「モルモン書が真実の書物であることを示す証拠の増大」に対する反論

はじめに

 モルモン教徒の機関誌「リアホナ」2000年9月号に「モルモン書が真実の書物であることを示す証拠の増大」(ダニエル・C・ピーターソン)という記事が掲載された。同文は現在は教団の日本語公式サイトにも掲載されている。

かねてからわたくしは微力浅学ながらもインターネットサイト「モルモン教は信じるにたるか」を起しサイト内に「モルモン書を切り刻む」というページを作っており、随時更新を進めている。当然のことではあるがこのリアホナの記事はわたくしの主張するところと対立している。といっても、この記事は、具体的な研究成果、事例などを挙げて論証しているというわけではなく、今までの教団や教徒による擁護論と何ら変わることはない時に自分の都合の良い事は歪曲・曲解し、時に都合の悪い内容は隠蔽・無視するというスタンスである。
 この記事は主に以下の要点でモルモン書を真実の書物と示そうと意図したようである。

(1)ジョセフ・スミスやその周辺の人物は真面目な面々で金版を翻訳したと言うことに嘘はないという金版の実在とその翻訳者に対する擁護
(2)歴史的事実常識から重大な疑義が提出されているモルモン書内の問題、人名・地名・貨幣制度などに対する擁護
(3)モルモン書内の記述が古代イスラエルの習慣に沿ったものであることの主張

 しかし、記者ピーターソンはこれらを順序だてて論理的に述べているわけではない。むしろ、「証拠」とタイトルに銘打ちつつも「証拠・論拠」は一切提示されてはいない。記事末に同記事の英文の請求先が記載されている。それには脚注がついているそうであるが、なんとも不親切な編集であろう。実際、反論文書を書こうとした当のわたくし本人が、その根拠となるところから反駁を加えることが出来ないというストレスに直面してしまった。
 しかし、この際、そうした点は十全ではないにしても、かなりの反論は可能な内容ではある。なによりも、この記事に対する感想とこの記事自身の問題点を述べることは、立場を問わずモルモン書・モルモン教の実体を知りたいと願う向きにはやはり重要であると思えたのである。今後、こうした記事を書き編集するにあたっては、それが一定の研究に基づくものであると主張するのであるならば、教団擁護のためにもにも、むしろ脚注含めて根拠となるところを全て示し、議論を煥発させるべきであろう。

 では、この要点にそってこの記事を見、考えて行くことにしよう。

(1)金版・ジョセフ・見証者


1.ジョセフと見証者


 この「モルモン書が真実の書物であることを示す」証明のための記事はなんとも説得 力のないことに、その大前提が「ジョセフ・スミスが金版 を所有していた」ということに置いている。そして、それは「最も確かな事実の一 つ」であるそうだ。もちろんその根拠は明示されていない。
 すでに研究者はその金版の実在すら否定しているのである。
 ここで高橋弘氏の著作「素顔のモルモン教」(新教出版)からの記述を引こう。

さて金版の証人の一人オリヴァー・カウドリ(Oliver Cowdery)は、ジョセフの翻訳の際、秘書として経典の記述にあたった男の一人であるが、 そのカウドリの興味深い証言がある。翻訳作業は普段、厚いカーテンに仕切られたこち ら側に秘書、向こう側にジョセフがいて、カーテン越しに訳文が読まれ、秘書がそれを 記述しそれを読み返す、それをジョセフが確認する、あるいは訂正するというプロセス で進められたという。しかしカウドリと一緒にいるときは、ジョセフは気を許してかカ ーテンを開け放ち、眼の前には金版はおろか何一つないのに、気のむくまま口述するジョ セフの姿を見た、と証言している。

 「素顔のモルモン教」のこの部分は全てが高橋氏の独自の調査によるものではなく、 アメリカの反モルモンの資料ではむしろ一般的なものと言ってよいのである。しかし、 こうした、オリバー本人の証言自体をこの記者は敢えて触れていない。 こうした金版は存在しなったという証言にはどう答えるつもりなのであろうか。
 また、見証者についてはもっと明確である。オリバー・カウドリ、 マーティン・ハリス、デイヴィッド・ホイットメアーの三証人は、 後日モルモン教を去っている。そして、金版を見たことがないと断言しているのである。
 ハリスはシェーカーズという新宗教に移り、そのままそこから離れなかったようである。 現在は見証者という立派な肩書きを教団は寄せてはいるが1838年の8月の「エルダース・ ジャーナル」なるモルモン教の新聞はハリスをうそつき・詐欺師・酔っ払いなどと非難 しているのである。
また、彼に関しては金版翻訳の経緯に関して興味深いインタビューが残され ている。その中で金版の重さについて言及している。それに基づけば彼の体験がいかに 疑わしいかははっきりしているのである。
 ホイットメアーは後に反モルモンの書物のハシリとでもいうべき本(David Whitmer, An Address to All Believers in Christ,Richmond, Missouri, 1887) を書いている。
 結局11人の見証者はジョセフの血縁の3人を除いて全てモルモン教団を去っているのである。  こうした既にスタンダードになっている、反モルモンの主張に対し て、この記事は完全に沈黙を通しているのである。
 愉快なことにこの記者はこう述べている

 「これらの証人に関して綿密な調査が行われた結果,彼らは善良 な人物であり,彼らの記した言葉が真正なものであることが確認さ れています。」(P30)

  つまり、ホイットメアーの反モルモン的著作もこの記者は『真正』であるということを認めているわけである。

 またこの記者は金版が存在しそれが天使モロナイからもたらされ、短期間 で翻訳されたと言う大前提を盾にこうも言っているのである。

「さらに,モルモン書の翻訳と口述は実働約63日で完成したことが証明されています。猛烈な速さで,書き直しも訂正も なく,1日に(現在の英語版にして)約8.5ページの割合で進められました。」(P31)

 やはりなにがこのことの証明をしているのかは明示されていない。 証明しているとすれば以下のエマ・スミスの息子(これは復元教会の代表者になった人物であろう)に宛てた手紙かも知れない。

「この作業(翻訳のこと)の大部分はわたしの目の前で行われました。したがっ て,わたしはそこで行われ たことを見ることができましたし,知ることができまし た。……〔翻訳の作業〕に当たってジョセフ・スミスは,わたしが知っているあの金 属製の版を手もとに置いていた以外に,読み上げたり口述したりするためにどのよう な種類の〔原稿〕や書物をも使うことは決してありませんでした。たとえジョセフが そのようなものを持っていたとしても,わたしの目に触れない場所に隠しておくこと は不可能でした。」

 では、実際のジョセフの書記者オリバー・カウドリはどう言っているのだろうか?先の引用を今一度読み返すまでもない。モルモン教団 は、ジョセフとオリバーの間には二人をしきるカーテン状の衣服が吊るされており、金版の他、そこでは「ウリムとトンミム」という モルモンでは解訳器とされる聖なる石が使われていたのである。こ うした神聖なものにはジョセフひとりが相対しており、さすがのオ リバーでもその口述による翻訳を聞いて記録していただけなのである。
 エマ・スミスの手紙の内容はモルモン教団の公式の見解と著しく違っているのである。こうした擁護論は返って墓穴を掘るだけである。

