日本人で最も最初にモルモン教に接したのは岩倉使節団の面々でしょう。1871年に横浜を発った一行はサンフランシスコに到着、大変な歓迎を受けます。サンフランシスコからは鉄路東海岸、ワシントンDCへ向かうのですが、当時はユタのオグデンで、列車を乗り換える必要がありました。ところがこの年はッキー山脈が未曾有の大雪に見舞われ、先に進むことが出来ませんでした。
一行が到着したのは、旧暦12月26日(新暦2/4)でした。朝食の後、一行はへイドン判事らの歓迎を受けます。そこで雪害のため線路が不通になったという電報を受け取った一行は、やむなく南方に位置するソルト・レーク・シティへ行くことにしました。岩倉使節団は諸説がありますが、46名から51名と言う大所帯でした。モルモン教の総本山とはいえ、所詮は田舎町のソルトレークシティ。全員を収容できるホテルがなく、それぞれ分宿することになりました。 ソルトレークでの使節団一行の行動をかいつまんで記述すると以下のとおりです。 12月27日(2/5)は岩倉大使は終日、ホテルで休養、木戸たちは州議会の建物を訪問した後、医師のところで鉱夫の足の切断手術を見学します。 28日(2/6)、ダニエル・H・ウェルズ市長(モルモン教徒)をはじめ歓迎委員らが、市庁舎から岩倉らを宿舎「タウンゼント・ハウス」へ迎えにやって来ましたが、岩倉は不快を理由に謝絶しました。木戸、デ・ロング駐日公使、ブルックス領事、通訳ライスらが歓迎式典に出席しました。アメリカ側の主な出席者としては、ウェルズ市長、ウッズ州知事、キャンプ・ダグラス(要塞守備隊)のモロウ将軍などでした。歓迎会は1時間ほどで終了、その後木戸一行はウィリアム・ジェニングズという人物(モルモン教徒)に招かれ、その邸宅で歓迎を受けます。この時の模様は日本の史料『特命全権大使米欧回覧実記』には「夫(それ)ヨリ当部ニテ第一ノ豪家『ゼユン』氏ノ家二至ル、主人酒果ヲ供ス」とあります。ホームパーティーで酒を提供したようです。このあたりに開拓当時のモルモン教の知恵の言葉の実態が垣間見れます。 29日(2/7)は岩倉以下はキャンプ・ダグラスの要塞守備隊を見学に訪問しています。砦では調練も見学、使節団の一員陸軍少将山田顕義はモロウ将軍とともに閲兵式に臨んでいます。その後、懇談のひと時があり、「酒果」でもてなされたあとホテルに戻っています。 30日(2/8)使節団の一部は「モンテインホール学校」や「モーガン商業学校」を見学したとあります。また、ユタの法曹界主催のパーティが催されているようです。 明治5年元日(2/9)とうとう一同は新年をソルトレークで迎えます。岩倉のホテルで遺著同はシャンパンでささやかに新年を祝います。『ソルト・レーク・ヘラルド』 (2月10日号)では日本使節団が主催する新年の祝賀晩餐会が催され、ウッズ州知事、モロウ将軍、ジョージ・A・スミス会頭、ウェルズ市長、L・スノウ州議会議長、マッキーン裁判長、フラ前州知事、ヴォルム博士、エリス中尉、T・A・ベイツ大尉およびデ・ロング公使夫妻が招待されています。 3日(2/11)、岩倉大使一行はモルモン教の礼拝堂に行き、説教などを聴きます。そこで「四海兄弟(けいてい)」の一節が説教されるのを聞いたと言います。 4日(2/12)、この頃から見学先もなくなり一行は無聊をかこつようになります。木戸は市内散歩などをしています。ソルトレーク側も相当気を使ったようで、ホテルの前に楽隊を出して演奏させたりしています。 5日、6日(2/13・14)と木戸は温泉三昧。鉄路の開通を待ちあぐねた一行はそりで山を越える事も考えたようです。当地の新聞記事には
とあります。 また、カリフォルニア州知事は特別列車をオグデンに送るので、それでサンフランシスコに戻って来て、海路で東海岸に向かう事を提案して来ました。しかしようやく、雪解けはすぐそこまで来ていました。 7日(2/15)大久保利通はソルトレーク近郊で最近開かれた銀山を見学予定していましたが、雪のため中止します。木戸の方は要塞を再訪問しています。 8日(2/16)はホテルでモロウ将軍を招いて宴会。 10日(2/18)日曜日です。木戸は日記に、「春日の景趣を覚えり」と記しており、暖かかった事が伺えます。木戸たちは温泉へ出かけています。モルモン教団は使節団が何度も教会に出席したなど書いているのですが、ここを見てもわかるようように。モルモン教の安息日に興味がなかったことは明白です。 12日(2/20)に雪解けの情報が入ります。木戸は伊藤博文などを伴ってまたまた温泉に出かけます。 13日(2/21)いよいよ出発ということになりましたが、この度は雪解け水が鉄橋を押し流してしまい、出発は延期となります。すでにソルトレーク滞在は17日間に及び、見物すべきものもすべて見てしまっていました。一同はこの市の滞在に倦み疲れてしまいました。『回覧実記』には「衆マスマス心ヲ屈セリ」(一同はますます気分がめいってしまった)と記載されています。 14日(2/22)ようやくソルトレークを発ち、オグデンに向います。一行が乗り込んだ汽車は食堂車2台が連結されている豪華なもので、車内で食事を取った後、汽車は午後4時半にオグデンを発ったのでした。使節団はソルトレークを発つにあたり、各紙に謝辞を掲載しました。『ソルト・レーク・ヘラルド』のものは以下の通りです。
参照「アメリカの岩倉使節団」(宮永孝:ちくまライブラリー)
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