岩倉使節団の見たモルモン教 (1)

日本人で最も最初にモルモン教に接したのは岩倉使節団の面々でしょう。1871年に横浜を発った一行はサンフランシスコに到着、大変な歓迎を受けます。サンフランシスコからは鉄路東海岸、ワシントンDCへ向かうのですが、当時はユタのオグデンで、列車を乗り換える必要がありました。ところがこの年はッキー山脈が未曾有の大雪に見舞われ、先に進むことが出来ませんでした。
そこで一行は急遽ソルトレークシティに南下して、開通を待つことになりました。
そこで図らずも明治政府の要人たちとモルモン教との出会いが実現するわけですが、その様子を見てみましょう。
当時の『ソルト・レーク・ヘラルド』の「地方ニュース」に岩倉一行の到着について以下のように書かれています。

日本人一行は、今朝六時にオグデンに到着の予定である。歓迎 委員らと共に、特別列車は六時半にオグデンを立つであろう。デ・ロング公使および使節団は、この町を訪問することになるかもしれない。

 一行が到着したのは、旧暦12月26日(新暦2/4)でした。朝食の後、一行はへイドン判事らの歓迎を受けます。そこで雪害のため線路が不通になったという電報を受け取った一行は、やむなく南方に位置するソルト・レーク・シティへ行くことにしました。岩倉使節団は諸説がありますが、46名から51名と言う大所帯でした。モルモン教の総本山とはいえ、所詮は田舎町のソルトレークシティ。全員を収容できるホテルがなく、それぞれ分宿することになりました。
当時のソルトレークは人口15,000人に過ぎず、繁華街と呼べる通りは3つか4つに過ぎませんでした。一般的であったガス灯は未だ整備されておらず、外灯は灯油を使用していたとのことです。
ホテルに到着した一同のうち数名が議会を略式訪問しただけで、公式な行事はありませんでした。一行は早期にこの町を離れる事が出来ると考えてからです。
木戸孝允と数名は町から東南1マイル程先の「ベッグズ温泉」に行って、旅の垢を落としたようです。思いのほか雪は深く、結局、ソルトレーク滞在は翌年1月14日まで延びるわけですが、木戸はこの温泉が気に入ったのと、他に楽しみもないことから、頻繁にこの温泉を訪問しています。残念なことにもうこの温泉はなくなっているそうですが、もし現存していたなら、日本人旅行者にとってはおもしろい観光スポットになったでしょう。

ソルトレークでの使節団一行の行動をかいつまんで記述すると以下のとおりです。

12月27日(2/5)は岩倉大使は終日、ホテルで休養、木戸たちは州議会の建物を訪問した後、医師のところで鉱夫の足の切断手術を見学します。

28日(2/6)、ダニエル・H・ウェルズ市長(モルモン教徒)をはじめ歓迎委員らが、市庁舎から岩倉らを宿舎「タウンゼント・ハウス」へ迎えにやって来ましたが、岩倉は不快を理由に謝絶しました。木戸、デ・ロング駐日公使、ブルックス領事、通訳ライスらが歓迎式典に出席しました。アメリカ側の主な出席者としては、ウェルズ市長、ウッズ州知事、キャンプ・ダグラス(要塞守備隊)のモロウ将軍などでした。歓迎会は1時間ほどで終了、その後木戸一行はウィリアム・ジェニングズという人物(モルモン教徒)に招かれ、その邸宅で歓迎を受けます。この時の模様は日本の史料『特命全権大使米欧回覧実記』には「夫(それ)ヨリ当部ニテ第一ノ豪家『ゼユン』氏ノ家二至ル、主人酒果ヲ供ス」とあります。ホームパーティーで酒を提供したようです。このあたりに開拓当時のモルモン教の知恵の言葉の実態が垣間見れます。
一行はタバナクルを訪問、パイプオルガンの演奏を楽しみます。そして、ブリガム・ヤングの私宅にて彼と面会。ヤングは合衆国政府から禁足処分を受けていました。彼の71歳にして16人の妻と48人の子供と言う生活ぶりに驚きます。その帰途博物館を見学し、一端ホテルに戻った後、有志40人ほどが観劇に出かけました。

29日(2/7)は岩倉以下はキャンプ・ダグラスの要塞守備隊を見学に訪問しています。砦では調練も見学、使節団の一員陸軍少将山田顕義はモロウ将軍とともに閲兵式に臨んでいます。その後、懇談のひと時があり、「酒果」でもてなされたあとホテルに戻っています。