2.金版自体の問題

 全く古代の歴史やジョセフ時代のその周辺の知識がなくても、大 きな疑問として挙げることができ、モルモン教団、教徒が有効な反論を全くなし得ないものは、金版が記録するものとして使用に耐え るものではないという『常識』の問題である。それは重さの問題であり、また充分に記録し得ないと言う容量の問題であり、そして、 耐久性も含めた硬さ(柔らかすぎる)の問題である。
 これらは、 既にわたくしのサイトでさえ話題としているのである。
http://garyo.or.tv/kaibo/kinban.htm
http://garyo.or.tv/gbkinban.htm
 こうした基本的な問題、いわばのど元に突きつけられた刃は無視し ているのもこの記事の特徴である。その上でこのような詭弁を展開 している。

「しかし,現在わたしたちは金属の版(時々金が用いられた)に宗教上の文章を筆記す ることが古代に実際に行われていた慣習であることを知っています。事実,この古代 の慣習は,モルモン書の民が生まれたのと同じ時代,同じ地域で行われていたことが 分かっています。」(P30)

 つまり、「古代アメリカでは金版あるいは金属板に宗教文書を書き記し、綴じも のとしていた」という主張であろうが、このような事実は一体どこから来たのだろうか。 そのような遺物はどこの遺跡からも全く発見されてはいないのである。
 むしろ、マヤの絵文字は石に刻まれ、その字体はまったくヒエログリフやイスラエル 文字とは異なっている。インカ文明はその終末においても尚文字を有して いなかった。北アメリカのネイティブアメリカンにおいてもほぼ同様という誰でも知っ ている常識はどこに行ったのであろうか。

「また,死海から出土した銅製の巻き物やその他の資料はモルモン書 の版の外観や作りとほとんど同じものであったことが確認されています。」(P30)

銅の巻物
発掘された銅製の巻物
金版とは似ても似付かない

 これはクムランの死海文書をさすのであろう。この銅製の巻物は洞穴3号で発見されたものである。これは記者が言うような宗教的な文章ではない。宝物の埋蔵場所を記し たものあってでふたつが見つかっているに過ぎない。その他の肝心の聖書の写本や宗教的な文書は全て羊皮紙かパピルスに書かれていてそれは膨大な量に及んでいるが、それらは全て巻物あるいはその断片なのである。材質にかかわらず、記者が思わせぶりに書いている、金版と「外観や作りとほとんど同じもの」などは一切発見されてはいないのである。ここの記事は全く事実無根である。

 

3.改良エジプト文字
 改良エジプト語(文字)の問題にしてもこの記者の言い分は一方的かつ断定的である。

 曰く、

 「このテーマ(注:改良エジプト文字)を研究している人のほとんどは,ヘブライ語を書き記すのに改良エジプト文字 が用いられていたことを,この事実は示しているという結論に到達しています。  近年,ほかの幾つかの古代文書が同様の方法で書き記されていたことが明らかになっています」(P30)

 これも全く理解に苦しむ文章である。所謂「改良エジプト文字」 はジョセフ・スミスの真筆が残っているのである。(図@)

改良エジプト文字

図@:改良エジプト文字

参照「ヒエログリフの実際

 

(2)歴史的事実・発見

 

1.人名について

 かねてモルモン書の登場人物の名前の問題は研究者によって指摘 されてきたことである。モルモン書には旧約聖書に登場しない人名 が多々登場する。それらのほとんどがヘブライ語ではないのである。 もちろん、多くのヘブライ語の人名も登場する。しかし、その中に は絶対にありえないギリシャ語のそれあるのである。
インターネットサイト「聖徒の未知」から「なぜかギリシャ語が使 われているモルモン書」 の指摘を引こう。

「さらにモルモン書には、テモテという名前が登場する(第3ニ ーファイ19:4)。テモテというのはギリシャ語の名前であり、 旧約聖書には登場しないのである。同じ節にはヨナ(Jonas)と いう名前もみられる。Jonasという名前はマタイ12:39にあ る名前であり、旧約聖書に出てくるヨナ(Jonah)のことを指し ていて、ギリシャ語からの翻訳の綴りになっている。本当に金版 からの翻訳であれば、Jonahという綴りが使われていなくてはおかしいと言える。」  

 記者はここでなにかと問題の多いこの人名について一定の反論 を提出しようとしている。取り上げられているのはサライア・ニ ーファイ・アルマ・モーサヤの四つである。これだけで、擁護論 を張ろうとしても、これだけでは充分な反論にはならない。そし て、この四つに関しても残念ながら全く答えになっていないので ある。
 記者が挙げている人名に関してみていこう。

A)サライア、ニーファイとアルマ

「モルモン書以外に見ることのできないリーハイの妻のサライアとい う名は,エジプトから出土された古代ユダヤ人の記録の中に発見さ れています。」(P32)

「モルモン書に『アルマ』という名の男性がこ人登場することは多くの 物議を醸しています。『アルマ』は女性の名前であり,ヘブライ語ではなくラテン語 であると言う評論家がいます。彼らの指摘するとおりです。もしジョセフ・スミス が19世紀の初期に『アルマ』という名を知っていたとしたら, それが女性の名前であることを知っていたことでしょう。しかしながら最近明らかに された資料によれば,『アルマ』は,モルモン書で使われているように,古代近東に おいて男性の個人名としてセム語で用いられていたことが発見されています。」(P34)


 もし、これらの発見が事実であってもこのこと自体でモルモン書 の人名の問題は解決するわけではない。モルモン書に登場する面々 がヘブライ語の名前使っていて、むしろ当然であるからである。
 しかし、後述するようにサライアは別の事情で創作されたもので あって発見は事実であっても偶然のヒットであろう。
 また、アルマが古代近東のセム語といってもどの地方のいつの時代かが示されていない。ほかのモルモン書独特の人名もこのように して次々と証明していって欲しいものであるが、そうはいかないよ うである。

「同様に,聖書に登場することのない『ニーファイ』という名は, モルモン書でその名を持つ最初の人物が登場した時期と場所に特有の名前であったことが分かっています。」(P32)


 つまりニーファイに関しては時代地域で特有なものとして片付けてしまうしかないのである。都合のよい事のみ摘んで喧伝する。これはまともな論理ではないだろう。

B)モーサヤと創作された人名


「同様に,古代ヘブライ語のmoshia’(訳注一モーサヤの英語表記は“Mosiah”)と いう語が,圧制に対抗する正義の勇者として神から任じられた者を意味し,特に暴力 によらない方法で選民を圧制から解放する使命を持つ勇者を表す」 (P34)

