岩倉使節団の見たモルモン教 (2)

(1)の内容からやや詳しく、ここでは岩倉使節団側が見たユタとモルモン教を紹介します。
岩倉使節団には日本側の記録が残っています。これは公式記録と言ってもよいもので、随行員で後の東京帝国大学文科大学教授久米邦武が編纂した「特命全権大使米欧回覧実記」(以下「実記」と記します)と言うものです。これは現在岩波から全文が出版されていて私たちも読むことができます。
「実記」から拾って行きましょう。

ロッキー山脈の西手前の「コリンネ」駅で車中夜明けを迎えた一行はオグデン駅に7時30分着、鉄路の乗り換えのため下車、「朝食ヲ弁ス」(朝食を摂る)とあります。
ここで「『カントリー』太平会社ノ鉄道ハ、此駅ニテ尽キ、是ヨリ『ユニヲン』太平会社ノ鉄道ニ接ス、落機山ノ大雪ニテ、鉄軌ヲ埋没シ、会社ヨリ数千人ヲ発シ雪ヲ撥スレトモ、路未夕開カサルトノ報アリ」と大雪で先に進めないことを知ります。
そこで、「『ユタセンタラール』会社ノ蒸気車ニ移リテ、南方ノ『ソールトレイキ、シチー』ニ赴ケリ」とあります。オグデンからソルトレーク(湖)の東岸を南に下り塩湖府(ソルトレークシティ)到着しますが、町の様子は詳しく描写しています。

「市中ノ街路ハ、其寛キハ百尺ニモ及フ、縦横井々トシテ、両側ニハ轢樹(くぬぎ)ヲ植テ、馬車人行ノ道ヲ分ツ、固リ甃石モナサ丶レハ、雨雪ノ後ハ塗泥履ヲ没ス、人道ニハ沙ヲ撒シ、較潔ニシテ歩スヘシ」

道路は広く升目に整然としていてクヌギの木を植えて馬車道と歩道とを分けているが、敷石がないため、雪雨の後の道は泥んこであり、砂を撒いて対応しているというのです。

「瓦斯会社モ未夕興ラサレハ、只十字ノ街ニ於テ、四隅ニ各一基ノ燈ヲ点シ路ヲ照ス」

ガス会社がまだ設立されていないので、十字路の四隅にひとつずつ外灯があるだけだと述べています。
一行がアメリカで最初に見たのが大都市サンフランシスコだっただけにソルトレークシティのひなびた様子は印象的だったようです。そして、一行がもっとも驚かされるソルトレークの「風習」が述べられます。

「人家ハ木材ノ屋多シ『モルモン』宗ノ人ハ、一婦ヲ娶レハ一窓ヲ増スト云、」

木造の家屋が多く、モルモン教の人々は妻を増やすたびに窓をひとつ増やす(部屋を建て増し)というものです。また、市内の様子については

「府中ノ地域甚広ケレトモ、繁華ナル市街ハ三四条アルノミ、店前ノ人道ニハ板ヲ敷キ、肆店ニハ鉱精油ヲ燃シテ瓦斯ニカヘ、時ニハ気管二穴シ、花状ニ燈炎ヲ分チテ人観ヲアツメル肆店アリ」

町は広いがにぎやかなのは3つ、4つの通りだけで、店舗は足元が悪いので板を敷いて、ガスがないので、灯油で店を明るくしているところもあると言っています。 さて、翌日は「テリトリー」政府からの歓迎を一同は受けます。そして公式行事の後

「夫ヨリ当部ニテ第一ノ豪家『ゼユン』氏ノ家ニ至ル、主人酒果ヲ供ス」

とあります。
(1)で述べた通りこのゼユンと言うのはモルモン教徒ウィリアム・ジェニングズです。私的な歓迎の席で一同は「酒を飲み、食事を楽しんだ」ようです。
その帰路にタバナクルホールを見学、その隣の建築中のソルトレーク神殿を見ます。ここで実記記者は「西欧人が宗教のためなら惜しげもなく金と労力を使うということはこのような山間の僻地にもこんな大きな宗教施設を作ることからも分かる」と西欧人の宗教に対する姿勢にやや批判的な言葉を述べています。
それはそうでしょう。文明開化で大急ぎで欧米先進国に追いつかねばならない維新政府からみれば、ガスもなく道路も泥だらけの町が巨大な宗教施設を作っていることは全く奇異なことだったでしょう。続けて記者はモルモン教の紹介に進みます。

