マウンテンメドウの虐殺

はじめに
マウンテンメドウの事件については日本ではあまり紹介されて来ませんでした。ところが、ソルトレークオリンピックの影響もあってユタやブリガム・ヤング紹介の番組が衛星放送を中心に流され、ようやく日本語でその詳しいところを知ることが出来るようになりました。また、英文であればインターネットでこの事件を詳しく知ることも出来るようになって来ました。
今回、衛星で放送された番組「もうひとつの歴史『モルモンの逆襲』」と「バイオグラフィー『ブリガム・ヤング』のふたつからマウンテンメドウの虐殺を紹介して行きましょう。但し、以下の内容は番組の見解に基づくものです。

モルモン戦争
1838年、ジョセフ・スミスはカートランドを追われてミズーリーにやって来ました。そこにモルモン教徒は集結し、カナダからの改宗者も加わってみるみる大きな共同体になって行きました。ところが、やはりここでもカートランドと同様でモルモン教徒と地域住民とは軋轢を生じ両者の関係は最悪なものになりました。モルモン教は「モルモン軍」と言う独自の軍隊と、「ダナイト団」というジョセフの私的な軍隊を保有していました。州知事であったボッグズは市民軍にモルモン教徒を攻撃することを命じ、モルモン教徒と州政府が武器を持って戦うとる事態になりました。そうした中、10月30日ホーンズミルという所に入植していたモルモン教徒が自警団に攻撃され、17人が殺害され、15人が負傷すると言う事件が起こりました。
10月31日、ジョセフら指導者は州に降伏し、11月1日にこの戦争は終結します。この結果、モルモン教徒は州外に追放、ジョセフらはリバティの牢獄に入れられます。(後、賄賂を使って脱獄)これが、所謂「モルモン戦争」なのですが、このホーンズミルでの殺戮はモルモン教徒に消えない記憶として残ったのでした。

ユタ入植後ユタ戦争勃発
ジョセフがカーセージの牢獄で銃撃戦の末に憤死した後、1847年にブリガム・ヤングは教徒を引き連れソルトレークに到着しました。そしてようやく誰にも邪魔されず、モルモンのシオンを築き始めるのです。ところが、辺境とは言えユタも所詮は合衆国国土です。1850年に準州となって以降は中央から派遣されてくる官僚達とモルモン教国家としてのユタとはまたも様々な軋轢を生じて行きます。政府が特に問題にしたのは多妻結婚のことでした。モルモン教徒は神の戒めとして堂々と多妻結婚の実施を宣言していました。
ブキャナン大統領には奴隷制と多妻婚が目下の懸案でした。大統領の周辺は微妙な問題をはらむ奴隷制問題より先にモルモンの多妻婚問題を解決するべきと提案しました。終に政府は武力を持ってモルモンに服属を迫ることになったのでした。
1857年政府は反抗を続けるユタに2500人の軍を派兵します。一方のヤングはそれに勝る3000人の兵を集め、政府と対決する姿勢を示しました。この時、ヤングの腹心ヒーバー・C・キンボールがこう言って戦意を高揚しました。 「私たちは迫害され財産を取られ続けて来た。今、私は体中の血が乾ききるまで戦う。そしてそれを支えてくれる『妻達』がいる」 政府軍とモルモン軍の緊張は将に一触即発でした。

マウンテンメドウの不運な移民達
ちょうどその時、最悪のタイミングでアーカンソーを出発した140人の移民がユタに入って来たのです。一行は45歳の農民アレクサンダー・ハンチャーをリーダーとしたほとんどが家族連れで、一部ミズーリーの出身者を含んでいました。彼らはカリフォルニアを目指しており向こうの鉱山で売りさばくための牛を相当数連れていました。一行はシェラネバダの雪を避ける南回りのルートを取ってたのですが、そのルートはユタの中心を通るものでした。一行は9月6日にシーラ市近くメドウに宿営しました。そこから先はネバダ砂漠であり、ゆっくり休養を取ろうとしたのでした。
モルモン側はエキセントリックになっていました。その年の夏にアーカンソーで使徒パーレー・P・プラットが殺されていて、一行がそこから来ていたこと、憎きミズーリーの出身者が一行の中にいたこと、また、彼らの中にジョセフ殺害に加わったいた人物がいるという噂も流れて来たからです。
シーラのモルモン教徒は一行を攻撃するか、放置するかで悩みます。結局、ヤングに指示を仰ぐべく手紙を出のですが、その返事を待たず、地域を管轄するアイザック・ヘイト、ウイリアム・デーフの二人は軍に攻撃を命じます。(番組ではヤングが関与していない立場を取っていますが
、実際は攻撃を指示していたという説が有力なようです)