 ヘブライ語を理解しないわたくしにはこう一方的に断じられては なんとも言えないのであるが、わたしの見解を述べておこう。どち らが正しいかを判断されるかは読み手の自由である。
 イスラエル・ユダヤの人名にはそれぞれ意味を持つことが多い。 イザヤはヤハゥエは救い、エリアはヤハゥエは神である、エレミア はヤハゥエが建てる、サラは女王、などなどである。
 ところがモルモン書に特有の人名はこうした意味を持たないことのが 多いのである。ニーファイなどはその顕著な例である。
 そして、モルモン書の人名は先に使われたものの語尾を変化させて作 られたものが大変多いのである。大方はモルモン書特有の人名に見られ るのである。ニーファイ→ニーファイハ・モロナイ→モロナイハなどで あるが、聖書から借用したものもある。一例を挙げればイザイアスとい う人名はイザヤからの転用である。前述のサライアはサラあるいはサラ イからの変化であろう。
 結局このモーサヤという人名も聖書の偉人モーセ(Moses)の語尾 を変化させて作ったものであろうということである。当然元の名前 のモーセには解放者の意味はあるわけである。
 また、イシマエルの家族・ヤレドの兄弟など重要なキャラクター であるのにその名前が記されていないのが多いのもモルモン書の特 徴である。不用意な聖書の人名(ギリシャ語名)の流用、安直な語 尾の変化で人名を量産、などと関連付けて考えると、おのづとモル モン書がジョセフ・スミスの創作であるとの結論が出るのである。

.リーハイのエルサレム脱出ルート
 「モルモン書はわたしたちが知っている旧世界と一致しています。バビロン捕囚直前 の古代エルサレムの様子を記したモルモン書の記録は,調査が進められるにつれて信 憑性の高いものとなっています。」(P32)
 これは全くの出鱈目である。御用記事としてもこれはひどすぎる であろう。ジョセフ・スミスはエルサレムがどんなところか全く理 解していなかったのは明白である。
 モルモン書にはエルサレムが堅牢な城壁に囲まれた、山上の城塞 都市というイメージは全くない。そのため、先祖伝来の受け継ぎの 地がエルサレムにあったり、夜間になんの苦労もなく潜入できたり、 するのである。モルモン書で描かれるエルサレムは牧歌的で開拓時 代のアメリカの町をイメージする方がしっくり行くのである。
 また、この記者はもっとも大切な不一致点リーハイの脱出した時の王の問題を避けている。わたしのサイトの「リーハイはいつエル サレムを脱出したのか?」で指摘しているモルモン書にとっての一 大問題である。リーハイはゼデキア王の一年目から預言を開始した のであるが、それが前600年とモルモン書は述べるのであるが、 その時ゼデキアはまだ即位していないばかりか、マタンヤという別 名だったのである。
 こうした世界史の常識を無視して一方的な断定をされては、証拠 ・証明などの話ではないだろう。
 また、モルモン教団の発掘は近東はもちろんアメリカ大陸でも全 く成功を収めていない。というよりも、発掘や調査をしているとい う振れ込みだけで実際はなにもしていないのではないだろうか?こ のことについては貨幣制度の問題でも触れる。
 また、もし真剣にモルモン教団がモルモン書の真正を考古学的に 実証したいならもっとも簡便な方法はクモラの丘周辺を発掘するこ とであると提案しておこう。そこでは数十万の人骨、おびただしい 武具、野営の後、当然貨幣や装身具が簡単に発掘されるはずである。 わざわざ近東にまで赴く必要はないのである。
 さて、リーハイ一行の脱出ルートについても、反論が切なくなる ような主張をしている。
 「ヒュー・ニブレー(付記参照)は1952年に発表した随筆『砂漠の中のリーハイ』("Lehi in the Desert")の中で、エルサレムからリーハイが旅した陸路はアラビア半島の海岸沿い であったという解釈を発表しました。これを契機にして末日聖徒の学者や探検家は現 地を訪れ、同地域を体系的に調査したた結果、リーハイの取ったルートについてわた したちに光を投げかけています。これによって、モルモン書に記されている場所がア ラビア半島であったであろうと考えることができます。アラビア半島を旅していたリー ハイに関するモルモン書の説明書は、アラビア半島の地理的な条件を正確に伝えています。」(P32から33)
これも、根本的で克つスタンダードなモルモン書批判に答えていな い。そのように教団やその御用学者が推定し主張しても、リーハイ のたどった経路だと、どうしようもない矛盾が存在するのである。 詳細は森秀樹氏のサイト聖徒の未知から直接読まれるのが、よいだ ろう。

<テレポーテーションの謎>
http://seitonomichi.maxs.jp/sinjitu/bomormon/okasina.htm

さて、この「紅海に注ぐ川」が存在しないと言う指摘に対して教団 はいわゆる「ワジ」であるとの苦し紛れをしている。しかし、とう とうと谷を割って流れその流れを見てはじめて「この川ように、絶 え間なくあらゆる義の源に流れ込むように」(第一ニーファイ2: 9)という祝福の言葉を述べたのでなければ、ここは意味が通じは しまい。アカバ湾あたり地図
 また、この推定ルートにあたる地点は必ずしも全てが荒野ではな いということも重要である。地図を参照されたいが、アラビア半島 の付け根アカバ湾には、イスラエル・ユダヤには重要な2つの都市 があったのである。ひとつが「エジオン・ゲベル」もうひとつが「 エラテ」である。(後にひとつになったと言う説が有力である)ソ ロモンはこのエジオン・ゲベルに港を築き紅海への根拠地としたの である。シバの(現代のイエーメン)の女王は母国を船で出て、こ の港で上陸し陸路エルサレムに向かったのである。このソロモンの 栄華の物語はこうした背景を抜きに語れない。しかし、彼の死後、 この重要な拠点はユダとエドム人との争奪戦の的になる。結局、前 735年頃からエドム人の支配が確定し聖書の記述からこの町は消 えてしまうのである。
もちろん町自体が消えたわけではない。リーハイの当時も様々な民 族の隊商達が様々な方面からこの一大通商港湾都市を目指してやっ てきていたのでである。それらとの交流、すれ違いすらも、一切モルモン書には描かれていない。リーハイ一行の旅は終始一貫孤独で 、生肉を食べて生き延びたなどの非聖書的記述すらある。しかし、 そのような必要は全くなかったと推定されるのである。
 また、この町は出エジプトの折モーセに率いられた民が宿営した テル・エル・ケレイフェと同一視されている。(民数記33:35) そのような重要な町を一行が記録に留めないと言うことがあるだろ うか。
   「エルサレムから新世界に向かったリーハイの勇壮な旅は彼の子孫の記憶に長くとど められました。その旅について彼らは,かつてイスラエル人がエジプト人によって奴 隷とされていた境遇から解放されたときと同様に,神が奇跡的な力を持っておられる ことの証拠であると考えていました。」(P33)
 記者が言うとおりであれば、出エジプトとリーハイの脱出劇が関 連付けられこの町の模様が伝えられるのが本当だろう。「いまは異邦人の手に落ちているためこの町に入ることは御霊によってとどめ られた」など・・・この町についての記述がなされないと言う事は 常識では考えられな いのである。なにしろ、そのためにも真鍮版を取りにエルサレムに戻っ たのであるから。