30日(2/8)使節団の一部は「モンテインホール学校」や「モーガン商業学校」を見学したとあります。また、ユタの法曹界主催のパーティが催されているようです。

明治5年元日(2/9)とうとう一同は新年をソルトレークで迎えます。岩倉のホテルで遺著同はシャンパンでささやかに新年を祝います。『ソルト・レーク・ヘラルド』 (2月10日号)では日本使節団が主催する新年の祝賀晩餐会が催され、ウッズ州知事、モロウ将軍、ジョージ・A・スミス会頭、ウェルズ市長、L・スノウ州議会議長、マッキーン裁判長、フラ前州知事、ヴォルム博士、エリス中尉、T・A・ベイツ大尉およびデ・ロング公使夫妻が招待されています。

3日(2/11)、岩倉大使一行はモルモン教の礼拝堂に行き、説教などを聴きます。そこで「四海兄弟(けいてい)」の一節が説教されるのを聞いたと言います。

4日(2/12)、この頃から見学先もなくなり一行は無聊をかこつようになります。木戸は市内散歩などをしています。ソルトレーク側も相当気を使ったようで、ホテルの前に楽隊を出して演奏させたりしています。

5日、6日(2/13・14)と木戸は温泉三昧。鉄路の開通を待ちあぐねた一行はそりで山を越える事も考えたようです。当地の新聞記事には

使節団は旅を続けることを切に願っている。聞くところによれ ば、デ・ロング公使は雪に閉ざされた約二〇〇マイルの道を、そりを用いて移動することを検討中だということである。もしそり を用いることに決まれば、進取の気性に富んだ駅馬車請負人のジャック・ギルマーが使われることであろう。もし日本人(ジャップス)が雪による封鎖を破って進むことになれば、ギルマーこそまさにその企てにうってつけの人物である。ここ数日の穏やかな気候からすれば、早く困難を除去できるかもしれない。数日以内に、汽車も運行を始めるかもしれぬ。

  とあります。

また、カリフォルニア州知事は特別列車をオグデンに送るので、それでサンフランシスコに戻って来て、海路で東海岸に向かう事を提案して来ました。しかしようやく、雪解けはすぐそこまで来ていました。

7日(2/15)大久保利通はソルトレーク近郊で最近開かれた銀山を見学予定していましたが、雪のため中止します。木戸の方は要塞を再訪問しています。

8日(2/16)はホテルでモロウ将軍を招いて宴会。

10日(2/18)日曜日です。木戸は日記に、「春日の景趣を覚えり」と記しており、暖かかった事が伺えます。木戸たちは温泉へ出かけています。モルモン教団は使節団が何度も教会に出席したなど書いているのですが、ここを見てもわかるようように。モルモン教の安息日に興味がなかったことは明白です。

12日(2/20)に雪解けの情報が入ります。木戸は伊藤博文などを伴ってまたまた温泉に出かけます。

13日(2/21)いよいよ出発ということになりましたが、この度は雪解け水が鉄橋を押し流してしまい、出発は延期となります。すでにソルトレーク滞在は17日間に及び、見物すべきものもすべて見てしまっていました。一同はこの市の滞在に倦み疲れてしまいました。『回覧実記』には「衆マスマス心ヲ屈セリ」(一同はますます気分がめいってしまった)と記載されています。

14日(2/22)ようやくソルトレークを発ち、オグデンに向います。一行が乗り込んだ汽車は食堂車2台が連結されている豪華なもので、車内で食事を取った後、汽車は午後4時半にオグデンを発ったのでした。使節団はソルトレークを発つにあたり、各紙に謝辞を掲載しました。『ソルト・レーク・ヘラルド』のものは以下の通りです。 

日本使節からの謝辞

  日本使節団の下名の者は、ソルト・レーク市民から示された心のこもった歓迎と数々の親切に対して深甚の感謝を献げます。思いもよらぬ、しかも克服しがたい困難によって生じた滞在期間中、使節一同は友情のこもった歓待を受けました。また、ユタ州の民政ならびに軍当局からいろいろ親切にしていただきましたが、それは大きな喜びであり、今ここに深甚の謝意を表します。

                特命大使 正二位 岩倉具視
                副  使 従三位 木戸孝允
                 〃   同 右 大久保利通
                 〃   従四位 伊藤博文
                 〃   同 右 山口尚芳

       参照「アメリカの岩倉使節団」(宮永孝:ちくまライブラリー)

 

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