大虐殺
ヘイト、デーフの命を受けて攻撃の実行部隊を指揮したのがジョン・D・リーでした。彼は先住民を使って、その中に手勢を先住民の格好をさせて紛れ込ませました。先住民の攻撃に見せかけるためです。9月8日に攻撃を開始、一行の10名程を射殺しました。ところが、一行はひるまず馬車を盾に反撃、リーは返って数十人の手勢を失い、攻撃は失敗します。
そのまま、膠着状態になり、運命の9月11日がやって来ました。一計を案じたモルモン側はリーが白旗を立てて一行の元に出向きました。リーは一行が「先住民に完全に包囲されていて逃げ場がない。生き延びるなら降参し、我々モルモンの保護下に入るしかない」と伝えました。ハンチャー一行はモルモン教徒とは言え同じ白人であるから大丈夫であろうと判断し、リーの姦計に乗ってしまいました。一同が武装解除した所にモルモン軍が表れ一行を思うがままに射殺、大虐殺が始まりました。男達は最初の方で撃ち殺され、その後は女達でした。かろうじて生き延びたナンシー・ハクは
 「(モルモン教徒は)逃げ切れず命乞いする女性の頭を銃座で砕いた」
との証言を残しています。この虐殺で生き残ったのは18人の子供だけでした。こうしてミズーリーの復讐は果たされたのでした。
翌日、デーフが現場にやって来た所、既に約120の死体は先住民によって身包みはがされ、腐乱が始まって異臭が立ち込めていました。リーはデーフが
 「しばらく黙り込み、顔は青ざめていた。そして『こんなに大勢だったとは』とつぶやいた」
と述べています。モルモン教徒はこの虐殺を全て先住民の仕業とし、関与した面々に秘密を守る事を誓約させたのでした。
この一部始終はリーによってヤングに報告されました。番組ではヤングは攻撃しないようにと言う書簡を出していたが、一足違いであったという説を取っています。


ユタ戦争終結
さて一方の政府軍とモルモン軍との戦争は、モルモン軍が政府軍の物資基地を焼き討ちにすることに成功し、政府軍は冬の到来とともに11月にはワイオミングに撤退を余儀なくされます。戦意が下がる政府側では、非モルモンでヤングにもコネクションを持つトーマス・ケインと言う人物が和平交渉を買って出、大統領もこれを了承します。58年の2月にケインはソルトレークに到着、秋に和平が成立します。政府はモルモン教徒を処罰しない、その代わりに政府はユタを占拠しない。そして、ヤングに代わり政府からの知事を受け入れると言うものでした。しかし、新知事カニングについてヤングは
 「カニングは準州の知事だが、私は神の国を治めている」
と嘯いたのでした。


虐殺の決算
しかし、政府はメドウの虐殺については尚も追求を続けました。カリフォルニア、ミズーリー、アーカンソーではモルモン教徒の間からも真相究明を求める声が上がりました。しかし、ヤングは徹底して非協力を貫きました。事実が明るみに出れば、和平も壊れかねません。彼には隠し通すしか方法はなかったのです。 裁判でも検察はヤングの関与を主張し続けますが、重要参考人が記憶違いを理由に証言が退けられるなど不調でした。なにより陪審員の8人がモルモン教徒で無罪を主張していました。解決はまだまだ先のようでした。
しかし 結局、ヤングは匿い続けて来たリーに全責任を負わせて政府と手打ち、政治的解決をすることにしました。リーは18年間教団に匿われていたのですが、1875年終に捕らえられ裁判にかけられました。
リーは自分は確かに実行犯ではあるが、自分は指導者の指示に従っただけであると主張しました。ところが、リーに襲撃を命じたヘイトはアリゾナ砂漠で行方不明になっており、デームの証拠は全てもみ消されてしまっていました。この度の裁判では陪審員は全員モルモン教徒でしたが、なんと彼らは全員一致でリーの死刑を支持したのでした。
1877年リーは殺戮の現場に連れて行かれ、銃殺刑に処せられました。最後に
 「私はこうして今、汚い策謀の犠牲となる。しかし、無罪を主張したことに偽りはなかったと宣言する」
との言葉を残しています。 その処刑の5ヵ月後に策謀の主ヤングもこの世を去ったのでした。

その後のマウンテンメドウ
現在、虐殺のあった跡地には記念碑が建てられています。その記念碑はリーの子孫とハンチャーの子孫が共同で建てたものなのです。両者は歴史の流れの中で劇的な和解を成し遂げたのでした。

余談(ヒンクレー記念碑を訪問)
その記念碑の建立式にヒンクレーが出席しています。 その時の模様を「ぜみなーるモルモン」にたりきさんが投稿されています。締めくくりに引用させていただきます。

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さて、1999年に、この事件を伝える記念碑が、その地に建立されたのですが、その建立式が行われた際に、モルモン教の代表者として、 ヒンクリー氏が出席しスピーチをしました。しかしながら、その内容が あまりにもひどいのですよ。私は、はっきり言ってあきれて しまいました。
彼の話した内容を抜き書きしますと、
「私は平和主義者として、ここに参りました。今は罪のなすり合いを したり、誰かを非難したりする時ではない(から)です。」
「142年前にこのメドウで何が起こったかは、誰にも説明できません。 私たちは憶測はできるかもしれませんが、誰も(真実は) 知りえないのです。」
「私たちは、その事件を理解する事は出来ません。(ここでは UnderstandとComprehendの2つのほぼ同意語を続けて使い、 強調しています。)ただ、私たちに言えることは、過去は遠く 過ぎ去った、という事だけなのです。」
などと、とぼけた事を言い、教会は事件には全く荷担していなかった、 と述べ、しかも、「ここで私たちがしている事が、この破滅的な悲劇に 教会が荷担していたと、教会が(公式に)認めたと解釈されては、 決してなりません。」だそうです。つまり、このじいさんは公的な場で、 教会の代表者として、しらを切りつづけた、ということですね。さすが 自称「唯一まこと」、昔の大事件を風化させるテクニックもまた、 超一流ですね。
ちなみに、この事件とブリガム・ヤングの関係を取り上げた、2002年 10月のニューヨーク・タイムズの記事は、こちらで読めます。
http://www.mazeministry.com/mormonism/mmmassacre/brighamguilty.htm

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