ヒュー・ニブレーについて(付記)
 モルモンの御用学者でモルモン書などの真正を証明するためにか なりのとんでも説を唱えた。モルモンフォーラム21号ではモルモ ンのエンダウメントで行われた儀式のひとつがピラミッドの絵文書 に酷似していることでエンダウメントが古代からの儀式であると証 明しようとしたことが紹介されている。
 最新の発見による証拠・証明を主張するこの記事が1952年の書籍 を提示しているところもモルモンの歴史学の限界を示しているので ある。むしろ、モルモンでも良心的な研究者はモルモン書の真正さ に疑問を抱き、そしてそれがもとで教団から様々な処罰を受けてい るのである。マイケル・クイン氏がその好例である。(参照:高橋 弘氏論文 モルモン教と知識人

 

3.貨幣と発掘の現状

「モルモン書はその詳細な部分に至るまで,古代近東と深いかかわりを持つことを示 しています。例えば,アルマ書第11章3節から9節に記されている貨幣単位制度は古代 バビロンの経済法を思い起こさせます。」(リアホナ9月号P33)

 記者の挙げるモルモン書の箇所から見てみよう。
(1)当時、借金をするものがいて、訴えられることがあった。( 11章2節)
(2)ニーファイ人には金貨と銀貨が流通していた。(4節)
(3)金貨には5つの単位・銀貨には7つの単位があった。(4節 )
(4)穀物を計量するには升(ます)が使われたが、大麦など穀物 によってそれぞれ別の大きさの升が使われていた。(7節)

注:ここをすべての穀物が等価で同じ升で計られていたという解釈も可 能であるが、それはより以上に荒唐無稽であろう。

(5)さばきつかさは一日働いてこの金貨・セナインあるいは銀貨 ・セヌムの1枚を受け取った。(3節)
 モルモン書の記述に従えば、その時代はかなり発展した経済社会であったとおもわれる。借金が問題となっており、また、金貨と銀貨が流通しているのである。しかし、その一方で大麦はどれくらい の重さに当たるという記述がなく、ひと升という大雑把な単位で取引されているのである。これは重さの単位は確立していなかったいうことであろうが、大変奇異なことである。いずれの歴史においても重さの単位は貨幣に先行して確立しているのである。
 例えば、市場(いちば)に大麦ととうもろこしとインゲンを買いに行ったとしよう。市場にはこの穀類を3種の升ではかり分けて販売することになるのである。もちろん、販売する店はそれぞれに半分や1/4のなどの容量の升を常備せねばならず、これはたいへんな煩雑かつ無駄である。
 もちろんバビロンの経済法はこのようなものではない。リアホナ記者の記す古代バビロンの経済法の根拠は、毎度の事ながらどの王朝のなにをどの資料に基づいて述べているのか全く不明である。わたしはここではラルサの8代目王ヌル・アダド(前1865〜50)の碑文を引用し、古代メソポタミヤの経済の一部を紹介しよう。中央公論社の「世界の歴史 第1巻」で読める極めて入手しやすい史料である。

「我が良き治世(のあいだ)、国土の標準価格(文字どおりには『 市場』) として、銀1ギンで、2グルの大麦、(ないし)2バンの油、(ないし)10マナの羊毛、(ないし) 10グルのナツメヤシが買えた。そのとき我は、聖所に山のようなラルサの大城壁を建てた。一 人あたりの賃金として(人は)3バンの大麦、2シラのパン、2シラのビール、2ギンの油を一 日に受けとった」(1ギン〔シェケル〕=約8.3グラム、1マナ〔ミナ〕=60ギン=約500グラ ム。シラ=約1リットル、1パン=10シラ、1グル=300シラ=約300リットル)。
 (P214)

 王はここで銀を本位にして標準価格を定め、公共事業での労働者 への賃金を定めたことを治世の業績のひとつとしてあげているので ある。貨幣以前にすでに重さによって価格が定められたことがわかる。

 また、さばきつかさの俸給から、穀類を計測した升を想像しても おかしな事に気が付く。即ち、さばきつかさの日当は大麦などの升 一杯分である。さばきつかさは当然家族を持っていたわけであるから、扶養すべき子供や親がおらず夫婦ふたりとしても、この主食の麦で少なくとも、ひとり一日2食として4食分をまかなわねばならない。もちろん、主食以外の副食物、調味料、飲料も買わねばならないだろうし 、衣料品や雑貨など日用品の多くも市場で調達する必要があったわけである。そうなるとさばきつかさあるいはその妻はセナイン金貨、 あるいはセヌム銀貨数枚を持って市場に行き、これらをまとめ買いしたか、毎日市場を訪れて主食を半升ほど買って、つり銭でその他を買ったか自宅で貯蓄したということであろう。しかし、そうなると、一体その升の大きさと言うのはどれほどのものだったのだろうか。想像するだけで、モルモン書の記述が「経済法」などではなくてただの荒唐無稽なお話であることが理解されよう。

    モルモン書の記述 シブロン換算 穀物換算(升)
レア 1/2シブルム 0.25 0.125
シブルム 1/2シブロン 0.50 0.250
シブロン 1/2セヌム 1.00 0.500
セヌム   2.00 1.000
セナイン 1セヌム 2.00 1.000
アンテオン   3.00 1.500
アムノル 2セヌム 4.00 2.000
セオン 2セナイン 4.00 2.000
エズロム 4セヌム 8.00 4.000
シュム 2セオン 8.00 4.000
リムナ 5セナイン(1セナイン+1セオン+1シュム) 10.00 5.000
オンタイ 7セヌム(1セヌム+1アムノル+1エズロム) 14.00 7.000

 また既に「モルモン書を切り刻む」の「イエスのニーファイ人へ の説教(1)」でも述べたように 12の貨幣の単位は常識はずれである。また、それらのほとんどが、2進法である。(上記表参照)つまり、2枚で次の単位になるのである。日本では千年札二枚で2千円というのがあるが、 これとて円という単位が変わるわけではない。こんな非能率は考えられないのである。

 そして、マイケル・クイン氏がビデオ「神を造った人々」でのイ ンタビューで答えている通り、これだけの種類がありながら、それ らのいずれのひとかけらさえもどこからも発掘されていないという発掘の事実も忘れてはならないのである。

4.バビロン捕囚

 モルモン書(ジョセフ・スミス)の致命的なミスであるイエス・ キリストがエルサレムで生まれるとの預言を、リアホナの記者は以下のように取り繕っている。これは、今までの定番の言い訳の繰り返しである。

 「アルマ書第7章10節では,イエスが『わたしたちの先祖の地であるエルサレムで, マリヤからお生まれになる』と予告されています。これは間違いでしょうか。イエス はベツレヘムでお生まれになったことをわたしたちは知っています。しかし,近代の 発見によって,ベツレヘムは古代において『エルサレムの地』の一つの町であったと 考えられていた可能性があり,事実そのとおりであったことが明らかです。」