「『モルモン』宗ハ耶蘇教ヨリ分レタル一種ノ異教ニテ、西洋人ハ以テ邪宗卜擯斥スル教タリ、其教旨タル、一夫七婦ヲ娶ル以上ニ非レハ、天堂ニ上ルヲ得スト謂フ宗ニシテ、此宗ヲ始テ唱へ起セルハ、当国「ヴェルモント」州ノ人『ヂョウゼフスミット』ナルモノ、林中ニテ神人ニアヒ、其告ニテ経文一巻ヲ石室中ニ得タリト称シ、此宗ヲ唱へ起セシニ後暗殺ニ逢ヒ、其姪ニ『ハルガミヤン、ヨング』ナル者アリ、新約克(ニューヨルク)州ノ人ナリシカ、三十二歳ニテ妻ヲ失ヒ、是ヨリ意ヲ学問ニ傾ケ、其後英国ニ遊ヒ、『モルモン』ノ奥義ヲ研シ出シ、帰テ後ニ其教ヲ主張シケレハ、新約克ノ人ヨリ放逐セラレ、一党百四十三人ト共ニ、此山奥ニ竄匿シテ、遂ニ此府ヲ開キ起スニ至レリ、是一千八百四十七年ノコトニテ、今ヲ距ル、二十三年ノ前ナリ」

と、ユタ入植までの歴史を概説します。(ところどころ間違った理解もあります)
そして、今尚健在な教祖ヤングについて興味深いことを述べます。

「『ヨング』氏当年七十一歳ニテ猶健存ス、妻十六人、子四十八人アリ、家産巨万ヲ累ネ、共邸宅ハ府ノ東北ナル山嵎ニアリ、街ニ跨り地域ヲシメ、厳トシテ城郭ノ如ク、勢ハ封侯ニ此ス、宅地内ニ『ヂョルタン』河ノ支流ヲ引テ、紡織場ヲ起シ、水輪ニテ機ヲ運シ、羅紗ヲ織ルコト日ニ三百『ヤールト』ノ長キニ及フ、『ユタ』部二羊毛ヲ出ス十万『ポント』スヘテ此人ノ製造料二供スルナリ、又『ユタ、センタラル』会社ノ銕道モ、此人ノ私社ニカカル」

ヤングの妻と子供の数については実際はもっと多かったでしょうが、このあたりの数字が公式発表だったのではないかと思われます。ヤングの家は城郭のようなものであり、宅地内にヨルダン川の支流を引いてそれで機織を行い日に300ヤードの紡績をし、10万ポンドの羊毛も作っているというのです。そして、ユタセントラル鉄道のオーナであるというのですから、ヤングの私邸は工場と会社とを併せ持った広さもさることながら大変な経済規模をだったとようです。
木戸文書にあるように、ヤングは蟄居禁足であってもこれだけのものがあればなんの不自由もなかったでしょう。
ちなみにモルモン教擁護関連の記事は使節団がヤングに面談したことを誇らしげに書いていますが、「実記」にはヤング宅訪問の記事はありません。訪問があったのは事実でしょうが、ヤングは当時いわば罪人であり、それに会ったことなど公式に残すことではないからでしょう。日本側からすれば、モルモン教の異常性とヤングの専横振りを伝えればそれで十分だったのです。
「実記」はモルモン教がユタだけでなくネバダ、ニューメキシコに広がっていて、カリフォルニア州にも及ぼうとしていることを述べ、それに続けて以下のように述べます。

「米国ノ人、ミナ之ヲ憎ミ、本年大政府ノ議決ニテ、其宣教ヲ禁止セント、教師ヲ呼出シ、議院ニテ論弁セシニ辞屈セリ、因テ今ヨリ信徒ノ外ハ、宣教スルヲ止メ、『ヨング』カ外出ヲ禁シ、其家二番兵ヲ以テ脱走ヲ防衛セリ」

政府の決定で、宣教の禁止とブリガム・ヤングの禁足を決したことが述べています。モルモン教側から言えば、迫害であり、その中でも「教会は雄雄しく成長した」ということになるのでしょうが、現実は全く違っていたことが分かります。
さて、ここで実記記者はユニークな挿話を挟みます。これは、後に英国に向かいスコットランドを訪問した時の話題です。現代語訳を入れます。

