄てられ失意のどん底に落とされたのである。

ブリガム・ヤングはその独裁的権力をもってユタを全面的に支配し、連邦政府を含めて部外者をすべて敵とみなしていた時期であった。それと同時に、モルモン教会の対外的印象を和らげ、ユタ(モルモン教会)に対する親和的国民感情を育成するために、ヤングはすべての情報を完全にコントロールしていたからである。すなわちブリガム・ヤングは、ユタのすべての信徒を文字通り支配し、対外的方針も自らが決定してきたのである。虐殺事件から13年後の1870年、リーは虐殺事件の責任をとらされてヤングによって教団から破門を受けた。ヤングがリーを破門したのは、この虐殺事件はモルモン教会となんの係わりもないという大管長ヤングのジェスチャーであった。

この間リーとしてもヤングの期待に応え、たとえそれが自分の家族であっても、虐殺事件が教団トップの指示の下に行われたことを口が裂けても語ることはなかったであろう。なぜならそうした口外はヤングへの裏切りだったからである。しかし晴天の霹靂ともいうべき1870年、リーは教団から破門され、虐殺事件から20年後に当たる1877年、銃殺刑に処せられた。断罪と処刑の間の数年間、リーは失意のなかで自らの人生を綴り始める。死を目前にしてもはやリーには虚偽を語る必要がなくなった。リーの自叙伝は、こうして獄舎のなかで死を見つめながら綴られたものであった。

したがってリーを語る場合、どの時期のリーを語るかによって解釈の相違が生じることになろう。リーの THE LIFE AND CONFESSIONSは1877年に出版されており、その後リーの日記も出版された。しかし、家族はリーが直接語って聞かせた物語を代々語り継いできたと思われるが、その物語はリーがまだ教会から破門される以前の忠実なモルモンだった時代のリーが語っていたことである。

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  テルマの手記のなかでもっとも説得力のある部分は、虐殺事件後のセダー・シティを覆った名状しがたい陰鬱な空気を指摘した部分であろう。ソルトレーク・トリビューン紙のマーク・ヘヴンズによれば、百年以上経った現在でも、セダー・シティは得体の知れない陰鬱さで覆われていると語り、「この虐殺事件は今でも近隣の村々に暗い影を落としており、虐殺事件に加わった者の子孫たちは、この忌まわしい事件を早く記憶から消し去りたいと願っているものたちと、正義を行うために闇に葬られた事実をはやく明らかにすべきだと主張するものに、分かれている」という(註3)

 2003年1月、この虐殺事件について画期的な本を著した歴史家であるバグリー氏(註4)は、南ユタ大学での講演でこう語った。「この虐殺にかかわった者たちは、その事件以降とほうもない苦悩に悩まされるようになり、そのためモルモン教会大管長ブリガム・ヤングにこの苦しみをどう解決すべきか何度も助言をお願いした。しかしヤングはこれに対し、嘲笑、恫喝、沈黙で応答した」。

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  以下、テルマ・ギアーの手記から離れ、この虐殺に関する要点のみを指摘しておきたい。

1.計画的犯罪であった

 当時ヤングは、今日の統一教会同様、異邦人(モルモン教徒以外の者)から金品を騙し取ったり奪ったりすることは悪ではなく、推奨すべきこととしていた。モルモンの教祖らは、偽札を使用して正貨や物品を騙し取ろうとしたことは一度ではない。ユタでは「ふらちな悪党がここにやって来たら、そいつらの喉を掻っ切れ」とヤングは信徒を恫喝していた。マウンテン・メドウで殺害されたファンチャー隊は今日の金額では数億円の財産(家畜や金貨など)を持ち、飢饉と物不足に悩まされていたユタのモルモン教徒には、見逃せないカモに映ったであろう。すでに数週間ユタを移動していたファンチャー隊がモルモン教徒に危害を及ぼす連中ではないことを知りつつ、様々なデマをとばして彼らを「敵」にでっち上げ、襲撃したのである(註5)
 計画的であったという理由は、虐殺事件に地域の教団トップ(ニーファイ・ジョンソン)の決断があったこと。当時ユタではヤングの指示なしに何事も為されなかったことを考慮すれば、ジョンソンが教団幹部に相談もなく決断するわけがない。ジョンソンはその後何ら処罰を受けていない。またハンブリンがインディアンの酋長を連れてヤングに会い、その7日後にインディアンの酋長たちがファンチャー隊を襲撃したことである。
 殺害され略奪された財産の多くは、そのまま教会に献上されたわけで、モルモン教会は、こうした歴史を経て、急激に豊かになっていったという指摘もある。
 異邦人からの略奪は、また、モルモン教徒がミズーリーやイリノイで失った財産を奪い返すための正当な行為と考えられていた。したがってブリガム・ヤングの主張では、この世では犯罪と映ることも、モルモンの法(信念)からすれば、信仰に適った行為なのであった。 