 既に「モルモン書を切り刻む」の「イエスはエルサレムで生まれた?」 で指摘済みであるが、もう一歩筋道立てて考えてみよう。
 イエスが育ちその活動のほとんどはガリラヤ地方(本当のところ生まれたのもガリラヤであろう)であるのに、何故、イエスはベツ レヘムで生まれなければならなかったのかと言うことである。
それはイスラエル・ユダヤの王ダビデがベツレヘムの出身で王はベ ツレヘムで生まれると信じられていたからである。つまり、民衆の 間には救い主たるイスラエル・ユダヤの王はダビデの子孫であり、 同じくベツレヘムで生まれるという共通認識が既にあったのである。 だから、福音書の記者はその預言の成就を預言者の言葉とともに残 したのである。
 そして、エルサレムは長くカナン人の所有するところであったが、 ダビデの攻略によってその王国の都、政治とヤハゥエ信仰の中心地 となったのである。この町には「ダビデの町」という称号も与えら れているのである。
 その共通認識と歴史に刻み込まれた王の出身地と営んだ都とを例 えエルサレム地方としてくくれるたとしても、預言者が一緒にする と言う事はありえないのである。
 ましてや、もともとユダ族の嗣業の地であるベツレヘムといずれ の部族の嗣業にも属さないエルサレムとを同じ地方と見なすと言う こともありえないのである。

 そして、バビロン捕囚についてはこの記者は根本的な誤解をして いる。
 「一例を挙げると,最近発行された死海写本の文書では,これはエレミヤの時代(す なわちリーハイと同時代)に記されたと言われている文書ですが,当時のユダヤ人は 『エルサレムの地から捕囚された』と記されています。しかしジョセフ・スミスは聖 書からこのことを知ることはできませんでした。聖書にはそのような記述がないから です。」
 バビロン捕囚人をユダ王国全住民にあてはめて根こそぎバビロン に連れて行かれたと解釈すること自体が既にモルモン教の教義から 出発しているのである。すなわち彼の言いたいことは、
「ユダヤ全土からバビロンに捕囚されて行ったのに、死海文書では エルサレムからの捕囚とある。つまり、エルサレムと言うのはユダ の広範な地域をも指し示すのである」
というまことに得手勝手な曲解である。
 なにも死海文書を探す必要もない。聖書の記述を見てみる。第一 回捕囚時(前597)の記事である。
 「バビロンの王(ネブカドネツァル)は主の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所の ために造った金の器をことごとく切刻んだ。彼(ネブカドネツアル) はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇 士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残さ れたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。」(列王記下2 4:13〜14)
 また第二回捕囚時(前587)には、
 「民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、 その他の民衆は、親衛隊の長メブザルアダンによって捕囚とされ、 連れられれた。」(25:11)
 「バビロンの王ネブカドネツァルは、彼が残して、ユダの地にと どまった民の上に・・・ゲダルヤを総督として立てた。」(25: 22)
 これらの聖書の記事を読めば、捕囚は首都エルサレムで徹底して 行われたが、それでも、貧しい者は残されたことがわかるのである。 なにも死海文書を引くまでもなく聖書にちゃんとその旨は書いてあ るのである。

 さて、問題はリーハイ一行であろう。既に指摘の通りリーハイは前 600年にエルサレムを脱出した。そしてその時の王はゼデキアで あったということである。年代を取ればリーハイの脱出は第一回捕 囚直前、王の名前を取れば第一回と第二回の間になる。リーハイが 多くの財産を持っていたとモルモン書は述べているが、そのような ことがありえるのだろうか。エルサレムに残されていたのは「貧し い者だけ」だったのだから。この問題はまた別項で論じることにし たい。

4.コロンブス

 モルモン書でコロンブスが明確に預言されている事がこの記者に は、モルモン書が真正なものであると言う証明であるようである。

ニーファイが受けた示現に見られる比喩的な表現は古代近東の象徴主義と深くかか わっています。しかし,ジョセフ・スミスがこの象徴主義に精通していることは不可 能でした。さらにそこで語られている預言は驚くほど正確です。一般にクリストファー ・コロンブスを指していると考えられているニーファイ第一書第13章12節を例に取っ てみましょう。「それで眺めると,異邦人の中に一人の男が見え,その男は大海によっ てわたしの兄たちの子孫から隔てられていた。すると神の御霊が降ってこの男に働き かけ,この男が大海を渡って、約束の地にいるわたしの兄たちの子孫に行くのが見え た。」多くの人はコロンブスが冒険家であったと考えています。けれども、最近出版 された「預言の書」(Book of Prophecies)によると、モルモン書の説明がどれだけ 正確であるかがわかります。コロンブスは聖なる御霊によって導かれたこと、キリス ト教の信仰を広めることだけでなく、聖書の預言を成就することを熱心に求めていた と述べています。

  確かにモルモン書の予言はいずれも驚くほど正確でかなりの的中 をしめしている。中には「イエスはエルサレムで生まれる」などと いう失敗もあるが、その確度は聖書のそれの比ではない。しかし、 こうした予言が世界はもちろんモルモン教団自体に大きな影響を与 えたという事はない。何故だろうか。理由は簡単である。モルモン 書の予言はすべてジョセフ・スミスの時代までのものが的中してお り、それ以降の予言はないかあるいはまだ成就の時が来ていないと いうことになっているのだ。本がない時代に金版が出版され本とな ることを想像させる予言があったりするわりに、インターネットに よって教団の情報が全世界に発信され、教団の大会の模様も伝えら れるという偉業は予言されていないのである。
 さて、コロンブスの目的はなんだったのだろうか。それは中学生 でも歴史を学べば分かるのである。ポルトガルの太平洋航路に対抗 して、大西洋を横断してインドに至るというスペインの世界戦略に のってインド・ジパングを求めての航海だったのだ。
 彼の練り上げた航海計画はようやく、スペインのイザベル女王の 援助を得るに至る。西回航海をすれば、必ずインドやジパングなど の香辛料と黄金の国に到着できるというものであった。
 1492年8月3日早朝、旗艦サンタ・マリア、ニーナ、ピンタ の3隻の船をひきい、72日間の航海の後、バハマ諸島のサンサルバドル島に到達した。彼は、原住民が鼻につけている金の輪を見てま さに黄金の国近しを確信、キューバに至るやこの地をジパングと認 定したのである。しかし、絹も黄金で出来た宮殿も見つけ出せるは ずもなく、原住民を連れ去り、適当な金細工などを持って凱旋した のである。
 都合4度(うち3度は総督として、4度目は総督を解任されてい る)コロンブスは新大陸へ航海をしているが、結局、これが新大陸 であると言うことを理解もせず、当然ではあるが、アジアの一部で あるとの証拠も得ることがなかったのである。
 これは義務教育レベルで知っている歴史の常識である。
 記者がもし「預言の書」(Book of Prophecies)を根拠にコロン ブスが出発時から既に新大陸とレーマン人の発見を目的としていた と言うのであればその反論の骨子でも述べるべきであろう。それが、 定説に対する態度と言うものだ。
 結局、コロンブスはアメリカ大陸を終生アジアの一部であると信 じて疑わなかったのである。
 モルモン書の述べる聖なる御霊とは、コロンブスに新大陸の発見 を促しつつもその実体については誤解のままで生涯を終わらせてい るのである。なんとも、無責任でひどい働きをする聖霊である。
 そして、煙草・梅毒といったあまり聖なる御霊とは縁のなさそうな ものを彼らは持ちかえっていることも付言しておこう。