「此教ハ英国ニモ唱フモノアリト、『ヨング』モ蘇格蘭(スコットランド)ニ遊ヒテ、此教義ヲ研シタリ、然レトモ此後蘇格蘭二至リシトキ、蘇人ニ塩湖府逗留ノコトヲ話スレハ、虎穴ニモ宿シタル如キ想像ヲナシテ、且日ク、英国ノ無頼無行ノ徒ハ、ミナ逃テ塩湖二徒(うつ)ル、天下悪党ノ叢ナリト、惴惴然卜懼レタリ、西洋人ノ異宗ヲ畏ル此類ナリ、後一千八百七十三年ニ至リ「ヨング」ハ、其徒卜此府ヲ脱走シタリトノ新聞アリ、」
 (この教えは英国にも唱えているものがいるという。ヤングもスコットランドに遊学し(モルモン)教義を研鑽した。(注:正しくは英国伝道をしたこと)ところが後日、私たちがスコットランドに至った時、スコットランドの人に私たちがソルトレークに逗留したことを話した。すると彼はまるで虎の穴のに泊まったかのような想像をし、『英国の無頼無法の連中は皆国を逃れてソルトレークに移住している。あそこは天下の悪党の巣だ』と、すっかりおびえた様子であった。西欧人が異教を恐れるはこの類である。1873年になってヤングはその信者連中とともに脱走したと新聞にあった。)

「実記」記者はソルトレーク滞在自体には恐怖はもちろん、不満もなかったわけで、英国人がモルモンを恐れる気持ちが分からなかったようです。しかし、当時の西欧人一般のモルモン教に対する見方が良く分かります。
初期の英国伝道の成功はモルモンの自慢話のひとつです、その実態とは食いはぐれた連中が、アメリカでやりなおそうとして、モルモンに改宗し、ユタに入植して来たというものだったです。そのなかには実記に登場する英国人の指摘するようなアウトローのたぐいもいたわけです。コナン・ドイルの「緋色の研究」やマイケル・ギルモアの「心臓を貫かれて」に登場する「(モルモンの)長老」と言うのはこうした連中であったのです。まさに「血の贖罪」の担い手であったわけです。

明治5年の正月(旧正月)をソルトレークで迎えた一行の記事です。

「明治五年壬申正月元日 陰雨雪ヲ交ユ、室外温度四十六度ニ下ル 滞留シテ塩湖府ニアリ、新年ナルヲ以テ一統ニ『シャンパン』酒ヲ賜フ、夜府中ノ官吏、及ヒ米公使「デロンク」夫婦ヲ招キ、旅館ニ新年宴会ヲ開ク、「スピーチ」アリ、主客歓ヲ洽(あまねく)クシ、夜一時ヲスキテ始テ徹宴ス」

と旧暦の新年を公使を交えてシャンパンで祝ったことが述べられています。合衆国は新暦でしたので、町は普段と変わらない状態だったと思えます。
その、2日後モルモンの礼拝に参加した模様が記述されています。

「午後二時ヨリ、『モルモン』宗ノ礼拝堂ニ詣リテ説教ヲキク、其式マツ劈餅(へきべい)ヲ行ヒ、雅楽後堂ニオコリ、満座清歌ヲ諷シ、記念ヲナシ、教師壇ニ上り、法教ヲ講説ス、此日ハ 『ニュー、テスタント』(新約書)中ノ、四海兄弟ノ一節ヲ講セリ、其式ノ概略、他ノ『プロテスタント』教ノ説教式ノ如ク、簡浄ナリキ、」
(午後2時からモルモン教の礼拝に詣でて説教を聞く。その式次第はまずパンを配り、厳かな音楽が会堂に起こり、出席者は聖歌を唄った。教師は壇上に上がって説教を行った。この日は新約聖書から世界は皆兄弟であるとの一節を講じていた。その式の概略は他のプロテスタント教会と同様に簡潔であった)

これが唯一のモルモン教礼拝訪問記です。

この後は出発までは特別な記事はありません。ようやく雪解けととなり一同は東への旅を続けることになる
のです。

 

モルモン教は信じるに足るかに戻ります