ぜみなーるモルモン
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タイトル自慰行為について思こと
記事No: 4989 [関連記事]
投稿日: 2017/08/12(Sat) 22:20:50
投稿者白と黒

皆さんに質問です。
「自分の伴侶を想像して自慰行為することは罪になるのでしょうか。」
どう思われますか?

全ての律法を完全に守ろうとしている人がいました。もちろん性欲(情欲)も。彼には余裕がありませんでした。
自分が律法を守ることに、罪を悔い改めることに精一杯だったからです。そして、律法を守れない人を見ると、
口では同情しましたが、心ではどうしても裁いてしまうのでした。自分はこれだけがんばっている
(犠牲をはらって我慢している)のに、どうしてあなたはがんばれないのかと。もっと信仰をもってほしいと。

一方で純潔の律法、特に自慰行為止められない人がいました。他の律法(十分の一や知恵の言葉など)は
守れるのですが、ストレスが溜まるとついつい自慰行為で発散してしまうのでした。
自慰行為の後は決まって自己嫌悪と罪の意識に苛まれました。
自分は律法を守れていないという後ろめたさが常にあり、
その思いは教会の召しを果たそうとする時より強烈に彼を苦しめるのでした。

前者は伝道中の私で、後者は伝道後の私です。

モルモンでは自慰行為は罪であるという見解をとっています。
その根拠はマタイの福音書5章27〜30節の「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」にあります。

これを素直に受け入れるのなら(情欲の)思いでさえ罪とされるわけです。
そのため(罪あるがあるのと清くなれない、清くないと聖霊の導きを受けられないので)伝道中はほぼ一日中悔い改めていました。
今考えるとノイローゼぎりぎりの状態だったように思います。

そんな私ですが、性欲は人並みだと思います(当たり前ですが性欲の強さも人によって違いますから)。
ただ、ストレスが溜まると、どうしても自慰行為に向かってしまう弱さをずっと克服できませんでした。

しかし、教会を離れてしまった現在、自慰行為に関わる葛藤(罪の意識や自己嫌悪)からは解放されています。
週に1〜2回する程度です。「(自慰行為は)いつでもできる」という余裕もあり、以前(教会を離れる前)ほどの
執着もなくなりました。

そもそも情欲を抱くことを罪と定めたのは、姦淫の罪を犯させないためです。
姦淫は夫婦関係や家族関係を破壊してしまう可能性のある行為ですから、
その抑止のためにも思いを制限する必要があることも分かります。

でも例えば、身近にいる特定のだれかに情欲の思いをもつなら、姦淫につながる可能性が高くなるかもしれないし、
二次元が相手なら姦淫につながる可能性は低いかもしれない。全ては可能性の話になってしまいますが、
重要なのは異性に対する思いが姦淫につがる可能性があるかどうかだと思います。

つまり自分の行為(自慰行為だけに限らず)が、誰かを傷つけるならしない方がいいし
(黄金の律法ですね)、逆にその(自慰)行為が誰も傷つける可能性がないなら、
「自慰行為=即罪」にはならないように思うのです。

姦淫の罪を犯した女を諭されたキリストは、憐れみの人でした。
そんなキリストが(自慰)行為だけをみて罪とされるようには思えません。
その行為の裏にある思いにこそ目をむけられているような気がするのです。

そう考えるなら、自分の伴侶を想像して自慰行為することは罪にならない
(姦淫につながらない)ように思うのですがどうでしょうか?

最後に、他宗派のキリスト教修道僧は、女性を遠ざけ、男性だけで修道院に籠りました。
その結果性欲は同性に向かいました(これなんかは抑圧された性欲が歪んだ形で現れた典型のように思います)。

大切なのは、肉体を持つがゆえに生じる欲求を抑圧するのではなく、どのようにコントロールしていくかだと思うのです。
無理なダイエットがリバウンド招くように、自慰行為を禁止するのではなく、どのように向き合っていくのかを考えることの方が建設的なように思います。


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