 

(3)宗教的習慣・生活

1.ベニヤミン王の説教
 リアホナ記事記者はベニヤミン王の説教を引き合いに出して、こ れもモルモン書が真正である有力な証拠であると力説している。し かし、残念なことに事実は逆である。このベニヤミンの説教の周辺 にもモルモン書が創作であるとの事実で一杯なのである。

 モーサヤ書第2章から第5章にかけて記されているベニヤミン王の有名な説教は,現 在の英語版で12ページに及んでいます。これはジョセフ・スミスがわずか1日と少し の間に,英語で5,000語近くにも及ぶ教義的に深い文章を口述したことを意味してい ます。最近行われた調査によると,この説教は古代イスラエルの仮庵の祭りと購罪の 日だけでなく,古代の条約と聖約の様式や近東の初期の時代に行われていた即位式と も深いかかわりを有していることが明らかになっています。王がやぐらの上に立つ (モーサヤ2:7参照)という方法もそうした場合の儀式的な要件にかなったものでし た。しかし,預言者ジョセフ・スミスにとって,聖書や入手できたほかのどのような 書物からもこれを知ることは不可能でした。

 全く言っている意味がわからない。前提として、どうも贖罪の日 の儀式・仮庵の祭の儀式とはベニヤミン王の説教とは既に深い結び つきがあると言うことのようである。
 では、この重要なふたつの儀式とはどんなものだったのだろうか。 贖いの日はイスラエル・ユダの国民は自分たちの罪を告白し罪の赦 しときよめを願う日である。チスリの月(9月の終わりころ)10 日に行われるようである。大祭司は白い麻の服をまといいけにえを 捧げる。幕屋あるいは神殿の至聖所に入れる唯一の日である。
 この日のハイライトは身代わりの山羊に民の罪を預けて荒野に追 いやるという儀式である。
 また仮庵の祭は同じ月の15日から21日に行われる。いわば収穫祭で楽しく、民にとっては人気のあるものだった。祭の間は庭や 屋上に木の枝で作った小屋(庵)を建てて先祖の荒野の旅を忍んだ のである。
 ベニヤミン王の説教との類似点を拾ってみよう。それは、人々が 王の都ゼラヘムラにある神殿の前に集まり天幕で泊まったというこ とだけである。モルモン書にはベニヤミン王の説教は載せられてい ても、この時こうした儀式が行われたという記録は一切ないのであ る。それどころか、このゼラヘムラという町にはどうゆうわけか神 殿があったのである。
 この事が大きな矛盾であることは別項で論じているが、重要極まりない神殿がいきなりなんの脈路もなく出現するとはどう考えても おかしな事である。
 また、ベニヤミン王の説教を聞くために集まった民は家畜の初子 をはん祭の犠牲として捧げるためにつれてきたという。(モーサヤ 2:3)はん祭は犠牲を神殿の祭壇の火で焼き尽くす儀式である。 ベニヤミンは集まった民があまりに多くて、その説教のためにやぐ らを建てさせたほどであるから、当然この時のはん祭の儀式はかな りの大規模なものになり、犠牲の煙は絶え間なく天へと昇ったはず である。おそらくはアメリカ大陸移住後最大のエポックであったこ とは間違いない。まさに記念・特筆すべき出来事であるが、しかし、 このはん祭の様子も全く描写されていないのである。
 また、息子モーサヤへの王位の委譲にかんしても触れられている のはわずかに過ぎない。

 「さらにベニヤミン王はこれらのこと(キリストの名を受けるとい う誓約を民と交わすこと)を全て終えると、息子モーサヤを聖別し て民の統治者とし、王とし、王国に関する一切の責任を彼にゆだね た。また、民を教える祭司たちも任命した。・・・ベニヤミン王は 群集を解散させ・・・」(モーサヤ6:3)

 これだけである。王の交代はそんなに簡単なものではない。大体 王権を委譲した時点でベニヤミンは息子とは言えモーサヤの下位に立つわけである。中世日本の院政ではあるまいし、ベニヤミンが引 き続き祭司を任命し、民を解散させるという事はありえないのであ る。常識的に王位についたモーサヤはただちに父ベニヤミンの業績 を賞揚する演説を民に行い。父に太上王とかそれなりの地位を与え るのである。そして、官職にあるものを上位から改めてあるいは新 たに任用していくのである。そして民と王とが誓約を交すのである が、それらの一連の手続きがが全く触れられていない。これでは、 リアホナ記者が「古代の条約と聖約の様式や近東の初期の時代に行 われていた即位式とも深いかかわりを有していることが明らかになっ ています」と一方的に言っても虚しいでけである。
 そして、リアホナ記者ご自慢の王の説教もはなはだ低調なもので ある。
 最初に王は群集の中で声の届かなかった者たちの為に書き取らせ たものを届けさせたという。(2:8)これは速記術が既にあったという驚くべき事実であるとともに一体何に書かせたのかという疑 問がわく。当然紙は彼らには伝わっていないのである。常識的には 羊皮紙などの皮革であろうがかなり高価であると共に速記にはむか ない。金属版や木の板も問題外であろう。使った文字の問題もある がここでは触れない。
 王は自分が只の人間であり取るに足らない者だと言い、自慢をする為に皆を呼んだわけではないと言う。しかし、その反面「あなた がたの血がわたしに降りかかることがないように」(2:27)集 めて説教をしていると言うのである。つまり、ベニヤミンは「王としての「生涯をあなたがたの務めに費やしてきた。・・・神のために努めてきた」と言うのは自分自身が神の救済を受けるが為であっ たということである。
 このベニヤミンの時代、レーマン人との多くの戦争があったこと が述べられている。結果的にニーファイ人は勝利し、国の独立は守 られたのである。(オムナイ1:24)当然、ベニヤミンは自身の 生涯の総決算とも言うべきこの説教で彼の愛する民に向かってこの 戦いの労をねぎらい、戦没者に対する哀悼の言葉のひとつもあるは ずであった。しかし、生涯を「あなたがたのための努めに費やし」 (モーサヤ2:19)た王からこの種の言葉は一切聞けないのであ る。それどころか、犠牲の家畜を携えてやってきた信心ぶかい民に 向かって「そのような者には憐れみは及ばない」(2:39)「生 まれながら人は神の敵であり・・・」(3:19)「行いが悪けれ ば・・・惨めな無窮の苦痛の状態に彼らを陥れる」(3:25)な ど恐怖をあおる言葉の数々を投げつけるのである。
 さらにおかしな事は民がこれらの言葉を聞いて悔い改めるという 展開である。民にすれば、律法にしたがってはん祭を捧げに神殿に はるばるやってきて、共に戦った王の退位に立会い、またその息子 への譲位を祝うつもりでいたところに「君達は罪人だ」とはなんと いう言い草であろうか。おまけにその説教には極めて抽象的にしか 彼らの罪は語られてはいない。「一体、俺たちがなにをしたんだ?」 と感じるのが普通の感情であろう。
 また、ベニヤミンはイエス・キリストを非常に明確に預言してい る。(3:8〜9)この箇所もおかしなことがある。まず、「キリ スト」というギリシャ語をいきなり民に語っても理解できないとい うことである。また「十字架につける」とその死の様子も明確であ るが、これも民にすれば奇異なことである。律法の死刑は石打ちで ある。使徒行伝でもステファノはこの手法で殺されている。十字架 といわれても彼らにはその経緯が全く掴めないのである。ベニヤミ ンはもっと丁寧に、捕囚の民のエルサレムからの帰還。ヘレニズム の時代。マカベアのユダの奮闘とハスモン王朝の成立。ローマによ る占領と、ヘロデの神殿の再興。なども明確にかつ親切に語ってあ げるべきであった。そうしないと民にはこの預言は全くちんぷんか んぷんである。
 どうしてこのような出鱈目になってしまったのかを考えるとひと つの答えしか出てこない。ジョセフ・スミスが自分の頭に思い浮か んだことを口述したという事であり、かれは通りいっぺんの聖書の 知識すらも持ち合わせていなかったから。そう考えれば納得がいく のである。