2.ブリガム・ヤングの恐怖心

 テルマが述べているように、新しく指名されたユタ準州の総督(知事)ジョンストン将軍と2500名の連邦軍は、ヤングの逮捕・処刑のために派遣されたのではないかと、ヤングは本気で疑っていた証拠がある。連邦役人が追放され、非モルモン教徒はユタから追放された。モルモン教団は西部に神権政治、独裁制をしき、ユタに連邦法と相容れない多妻婚(重婚)を実行し、それを信仰の自由と公言して憚らなかった。
 モルモンの法が世俗の法より優れていると公言していたにもかかわらず、ヤングも本心では自ら連邦法に違反していることを、したがって場合によっては逮捕・処刑もありうることを知っていて、いよいよユタに新総督が派遣されること聞いたとき本心は恐怖でおののいていたはずである。だからこそ、ユタの自警団ともいうべきノーヴー軍を3000人も用意し、自らの逮捕・処刑は何としても避けたいと考え、信徒たちに対立・戦闘意識を高める必要があったし、実際、ヤングはあらゆる手段を用いてそうしたのである。セダー・シティには使徒ジョージ・A・スミスが派遣され戦闘意欲を鼓舞していた。ファンチャー隊は、連邦軍のスパイであるという「デマ」が故意に流され、あるいは使徒パーリー・プラットの復讐を果たすべきだと扇動され、それがモルモン教徒を冷酷な集団虐殺へと駆り立てたのである。

 3.組織的隠蔽

 集団虐殺が終わったとき、虐殺にかかわった地域の指導者たちが自らの行為の重大性に遅まきながら気がつき、精神的に耐えられなくなっていった。独裁者としてユタの信徒をも冷酷に粛清してきたヤングにとって、異邦人を虐殺し、財産を奪うことなど朝飯前のことで、何の躊躇もなかったはずである。ヤングは、最初から「マウンテン・メドウの大虐殺」の隠蔽を画策していた。そして最初からこの虐殺事件はインディアンの仕業だと主張し、モルモン教団の関与を否定していた。しかし、モルモン教徒の事件への関与が否定できなくなったとき、今度は「マウンテン・メドウの大虐殺」は地方の信徒の逸脱行為であったと決めつけ、一人の信徒を「スケープ・ゴート」にし破門・処刑に処し、モルモン教団はその事件とはかかわっていないというジェスチャーをした。結果として、この隠蔽という策略は功を奏し、この難題も一件落着となった。

4.虐殺事件後のヤング

マイケル・クインの研究では、当時、教会史家であったウィルフォード・ウッドラフ(後の第四代大管長)の記録には次のような記述がある。「マウンテン・メドウの大虐殺」の後、その虐殺現場を始めて訪れたとき、大管長ヤングは記念碑に掲げられる碑文には次のように記されるべきだと語ったという。「復讐は我()にあり。私(ヤング)はその(復讐の)ほんの僅かを実行したに過ぎない」と。 