2.オリーブの木の例え

 リアホナ記事の特徴は明確な矛盾点を微妙にずらして、かつ既に いずれかにて反論が成立しているかのように書いていることである。 以下のオリーブに対する証明もこの手法をとっている。

 ヤコブ書第5章に記されているオリーブの木の比喩には,アメリカの北東部で育っ たジョセフ・スミスが知っているはずのないオリーブの栽培法について明確な知識が 表されています。この説明はオリーブの栽培法に関する古代の手引書に見られるもの と驚くほど細かな点に至るまで完全に一致しています。

 まず、記者はオリーブがコロンブス以前にはアメリカ大陸にはな かったという歴史的事実は無視し栽培法が妥当なもので、それは古 代の手引書によって証明されている。(毎度のことでその根拠とな る資料は示されていない)無学なジョセフ・スミスは知るべくもな かった。すなわち、モルモン書は真正であるとの曲がりくねった論 法である。
 オリーブの歴史と伝播も含めて以下のサイトがわかりやすいので 参照されたい。日本でオリーブと言えば小豆島である。そのサイト。
http://www.pref.kagawa.jp/noshishozu/olive/rekisi.htm
 しかし、このヤコブ書の例えは元々モルモン書オリジナルなもの ではなく、ゼノスという失われた預言者の言葉をラバンの真鍮板か ら引用しているのである。だから、パレスチナの地で語られ記され たのであるのでオリーブが例え話として出てきてもおかしくないと いう議論も成り立ちそうである。このゼノスという人物は聖書にそ の名前すらも登場せず、何時の時代のどこで活躍したのかも明確に は分からないのである。これは明かにジョセフ・スミス創作による 人物である。
 さて、しかし、モルモン書でここを引用をしているニーファイの弟 ヤコブは荒野で生まれたわけ(第1ニーファイ18章)で、オリー ブの栽培のことなど一切知らないし、良い木であるオリーブなど見 たこともなかったはずである。オリーブを知っていたとしてもそれ は荒野に自生した野生のものであり、それも幼心におぼろげに覚え ているかいないかであっただろう。リーハイ一行の荒野での主食は 野獣の肉であり(第1ニーファイ16章)煮炊きせずにそれらを生 や乾燥させて食べていたのである。(第1ニーファイ17:12) これは既にモーセの律法に違背しているが、今は触れずにおく。
 引用しているヤコブにしてもそれを聞いているニーファイの民に してもオリーブの栽培方法を元にした例え話などはまったくちんぷ んかんぷんであったのである。果たしてわざわざこのような人が混 乱する話を只でさえスペースの少ない金版に書く物であろうか。
 そして、このゼノスの例え話自体にもおかしな事だらけでなので ある。
 ゼノスの時代にはどうやら大掛かりな果樹園があり、それを領有 し経営している主人と多数の使用人がおり、またオリーブが大量に 栽培されていたようである。オリーブを人手を雇ってでも栽培し流 通させて、それを生業とするというような経済状況にはリーハイの エルサレム脱出時(前600年)段階でもまだなっていなかったの である。当時、ほとんどの人は家にオリーブといちじくを植えてい て、それで必要な分は個々にまかなっていたのである。オリーブの 収穫は10月から11月に行われたが、あり難いことは実の熟する のがゆっくりであるので、手すきな時に摘み取ることができたので、 大変便利であった。実(み)はピクルスとして食べることもあるが 大抵は搾り機にかけて油をとるのであった。
 それにオリーブはどんな石地にも育ち、一度根をおろせばほとん ど枯れることなく、何百年という古木も珍しくはないのである。
 接木して増やすという方法は確かに一般的な方法であったようで ある。しかし、先のサイトによれば、

「ローマ人支配地域が北アフリカに到達した頃、現地のベルベル人は野生オリーブに他品種を接ぎ木する方法を知っており、ローマ人支配地域においてオリーブ栽培が発展していった。」とある。

 すなわち、接木法はずっと後世にローマから導入された物であり 、当時のイスラエル・ユダヤではまだ発見されていなかったと言う ことも明白な事実であり、ゼノスがが語れるはずのない事なのであ る。
 この接木の方法であるが、野生のオリーブに良い木の枝を接木す るのであるが、その逆は行わないのである。(日本キリスト教団  聖書辞典 オリブの項より)ところが、ヤコブ書ではこれをあたりまえのこととして実行しているのである。(5:9〜10)これでは、 記者のいうような「オリーブの栽培法に関する古代の手引書に見ら れるものと驚くほど細かな点に至るまで完全に一致しています」な どとは言えないのである。
 実はこの箇所はローマ人への手紙11:17〜で異邦人の救いに 関しての例え話のコピーなのである。ここで、パウロはあえて、こ の普通は行わない事を例えとして使っている。異邦人は野生のオリ ーブの枝として良い木であるユダヤ人の根に接木されたと述べてい るのがそれである。オリーブが不可欠の手紙の読み手達はこれは通 常ありえないことであるから多いにいぶかったことであろう。そこ でパウロが結末に「元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接木されたとすれば・・・」(24節)という神の恩恵と慈しみ のメッセージが明確に伝わるのである。
 たいして深くも考えずジョセフは物語を語っているのであるが、 それを上回る生半可な知識で擁護しようとしてもそれは返って墓穴 を掘るだけである。