その五日後、虐殺に加わった多くの信徒たちが集まった集会で、ヤングはつぎのように演説したという。「大管長ヤングはこのように語った。マウンテン・メドウズで虐殺された一行は、(モルモン教会の)預言者たち(ジョセフ・スミスや使徒プラッツ)を殺害した者らの父親、母親、兄弟、姉妹、あるいは血縁の者たちであったのだ。だから虐殺はやつらが甘受すべき運命だったのだ。唯一、ヤングの心を悩ませていることは、女たちや子どもたちの生命が奪われたことである。しかし、当時の状況を考慮に入れればそれ以外に(虐殺する以外に)方法はなかったであろう」。(註6)

参考文献

Thelma Granny Geer, MormonismMama Me, Moody Press, Chicago, 1986
Juanita Brooks
John Doyle LeeZealot, Pioneer Builder, Scapegoat, Utah State University Press, 1992
Juanita Brooks, The Mountain Meadows Massacre, University of Oklahoma, 1962
John D. Lee, Confessions of John DLee1880photomechanical reprint of Mormonism UnveiledUtah Modern MicrofilmSalt Lake City
高橋弘「ユタ準州開拓史」国際コミュニケーション学会『国際経営・文化研究』、Vol.7 No.2 2003.3
D. Michael Quinn, The Mormon Hierarchy: Extensions of Power, Signature Books, 1997
 

註1
 調査主任シャノン・ノヴァクによる、虐殺された移民の検死は、元ユタ州知事マイケル・O・レーヴィット(19932003)によって直ちに中止させられた。因みに知事レーヴィットは虐殺に加わったモルモンの子孫である。 

註2
 結局この虐殺事件は全米に知れわたり、モルモン教団にたいする国民の非難と激怒の嵐が起こった。新大統領ユリシーズ・グラントは「マウンテン・メドウの虐殺」実行犯、アイザック・ハイト(クラカワーの『信仰が人を殺すとき』では、イサーク・ヘイト)、ジョン・ヒグビー、ジョン・ D・リーを、懸賞金つきお尋ね者に指名した。

註3
 Mark Havnes, "Historian Speaks on Mountain Meadows Near Site of Incident," Salt Lake Tribune, 2003-JAN-24

註4
 高橋はこれまで、ジュアニタ・ブルックスの『マウンテン・メドウの虐殺』(1962)をもっとも信頼できる研究として参考にしてきたが、つい最近になって、今まで知られていなかった記録を丹念に検証し、ブルックスの説をさらに推しすすめ、「マウンテン・メドウの虐殺」を新しく書き直した研究があることを知った。それはジョン・クラカワーが『信仰が人を殺すとき』にも参考にしているウィル・バグリーの『預言者たちの血−ブリガム・ヤングとマウンテン・メドウズの虐殺』(2002)である。 Will Bagley, Blood of the Prophets: Brigham Young and the Massacre at Mountain Meadows, University of Oklahoma Press, (2002).
  またSally DentonAmerican Massacre; The Tragedy of Mountain Meadows, September 1857, Alfred A. Knopf, 2003 が出版され、その中でデントンは、虐殺はヤングの指示と承認の下に行われたことを当時の資料と虐殺に加わったモルモン教徒の子孫からの聞き取り調査によって明らかにしている。この結論はバグリーとも一致する。

註5
 ブルックスは『マウンテン・メドウの虐殺』で、ヤングがファンチャー隊を妨害せずそのままユタを通過させるよう手紙を書いたが間に合わなかった、と述べ、ヤングは虐殺に関わっていなかったばかりでなく、虐殺はヤングの意図ではなかったと述べた。
 しかし同時にブルックスは、新たな証拠が見つかれば、こうした記述は書き換えられる蓋然性が高いことを指摘している。2000年に入ってから出版された、ジャーナリストや歴史家の手になる「マウンテン・メドウの虐殺」にかんする本(デントン、バグリー)は、40年前のブルックスが叶わなかった新しい資料や証拠を用いたもので、これらの本は虐殺は教団トップが関与する組織的事件であったことを明らかにしている。クラカワーのみが、この点ではブルックスの説をそのまま継承している。

註6
 Kenny, Wilford Woodruff’s journal, 5(25 May 1861), from Quinn, The Mormon Hierarchy: Extensions of Power, pp.252-3