3.交差配列法

 交差対句法を金科玉条としてモルモン書の真正を云々するのこと も今まで行われてきたところである。

 

記録が古代のものであることを示すもう一つの力強い証拠は,「交差対句法」とし て知られる古代の文学的構成あるいは手法の特徴がモルモン書の中に見られることで す。交差対句法とは対応する節を用いる修辞法で,ジョセフ・スミスの死後数十年た つまで聖書学者が見落としていたものです。現在確認されていることによれば,この 同じ文学的構成は確かにコロンブスのアメリカ到着以前のアメリカ大陸で書かれたも のに見受けられます。モルモン書に見られる交差対句法の幾つかは,英語よりもヘブ ライ語による表現に顕著であり,モルモン書の原語を探るうえで重要な,また注目に 値する手がかりとなるものです。


 しかし、現実、交差対句法( 交差配列法と言うほうが一般的であり以後はこれを用いる)とはど んなものであるかも、日本人モルモン・非モルモン(反モルモンを 含む)知らないのである。こうした記事を載せるのであって、なお モルモン書が真正であるとの「力強い証拠」であれば、せめて編集 者注という形ででも実例を挙げるべきであった。
さて、では交差配列法(Chiasmusカイアズムス)とはどんなものなの であろうか。
古代イスラエル文学では並行法(パラレリズム)と並んで好んで 使用される修辞法である。
 ただ、はっきりと言っておかねばならないことはこれは記者が言 うような「古代の文学的構成あるいは手法」ではないということで ある。現代にいたるまでこの修辞法は生きているのである。
 なにはともあれ実例をひとつ見てみよう。詩篇の113篇2〜3 節に見られる交差配列である。

詩篇

この箇所の新共同訳聖書による日本語訳は

「今よりとこしえに
   主の御名がたたえられるように。
  日の昇るところから日の沈むところまで
   主の御名が賛美されるように」

  対句表現に転換して、詩的感動を努めて残しているのであるが、 交差配列法を日本語訳から見つけることはできない。こうした修辞 法をそっくり外国語に移植することは難しいようである。この修辞 法はヘブライ語の文法と密接に関わっているのであって、文法が変 われば、交差配列を生かした翻訳と言うのはなかなか難しいのであ る。モルモン書はヘブライ語を、金版の省スペースのため、わざわ ざエジプト語に翻訳して記していのである。そして、そのエジプト 語から、ジョセフ・スミスによって英語に翻訳されているのである。 旧約聖書でのヘブライ語から日本語への一回の翻訳でさえこの修辞 法の特徴を残すことに訳者は苦労しているのである。それを3回の 変換で交差配列法をそのまま残す事は不可能でだろう。
 むしろ、交差配列法は旧約聖書で多く使われ特徴的で効果的な修 辞法ではあるが、必ずしも聖書固有のものではないということも重 要である。創作することの方が容易であるのだ。

例: We went to the city, to the village went you.

日本語でもこの修辞法は容易である。

例:あなたはわたしを好き。だから、大好きわたしもあなたを。

 いささか、面映い例ではあるが、ちょっとした歌の歌詞ならこう した表現は出て来そうである。だからと言ってそこで使われている 修辞法が聖書にあるからといって流行歌を「神の言葉」とは普通、 だれも言わないのである。

 むしろ、饒舌で雄弁を自認するむきには、こうした表現法が無意 識に出てきてしまうというケースもあるのである。モルンモン書に 交差配列の実例があったとしてもそれはヘブライ文学との関連は皆無である。

(4)記者について
 この記事の記者ダニエル・C・ピーターソンとは如何なる人物か をわたくしは日本の教会本部内のリアホナ編集の担当者に問い合わ せてみた。編集担当の岡田氏は電話口にてソルトレークに在住のラ イターであると言うこと以外の詳しいことは解らないとの回答であっ た。
 しかし、はっきりしていることがふたつある。まず、この記者は 所謂教団の霊的な指導者ではないと言うことである。つまり、モル モン・イエスやモルモン神からの霊感を受けて持って、公式の解答 を与え得る立場にはないということである。つまり、あくまでも一 信者の個人的な見解として、立場に窮すれば棄てられる可能性があ るということである。ご存知のようにモルモン教団は過去の教団指 導者や預言者の言動・記述でさえ時に「個人的見解」という理由で 葬って来たり、改竄したりして来たのである。
 もう一点は、この記者はBYUなどの教団関連の学術関係に所属 するれっきとした「研究者」でもないということである。一介のラ イターとして趣くままに書いているに過ぎないのである。そう考え るとわたたちが奇異にまた時に不快に感じる、「脈路ない断言の濫 発」もなんとなく納得される。

例:「確かに金版を所有していました」
  「劇的かつ超自然的な方法でそれらの証言が真実であることが確認されています」
  「綿密な調査が行われた結果・・・」
  「彼らの記した言葉が真正なものであることが確認さけています」
  「古代に実際に行われていた慣習であることを知っています」
  「最近明らかにた証拠と学術研究は,まさしくそのような方法でもたらされたに違いないことを指摘しています」
  「この書物は大勢の異ならた人によって執筆されたことが調査で明らかになっています」  などなど

 記者は論理的な説得や地道な証拠がためなどをしようとは一切考 えていないのである。信者の面々の思い込みを強化し、安心感を与 えればすればその目的は達成されるわけである。問題はその目的を あたかも科学的・論理的に行っているように見せかけている点であ る。モルモン教徒であるか否かを問わず、この記事に対して読者は 賢明な判断を下すべきである。


 さて、こうした一方的で身勝手な断定の方法はわが国でもそうで あるがいわば「とんでも本」系の著者、オカルト作家の筆致なので ある。この記事を読んでモルモン教徒で自称サイエンスエンターティ ナーのである、飛鳥昭雄を思い出したのはわたしだけではあるまい。 この記者、ダニエル・C・ピーターソンもその類ではないだろうか。  リアホナ日本語版は一応モルモン教内部では唯一の公式の機関誌 である。この記事の作家のプロフィールをもっと入念に調べた上で 記事として採用すべきかどうかも含めて検討し、掲載にあたっては 記者の紹介も行うべきであったのではないだろうか。

2002年11月24日追記

最近、反モルモンの女性から、ひとつの指摘をうけた。筆者ピーターソンの付いてリアホナ1998年の6月号記事にその名前があると言うのである。彼女の厚意により、その記事を入手したところ、「ブリガム・ヤング大学、イスラム教の原書を翻訳・出版する」という記事にピーターソンは同大学のアジア・中近東学教授として紹介されている。
今回批評記事を書いたのは2000年の記事であり、同氏がこの当時如何なる身分であったかは不明であるが、少なくともBYUの教授経験者であった事は事実のようである。
しかし、こうした筆者の基本的なプロフィールをリアホナ国内編集者が知らないとはどういうことだろうか。
また、教授なる身分を有した者であればなおの事、稚拙な文章、「脈路ない断言の濫発」は容認しがたいのである。
モルモン教御用大学であるBYUの実態がよくわかろうというものである。

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